まずもって作家というものを職業に解すべきではない。もし作家で飯を食っていくとなると、売れる本を書かなければならない。しかし飛ぶように売れる本とはほとんどは駄作、贋作である。つまらない冗談が後々まで尾を引き、物語を冗漫にする。これが売れる本の真意である。現在まで残っている作家で飯を食えた人間の本はゲーテぐらいのものであろう。ヘルマン・ヘッセの「郷愁」もその一つに入れたいが、やはりあの本も冗漫さを抜け切れていない。長々と文章を書き、それをわざわざ読者に見せる。こんな事は目に毒である。まさに「百害あって、一利なし」である。これがベストセラー作家の正体である。大衆受けする作品など五万とある。そしてその作品のどれもが普遍性を持たず、意義も無く、全ての凡俗な精神を代表するくだらない駄作である。要するにこのような作品を書く作家は心構えがしっかりとしていないのである。心構えが無ければ、なんらの思想もわかず、冗漫な千年一日の日々を過ごすだけである。そこでだ、そこで改心するために作家というものの意味を考えなければならないのである。職業としての作家ではなく、作家としての作家の意味を。
では考えてみよう。まず作家とは功利主義であってはならない。要するに金本位で本を書いてはならないのである。むろん、今までのすばらしい作家の中にもやむを得ず生活費のために本を書いた人物がいる。それはリルケであるが、当然のごとく彼のその本たちは即刻、墓場行きになってしまった。彼の作品の独特の感じはこれらの廃墟の上に成り立っているといっても過言ではない。きっと彼は内気な性格で、それが病的にまで発展しかけていたのだろう。「新詩集」の中にもその病的な萌芽が見え隠れしている。
「通りすぎる格子のために疲れた豹の眼には、もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後には世界はないかと思われる
このうえなく小さい輪をえがいてまわる
豹のしなやかな かたい足なみの 忍びゆく歩みは
そこに痺れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く力の舞踏のようだ
ただ、時おり瞳のとばりが音もなく
あがると、そのとき影像は入って
四肢のはりつめた静けさを通り
心の中で消えてゆく」
これはリルケの詩の一つであるが、すでに孤独への偏愛が見える。クレッチュマーの言葉を借りれば、「深まる孤独への愛」とも言うべきものである。そしてこの奇妙な愛は彼がロダンの下から離れたときからすでに始まっていたのである。この偏愛が二十世紀を代表する詩人の本当の姿なのである。そしてまたここから作家のあるべき姿が垣間見えてくる。リルケの場合は極度の自閉的な愛であったが、作家になろうというものにもある程度の孤独に耐える訓練と孤独を文学的に昇華させる特質を身につけなければならない。常に文学者とは孤独なのだ。もし友達と道を歩いていれば、会話に夢中になり、些細な情景を見逃す。この事から言っても孤独になり、観察眼をやしなわなければならないのである。またこれとは反対の場合もある。それは人間関係に客観的な冷やかな眼を向け、彼らを凝視する事である。さすれば、人間関係の色々な面が見えてくるのである。
だがこれら全てをひっくるめても作家の心構えの一割すら、述べてはいない。とりあえず、述べておくが最終的には本人の性格や気質が何をやるにしても関係してくる。そしてそれは自己を深く洞察する事によって始めて手に入るものである。したがって、私は作家の心構えの一割すら、述べられない訳である。
最後に言うが、この私の見解をいい加減と取るか、それとも真理と取るかは読者にお任せする。「物事には必ず、闇と光が存在する。それは一見相反するものである。しかしまたそれは調和を以って、我々に迫ってくる。」
では考えてみよう。まず作家とは功利主義であってはならない。要するに金本位で本を書いてはならないのである。むろん、今までのすばらしい作家の中にもやむを得ず生活費のために本を書いた人物がいる。それはリルケであるが、当然のごとく彼のその本たちは即刻、墓場行きになってしまった。彼の作品の独特の感じはこれらの廃墟の上に成り立っているといっても過言ではない。きっと彼は内気な性格で、それが病的にまで発展しかけていたのだろう。「新詩集」の中にもその病的な萌芽が見え隠れしている。
「通りすぎる格子のために疲れた豹の眼には、もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後には世界はないかと思われる
このうえなく小さい輪をえがいてまわる
豹のしなやかな かたい足なみの 忍びゆく歩みは
そこに痺れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く力の舞踏のようだ
ただ、時おり瞳のとばりが音もなく
あがると、そのとき影像は入って
四肢のはりつめた静けさを通り
心の中で消えてゆく」
これはリルケの詩の一つであるが、すでに孤独への偏愛が見える。クレッチュマーの言葉を借りれば、「深まる孤独への愛」とも言うべきものである。そしてこの奇妙な愛は彼がロダンの下から離れたときからすでに始まっていたのである。この偏愛が二十世紀を代表する詩人の本当の姿なのである。そしてまたここから作家のあるべき姿が垣間見えてくる。リルケの場合は極度の自閉的な愛であったが、作家になろうというものにもある程度の孤独に耐える訓練と孤独を文学的に昇華させる特質を身につけなければならない。常に文学者とは孤独なのだ。もし友達と道を歩いていれば、会話に夢中になり、些細な情景を見逃す。この事から言っても孤独になり、観察眼をやしなわなければならないのである。またこれとは反対の場合もある。それは人間関係に客観的な冷やかな眼を向け、彼らを凝視する事である。さすれば、人間関係の色々な面が見えてくるのである。
だがこれら全てをひっくるめても作家の心構えの一割すら、述べてはいない。とりあえず、述べておくが最終的には本人の性格や気質が何をやるにしても関係してくる。そしてそれは自己を深く洞察する事によって始めて手に入るものである。したがって、私は作家の心構えの一割すら、述べられない訳である。
最後に言うが、この私の見解をいい加減と取るか、それとも真理と取るかは読者にお任せする。「物事には必ず、闇と光が存在する。それは一見相反するものである。しかしまたそれは調和を以って、我々に迫ってくる。」