冬の京都・智積院
「成田山」で知られる、千葉の成田山新勝寺。
「川崎大師」で知られる、神奈川の川崎大師平間寺。
そして最近、ミシュランで人気爆発の東京の「高尾山」にある、高尾山薬王院。
この3つの寺院は真言宗智山派の大本山。
(東京都の高幡山金剛寺「高幡不動」は別格本山)
そして全国に3000余りの末寺を有している総本山が、
五百佛山 智積院 根来寺 いおぶさん ちしゃくいん ねごろじ
その歴史は複雑で、簡単に述べると、
元々は紀州(和歌山)根来山大伝法院の塔頭であったが、豊臣秀吉の紀州攻めで、ほとんどが焼失。
その時の住職、玄宥(げんゆう)は京都に逃れます。
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、豊国神社(秀吉を祀った神社)境内の坊舎と土地が与えられ、再興されました。
その後、秀吉が三歳で夭折した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、現在に至ります。
金堂(本尊大日如来の尊像が安置)
再建された講堂
明王殿(京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡)
他にも桃山城の遺構といわれる大書院などがある。
祥雲禅寺時代の桃山時代末期に築かれた庭園(その後一部修復)
「利休好みの庭」とつたわる名勝庭園
山は「廬山」を、池は「長江」をモデルに
国宝に指定されている障壁画「楓図」・「桜図」
長谷川等伯作「楓図」
等伯の嫡男の久蔵作「桜図」
※これはレプリカです。本物は境内の収蔵庫にあります。
他に「松と葵の図」「松に秋草図」が国宝。
境内に咲いていた早咲きの梅
梅の木が満開になれば春ももうすぐ。
僕は見た事ありませんが、五月頃、名勝庭園のつつじがとても綺麗だそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
狩野正信(室町)、狩野永徳(安土桃山)、狩野光信、狩野探幽(江戸初期)、狩野山楽
歴史の教科書にも必ず名前の出る、日本絵画史上最大の画派、狩野派(かのうは)
名前は読めなくとも、作品を知らなくとも、ほとんどの人が一度は目にした事のある名だと思う。
では、長谷川等伯と言う名を知っている人は何人いるだろうか?
能登国(石川県)七尾に生まれ、30歳の時に上洛、
安土桃山時代 - 江戸時代初期、当時のカリスマ絵師集団、狩野派に強烈なライバル意識を持ち、対抗した唯一と言える絵師。
その才能が故に狩野派から警戒され、様々な妨害、圧力をかけられたと言われている。
等伯に絶好のチャンスが訪れたのは、狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去った翌年、
わずか三歳で夭折した秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺、祥雲寺の障壁画の大仕事が等伯の元に舞い込みます。
等伯は一門を引き連れ、四季というテーマのもと制作に取り組みました。
(この時の作品の一部が、国宝の楓図と桜図です)
しかし完成を前に次々と不幸が等伯を襲います。
まず完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃。
そして国宝の桜図を描いたのは等伯の息子、長谷川久蔵
等伯の才能を受け継ぎ、育て上げ、天才と言われた久蔵は、見事な桜の花を咲かせる途中、完成間近でこの世を去るのです。
その時、弱冠26歳。
その悲しみの中で息子の死の2ヶ月後、等伯は障壁画を完成させました。
晩年初めて授かった息子を失った秀吉と、将来の長谷川派を率いるはずだった、息子を失った等伯。
この障壁画の描かれた祥雲寺は今はありませんが、唯一残った、「楓図」と「桜図」
(等伯の手がけた秋の障壁画「楓図」は、秀吉の座のある部屋に描かれていたそうです)
そして利休好みの庭と伝わるお庭を前に、二人は何を思ったのでしょう。
等伯は
晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であったようです。
72歳の時、徳川家康の要請により江戸に一派の命運をかけ下向しますが、江戸到着後2日目にして病死、
同行していた、後継者となるはずの二男・宗宅も、等伯が没した翌年に亡くなっています。
お墓の場所もわかっていないそうです。
東京国立博物館に、等伯がその悲しみを背負って描いたと言われる、日本を代表する水墨画の名作「松林図屏風」(国宝)があります。
2008.1.13
「成田山」で知られる、千葉の成田山新勝寺。
「川崎大師」で知られる、神奈川の川崎大師平間寺。
そして最近、ミシュランで人気爆発の東京の「高尾山」にある、高尾山薬王院。
この3つの寺院は真言宗智山派の大本山。
(東京都の高幡山金剛寺「高幡不動」は別格本山)
そして全国に3000余りの末寺を有している総本山が、
五百佛山 智積院 根来寺 いおぶさん ちしゃくいん ねごろじ
その歴史は複雑で、簡単に述べると、
元々は紀州(和歌山)根来山大伝法院の塔頭であったが、豊臣秀吉の紀州攻めで、ほとんどが焼失。
その時の住職、玄宥(げんゆう)は京都に逃れます。
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、豊国神社(秀吉を祀った神社)境内の坊舎と土地が与えられ、再興されました。
その後、秀吉が三歳で夭折した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、現在に至ります。
金堂(本尊大日如来の尊像が安置)
再建された講堂
明王殿(京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡)
他にも桃山城の遺構といわれる大書院などがある。
祥雲禅寺時代の桃山時代末期に築かれた庭園(その後一部修復)
「利休好みの庭」とつたわる名勝庭園
山は「廬山」を、池は「長江」をモデルに
国宝に指定されている障壁画「楓図」・「桜図」
長谷川等伯作「楓図」
等伯の嫡男の久蔵作「桜図」
※これはレプリカです。本物は境内の収蔵庫にあります。
他に「松と葵の図」「松に秋草図」が国宝。
境内に咲いていた早咲きの梅
梅の木が満開になれば春ももうすぐ。
僕は見た事ありませんが、五月頃、名勝庭園のつつじがとても綺麗だそうです。
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狩野正信(室町)、狩野永徳(安土桃山)、狩野光信、狩野探幽(江戸初期)、狩野山楽
歴史の教科書にも必ず名前の出る、日本絵画史上最大の画派、狩野派(かのうは)
名前は読めなくとも、作品を知らなくとも、ほとんどの人が一度は目にした事のある名だと思う。
では、長谷川等伯と言う名を知っている人は何人いるだろうか?
能登国(石川県)七尾に生まれ、30歳の時に上洛、
安土桃山時代 - 江戸時代初期、当時のカリスマ絵師集団、狩野派に強烈なライバル意識を持ち、対抗した唯一と言える絵師。
その才能が故に狩野派から警戒され、様々な妨害、圧力をかけられたと言われている。
等伯に絶好のチャンスが訪れたのは、狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去った翌年、
わずか三歳で夭折した秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺、祥雲寺の障壁画の大仕事が等伯の元に舞い込みます。
等伯は一門を引き連れ、四季というテーマのもと制作に取り組みました。
(この時の作品の一部が、国宝の楓図と桜図です)
しかし完成を前に次々と不幸が等伯を襲います。
まず完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃。
そして国宝の桜図を描いたのは等伯の息子、長谷川久蔵
等伯の才能を受け継ぎ、育て上げ、天才と言われた久蔵は、見事な桜の花を咲かせる途中、完成間近でこの世を去るのです。
その時、弱冠26歳。
その悲しみの中で息子の死の2ヶ月後、等伯は障壁画を完成させました。
晩年初めて授かった息子を失った秀吉と、将来の長谷川派を率いるはずだった、息子を失った等伯。
この障壁画の描かれた祥雲寺は今はありませんが、唯一残った、「楓図」と「桜図」
(等伯の手がけた秋の障壁画「楓図」は、秀吉の座のある部屋に描かれていたそうです)
そして利休好みの庭と伝わるお庭を前に、二人は何を思ったのでしょう。
等伯は
晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であったようです。
72歳の時、徳川家康の要請により江戸に一派の命運をかけ下向しますが、江戸到着後2日目にして病死、
同行していた、後継者となるはずの二男・宗宅も、等伯が没した翌年に亡くなっています。
お墓の場所もわかっていないそうです。
東京国立博物館に、等伯がその悲しみを背負って描いたと言われる、日本を代表する水墨画の名作「松林図屏風」(国宝)があります。
2008.1.13
お久しぶりです!!
京都ですね!!
行かれたのですネ♪
しかも、智積院!!
今、東京国立博物館とっても気になっているんです(^0^)/3月までに足を運ぼうと思っているのですが、、、♪
期間内に行けたらまたご報告いたしますね~♪
去年のなんです(笑)すいません...
仕事が忙しく実家に帰った以外どこにも行けなくて、去年の冬に行った京都の写真を引っ張りだしてきたのです。
京都行きたいです......桜の次期にはきっと
東京国立博物館、僕も近々いきたいです!
報告楽しみにしてますね♪