この本は、原初時代に登場した一時の閃光であった。プラトンいわく「人間たちは、鎖につながれ、外に出ることを許されない。ある男が外に出て行って、陽光を見たと、皆に伝えると、彼らは首を横に振った。所詮、人間は他人の影を見るだけで、決して外の陽光を見ることができないのである。」。
これがイデアの発端である。主に彼の著作のほとんどは、対話式で書かれていて、ソクラテスを引き合いに出す場合が多い。饗宴にしても、ソクラテスの弁明にしても、現実描写がしっかりとなされている。確かに、ソクラテスが書いた著作は残されていない。その代わり弟子のプラトンが書いた著作は多数残されている。私から言わせれば、紀元前に書かれたとは思えないほどの明晰な真理が多数残されている。だが、プラトンの弟子たちの意見はまちまちでプラトンは椅子にもイデアが存在したといっていたらしい。これはおかしなことだ。絶対普遍のイデアが、消え去る椅子に存在するはずはない。プラトン自身も明確にイデアの本性を捉えてなかったことが、弟子たちの意見からうかがえる。そして、中世に入るまで彼の真理は不可解なものとして扱われた。マルクス・アウレーリスは別として、プラントンの述べる「哲学者が政治の実権を握るべきだ」という意見は、実行されていない。彼の真意は、こうであったろう。「あらゆる学問を修めた哲学者が国王になれば、善政がしかれ、人々を啓蒙する。」と。
さてはて、今の時代にそれを履行するほどの人物がいるのであろうか?いくら政治学を修めても、それは役に立たない。なぜなら、政治学とはソフィスト(詭弁者)のことであり、人心掌握を主な仕事とするからである。それに比べて、哲学者は徹頭徹尾、真理を求め、理想主義に堕さない。ジャン・ジャック・ルソーの理想論を掲げて、民衆を道徳に目覚めさせようとしたマクシミリアン・ロベス・ピエールは別問題として、本当の哲学者は現実主義者なのである。バークリーやアリストテレスは政治に関心がなかった。ショーペン・ハウアーもそうである。どうやら、文学者には野心を持った人々が多いようである。エミール・ゾラやサルトルも政治活動に積極的に参加している。サルトルは、第二次世界大戦の時に政治論文を書き、ナチスを非難した。これと同様のことをキケロも行っている。それは「キケロ弁論集」に出ている。私はここではっきり述べたい。プラトンは理想主義者ではなく、現実主義者であったということを。
かくいう私も現実主義者である。クレッチュマーの「体格と性格」で言えば、循環型である。循環型とは自然科学者に多い。その反対に哲学者はやせている場合が多い。シェリング以来の哲学者はだいたいやせている。これは、分裂病気質を示している。分裂病気質とは、内向的、自閉的、理想主義的な人のことを言う。私はプラトンの多弁な性格から、彼を循環型と推測する。キケロも同じである。旅行好きで、方々を歩き回っている。
私事になるが、私は第三の政治哲学者としての道を切り開きたいと思っている。皆様はどだいそんなことは、無理だろうと思われるであろう。だが、神々しいイエス・キリストのようなヴェールをはおえば、それは無理ではない。絶対的に不可侵な領域を作り、永遠の玉座を作る。圧制者たりゆえんに、私は支配者である。
これがイデアの発端である。主に彼の著作のほとんどは、対話式で書かれていて、ソクラテスを引き合いに出す場合が多い。饗宴にしても、ソクラテスの弁明にしても、現実描写がしっかりとなされている。確かに、ソクラテスが書いた著作は残されていない。その代わり弟子のプラトンが書いた著作は多数残されている。私から言わせれば、紀元前に書かれたとは思えないほどの明晰な真理が多数残されている。だが、プラトンの弟子たちの意見はまちまちでプラトンは椅子にもイデアが存在したといっていたらしい。これはおかしなことだ。絶対普遍のイデアが、消え去る椅子に存在するはずはない。プラトン自身も明確にイデアの本性を捉えてなかったことが、弟子たちの意見からうかがえる。そして、中世に入るまで彼の真理は不可解なものとして扱われた。マルクス・アウレーリスは別として、プラントンの述べる「哲学者が政治の実権を握るべきだ」という意見は、実行されていない。彼の真意は、こうであったろう。「あらゆる学問を修めた哲学者が国王になれば、善政がしかれ、人々を啓蒙する。」と。
さてはて、今の時代にそれを履行するほどの人物がいるのであろうか?いくら政治学を修めても、それは役に立たない。なぜなら、政治学とはソフィスト(詭弁者)のことであり、人心掌握を主な仕事とするからである。それに比べて、哲学者は徹頭徹尾、真理を求め、理想主義に堕さない。ジャン・ジャック・ルソーの理想論を掲げて、民衆を道徳に目覚めさせようとしたマクシミリアン・ロベス・ピエールは別問題として、本当の哲学者は現実主義者なのである。バークリーやアリストテレスは政治に関心がなかった。ショーペン・ハウアーもそうである。どうやら、文学者には野心を持った人々が多いようである。エミール・ゾラやサルトルも政治活動に積極的に参加している。サルトルは、第二次世界大戦の時に政治論文を書き、ナチスを非難した。これと同様のことをキケロも行っている。それは「キケロ弁論集」に出ている。私はここではっきり述べたい。プラトンは理想主義者ではなく、現実主義者であったということを。
かくいう私も現実主義者である。クレッチュマーの「体格と性格」で言えば、循環型である。循環型とは自然科学者に多い。その反対に哲学者はやせている場合が多い。シェリング以来の哲学者はだいたいやせている。これは、分裂病気質を示している。分裂病気質とは、内向的、自閉的、理想主義的な人のことを言う。私はプラトンの多弁な性格から、彼を循環型と推測する。キケロも同じである。旅行好きで、方々を歩き回っている。
私事になるが、私は第三の政治哲学者としての道を切り開きたいと思っている。皆様はどだいそんなことは、無理だろうと思われるであろう。だが、神々しいイエス・キリストのようなヴェールをはおえば、それは無理ではない。絶対的に不可侵な領域を作り、永遠の玉座を作る。圧制者たりゆえんに、私は支配者である。