まず、私がこの本と出会った経緯を話そう。十九歳の時、水戸の駅前の本屋でたまたま中公クラシックスの本を見ていた。ライプニッツの本を買おうかと、迷っていたが、彼のあまりにも神に寄りかかった姿勢を見て、買う気がうせた。そして、次に手に取ったのが「意志と表象としての世界」であった。私は、その真理の明瞭さを見抜き、興奮しながら、ホテルでその本を熟読した。私はその当時、哲学を始めたばかりでまったくの無知であった。しかし、ショーペン・ハウアーの本にはてらった箇所がない。そこに私は惹かれた。ヘーゲルや数学者への罵倒をのぞいて、私はその本に夢中になった。特に、世界は苦悩に満ちているなどの真理は激しく私の心を揺さぶった。
表象としての世界では、主観が存在しなければ、客観は存在しないと言うことが重要視されていた。この解釈は、ユングの言葉を借りれば、内的直観タイプの特性である。さらには、概念の意味などを論じていた。これをフランスの神学者アルノーが見れば、さぞかし狼狽したことであろう。それほど、彼の論理的な考えは正鵠を得ているのである。これが、意志と表象としての世界第一巻のだいたいの概要である。
次に、第二章では、意志について論じられている。意志を簡単に言うと、盲目的に生を求めるものである。盲目的に生を求めるとは、原初の未開人によく見られる。レヴィストロースの著作を読めば、意志についてのよりよい理解が得られるであろう。この章で彼はなんと、無機物にすら意志は存在すると言っているのである。これは、理解しにくいことかもしれない。この意味を最後まで理解できなかった哲学者、物理学者のボルツマンは形而下に意志をおき、これこれは実験で証明できると言っている。だが、彼の意見は的外れである。形而上学を真に理解すれば、石に意志が宿っていることが分かる。これは、スピノザの自由意志にも繋がる考えである。盲目的に動くものは何も生物だけではない。それはまさに無機物にも当てはまるのである。氷の結晶は、盲目的に働く。しかし、ここでショーペン・ハウアーは重大な誤りを犯した。それは、目的論を取り入れなかったことである。無機物の特徴は盲目性と目的論的な働きにある。これは、私がアンリ・ベルクソンの本を読んで、気づいたことである。ここまでが、一応の意志の概要である。
第三巻では、芸術に触れている。もっともほとんどの大衆は下賤で、芸術の価値を分かっていない。盲目的な意志から、解脱する方法の一つに芸術が挙げられている。純粋主観、いわゆる天才にまでなれば、完全な意志からの解脱が行われる。けれども、それは長くは続かない。純粋主観になれるのは一時のことであり、それが永久に続く訳ではない。もう一つ、第三巻で重要な部分は叡知的性格と経験的性格の違いである。叡知的性格とはプラトンのイデアを基にして、構築されたもので、絶対的に普遍である。しかし、私は不思議に思う。ショーペンーハウアーがラマルクの考えを考慮に入れなかったことである。叡知的性格も変化する。そうしなければ、進化などありえないからである。この反対に経験的性格は現代の精神療法にぴったり当てはまる。患者自身に自分のことを分析するように促し、じょじょに叡知的性格を把握できるようになる。さらに、彼はまくしたてるように音楽はイデアそのものだといっている。音楽は、我々を別世界に誘い込み、恍惚とさせる。その韻やテンポが音楽の深みである。イデアそのものの世界に私たちを引きずり込み、快感にひたらせる。ショーペン・ハウアーが述べるに「音楽とは芸術の中でも最高峰のものである。」らしい。確かに、クラシック音楽を聞いていると、自分の居場所が分からなくなる。これこそが、実存を持たないイデアの性質なのである。
第四巻では、主に倫理観が述べられている。私の頭にこびりついて、離れない名言がある。「哲学者は倫理は説くが、賢者になる必要はない。」と。ショーペン・ハウアーは徹頭徹尾、倫理を説く。それも、現実的な視点から説くから、たまったもんじゃない。世界の終焉や悪人が善人になると言う精神医学を先取りした意見を述べている。世界は苦悩に満ちている。それを看破するのは仏教であると彼は述べる。ストア派のような極端な禁欲主義は別として、仏教には救いの道があると述べている。涅槃にたどり着くために仏教徒たちは厳しい自己抑制をする。その悟りから、マーヤーのヴェールに包まれたこの世が見えてくるのである。これは、決して
自己犠牲ではない。あるのは、真の悟りを得た人々が死をも厭わずそれに果敢に向かっていく姿勢である。彼は、最後に自殺についての省察を書いているが、それは的外れであり、後年になった彼もそれとは反対のことを述べているぐらいだ。私がもっとも支持したいのは、作家ヘルマン・ヘッセの態度である。彼は、首尾一貫して、自殺の問題に関して、終生中立的な立場に立っている。まあ、何事も人間には解けない問題があるということである。
表象としての世界では、主観が存在しなければ、客観は存在しないと言うことが重要視されていた。この解釈は、ユングの言葉を借りれば、内的直観タイプの特性である。さらには、概念の意味などを論じていた。これをフランスの神学者アルノーが見れば、さぞかし狼狽したことであろう。それほど、彼の論理的な考えは正鵠を得ているのである。これが、意志と表象としての世界第一巻のだいたいの概要である。
次に、第二章では、意志について論じられている。意志を簡単に言うと、盲目的に生を求めるものである。盲目的に生を求めるとは、原初の未開人によく見られる。レヴィストロースの著作を読めば、意志についてのよりよい理解が得られるであろう。この章で彼はなんと、無機物にすら意志は存在すると言っているのである。これは、理解しにくいことかもしれない。この意味を最後まで理解できなかった哲学者、物理学者のボルツマンは形而下に意志をおき、これこれは実験で証明できると言っている。だが、彼の意見は的外れである。形而上学を真に理解すれば、石に意志が宿っていることが分かる。これは、スピノザの自由意志にも繋がる考えである。盲目的に動くものは何も生物だけではない。それはまさに無機物にも当てはまるのである。氷の結晶は、盲目的に働く。しかし、ここでショーペン・ハウアーは重大な誤りを犯した。それは、目的論を取り入れなかったことである。無機物の特徴は盲目性と目的論的な働きにある。これは、私がアンリ・ベルクソンの本を読んで、気づいたことである。ここまでが、一応の意志の概要である。
第三巻では、芸術に触れている。もっともほとんどの大衆は下賤で、芸術の価値を分かっていない。盲目的な意志から、解脱する方法の一つに芸術が挙げられている。純粋主観、いわゆる天才にまでなれば、完全な意志からの解脱が行われる。けれども、それは長くは続かない。純粋主観になれるのは一時のことであり、それが永久に続く訳ではない。もう一つ、第三巻で重要な部分は叡知的性格と経験的性格の違いである。叡知的性格とはプラトンのイデアを基にして、構築されたもので、絶対的に普遍である。しかし、私は不思議に思う。ショーペンーハウアーがラマルクの考えを考慮に入れなかったことである。叡知的性格も変化する。そうしなければ、進化などありえないからである。この反対に経験的性格は現代の精神療法にぴったり当てはまる。患者自身に自分のことを分析するように促し、じょじょに叡知的性格を把握できるようになる。さらに、彼はまくしたてるように音楽はイデアそのものだといっている。音楽は、我々を別世界に誘い込み、恍惚とさせる。その韻やテンポが音楽の深みである。イデアそのものの世界に私たちを引きずり込み、快感にひたらせる。ショーペン・ハウアーが述べるに「音楽とは芸術の中でも最高峰のものである。」らしい。確かに、クラシック音楽を聞いていると、自分の居場所が分からなくなる。これこそが、実存を持たないイデアの性質なのである。
第四巻では、主に倫理観が述べられている。私の頭にこびりついて、離れない名言がある。「哲学者は倫理は説くが、賢者になる必要はない。」と。ショーペン・ハウアーは徹頭徹尾、倫理を説く。それも、現実的な視点から説くから、たまったもんじゃない。世界の終焉や悪人が善人になると言う精神医学を先取りした意見を述べている。世界は苦悩に満ちている。それを看破するのは仏教であると彼は述べる。ストア派のような極端な禁欲主義は別として、仏教には救いの道があると述べている。涅槃にたどり着くために仏教徒たちは厳しい自己抑制をする。その悟りから、マーヤーのヴェールに包まれたこの世が見えてくるのである。これは、決して
自己犠牲ではない。あるのは、真の悟りを得た人々が死をも厭わずそれに果敢に向かっていく姿勢である。彼は、最後に自殺についての省察を書いているが、それは的外れであり、後年になった彼もそれとは反対のことを述べているぐらいだ。私がもっとも支持したいのは、作家ヘルマン・ヘッセの態度である。彼は、首尾一貫して、自殺の問題に関して、終生中立的な立場に立っている。まあ、何事も人間には解けない問題があるということである。