後白河天皇ウィキより
昨日の大河ドラマ『平清盛』の後半はウィキでみると
こんな感じです。
清盛は、11月14日にクーデターを起こす(治承三年の政変)。
松殿基房・師家父子は直ちに罷免されるが、これは天皇の公式命令である
宣命・詔書によって執行された。
院政は天皇の後見であることを権力の源泉としていたため、
天皇の側が独自の支持勢力を背景に攻撃を仕掛けてくると抵抗できないという
構造的な弱点を抱えていた。
清盛の強硬姿勢に驚いた後白河院は静憲を派遣して
「自今以後、万機に御口入有るべからざる(今後二度と政務に介入しない)」
(『百錬抄』11月15日条)ことを申し入れるが、
20日、住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となった。
ここに後白河院政は完全に停止された。
ちなみに、大河ドラマ『平清盛』の前半には、
後白河法皇は、重病になった平重盛と
むりやり『双六あそび』をする暴挙を行っています。
さすがに・・・・・
ウィキでこう書かれている
↓
6月21日、後白河院は小松殿に御幸し、重病の平重盛を見舞った
(『山槐記』同日条)。
重盛は平氏一門では親院政派であり、清盛との対立を抑える最後の歯止めだった。
・・・・
・・・・重盛に対する仕打ちとしては、とんでもない仕打ちで、
さすがのわたしもはらわたが煮えくり返る気持ちで
その場面をみていました。
でも、客観的にみたら、『大河ドラマ平清盛の最大の見せ場』
だったのかもしれません。
あれが原因で重盛が亡くなって、治承三年の政変が
起きたのなら、まあそれはそれで、しゃ~ない。
後白河院の不徳の致す所なのだろうと・・・・。
しかし、ウィキによると後白河法王は
•一旦使い捨てた相手や対立した相手でも、時が過ぎればそれを受け入れる
度量も有しており、
藤原頼長の子・師長は太政大臣となり、
信西の子供達を公卿に取り立て、
二条親政派として罰した大炊御門経宗はその後左大臣を20年以上務め、
一度は蔑ろにした近衛基通は寵臣となり、
一度は流刑にして前代未聞の比叡山攻撃を計画させる原因を作った
天台座主・明雲も最後は後白河のために法住寺合戦で討死するほどの
親密な関係になっている。
と、まあ、凄い所も持ち合わせている人でもあります。
その辺はドラマの演出とみて、さくっと
みちゃいましょう(笑)
そういうわけで、清盛さん、後白河法皇を幽閉して、
権力を掌握。ついに日本の最高の頂にたったのでした。
・・・・これが西洋や中国だったら、
法王さん、重盛の一件もあるので『幽閉』という名の
餓死になってたに違いないと思うのですが
・・・・・。
まっ、でも・・・・
全盛期のそこからの眺めって・・・・・
大河ドラマのあのBGMが『寂しく』聞こえ、
演出も充実感というよりも『寂寥感』すら
でてくる感じで・・・・。
なんか意外と切ないドラマですねっ。
今まで、武家を頂点にするために、邁進してたのに・・・・・。
後ろからは確変しちゃった源頼朝・北条政子に
その地位を狙われ・・・・・。
いやぁ~~~~、後1ヶ月ですよ。
ほんと、楽しみですねぇ~~~~。