A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

頭の良い人の話しぶり

2007年02月02日 22時28分51秒 | 思想、警句
 さて、頭の良い人と話している最中に一番困るのは彼らの話し方である。常に一歩先を走っているために話の内容がごちゃごちゃになる。そのすさまじきは常軌を逸している。私もそうなのだが、話している途中に次々と情報が入ってくるためにいろんな事で頭がごった返すのである。急に問題の結論を言い当てたりするのも、彼ら特有の現象であろう。それを聴いている一般の人々の事を彼らは考えない。というより、考えにすら及ばないといった方が正しい。はなはだしきはその思考方法である。これは特に肥満型の頭の良い人に多いが、思考方法が直観的なために答えのみをさきに抽出してしまうのである。私もこの間、大学生に天文学の恒星間の距離の出し方を聴かれ、直観的に答えだけを述べてしまい、相手が閉口してしまった事がある。この時はさすがに私も不注意だと思い、がんばって説明をしたが、結局分からずじまい。まあ、それより試験が近いのに一夜漬けで天文学をやろうとする相手も馬鹿だったのであろう。天文学はそんなやわなものではないのである。
 と言っている矢先にも話がずれてきてしまっているようだ。この癖はなかなか直らないものである。癖というより先天的なものといったほうが正しいであろう。あまりに頭の回転が速いと物事をすっ飛ばして言ってしまう。これが頭の良い人の思考原理である。
 最後に言っておくが、自分の頭の良さを隠すやつほど陰険な奴はいない。彼らは周りの無知を尻目に悦にはいっているのである。これは不道徳である。よっぽど、自分の頭の良さを隠さない人の方が陰険ではない。彼らは唯、単に正直なだけである。そして人々が頭の良さを隠さない人を嫌がるのは、自分には無いものを持っているのをまざまざと見せ付けられるからである。これは人間の根本的な本性である。とにかく、頭の良い人が自分でそれを親告した時は、客観的に判断を下すべきである。頭の良い人にしても悪気があって、そうしている訳ではない。彼らは唯、純粋なのである。そう、純粋さこそ頭の良い人のもっとも重要な知恵である。そこに謙虚などという戯言を述べてもしょうがない。
「天才にとって、謙虚さほど馬鹿らしい事はないのである。」
 そして締めくくりを言うと、万物は平等に出来ている。頭の良い人は未来への憂慮が激しいため、厭世的に世を見る。反対にのんびりしている人は世の中を楽観的に解釈する。芥川龍之介、ヘミングウェイなどが自殺したのも彼らの厭世的な考えを基にしている。要するに他人の庭はきれいに見えるということである。自分が持っていないものを人は欲しがる。その結果、頭の良い人はのほほんとしている人をうらやましく思う。反対にのほほんとしている人は、頭の良さをうらやましく思う。しかしこれはどっちもどっちである。いくらがんばっても完璧な人間など出来ない。これだけは真実である。
 「精神の釣り合い」という言葉がある。これを説明するのは簡単である。実験用のはかりを思い出して欲しい。その片方に重いものを乗せると、もう片方が下がる。また、反対の事も言える。これと同じく精神も釣り合いを携えている。一方が下がれば、一方が上がるという仕組みである。
 これをもっと簡略化して述べれば、こういう話を持ってこない訳にはいかない。断っておくが、あくまでこれは挿話なので、難しいは事は語らない事にする。
 あるサーカスを見ていた金持ちのおじさんがいた。その太っちょのおじさんはサーカスの団員を見て、彼らをうらやましく思った。華麗なるダンスや曲芸を見て彼はそう思ったのである。しかし反対に団員は金持ちをうらやましがった。なぜなら、彼には女をはべらせて、特等席に座っている金持ちがうらやましかったのである。
 この話から大体の事は分かっていただけたと思う。他人の庭はいつまでもきれいに見えるその理由が分かっていただけだと思う。
 そしてこれは天才に限った事であるが、デカルトの「情念論」に出てくるような人間が人々を啓蒙するのであるそれから、この系譜は続いている。頭の良い人は時に感情的になりやすい。これはデカルトの「エリザベト書簡」に詳しい。かのニールス・ボーアもその例外ではなかった。彼は天才的な手法で物理学の新しい道を発見した人物である。だが、その彼も激情をしばしば起こした。これはボーアの弟子のハイゼンベルクの自伝に記されている。

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