「条約改正の緊急性と比べたら、
とるに足らないことでしょう」
伊藤博文は大隈重信にそう言った。
つい数年前は国会内で対立しており、
政敵として放逐した当の本人が言う言葉にしては、
あまりにも異様過ぎるような言葉ではあった。
大隈重信、外務大臣承諾っ!!
国家の為に『私怨』を捨てた決断であった。
その頃、元同志社の徳富猪一郎さんが、
(後に東条英機さん、山本五十六さん、正力松太郎さん、
中曽根康弘さんとも交友があったある意味凄い人)
いろんな働きもあって、同志社を大学にする為に
奔走していました。
その活動のおかげもあってかどうかは
ぬぼ~~~っと、見ていてもあまりわからないのですが、
いつの間にか「東の福沢(諭吉)西の新島(襄)」と
言われるようになっていました。
そういうわけで、大学の資金集めの為に東京に出向いた、
襄と八重夫妻。
大隈重信さんは、襄の為に懇談会を開いてもらい、
有力者から大学への寄付を集め、
現在で言う億単位の寄付を集めることに
成功しました。
そして、
勝海舟の家でいろいろと相談に乗ってもらい、
徳富蘇峰(猪一郎)の発信力を頼って、全国へ
大学への寄付のお願いの檄文を次々と
書きました。
順調にみえたように端からみたら見えるのですが、
新島襄には心臓の病があり、その死病と
向き合う毎日でもありました。
夏、襄の静養の為に鎌倉・・・・・
射的でも八重さんの実力は抜きん出ていて、
次々と的に命中。
「よし 命中っ !」
会津戦争の時の、あの懐かしい言葉が帰ってきました。
襄には、「わたしに勝つなんて10年早い」と
言い、
「10年か・・・・」と嘆かせています。
そう、後10年も生きられない・・・
と襄は思っています。
そうそう、
元・京都府知事のまきむらさんが
今頃 のこのこと出てきて『同志社』に
寄付をしてくれました。
「あのぉ~~~~、顔見世興行ですか・・・・」(笑)
さすがにここは笑う所か。
少なくとも『貴族院』に行くおっちゃんじゃなくて、
その辺のおっさんといった風貌でありました。
ただ、蝉時雨が、新島さんの残りの時間が無く、切迫
しているのを更に強調しているような・・・・
そんな感じを受けました。
八重さん、新島さんの主治医に、後1回発作が起これば、
心臓が持たない事を知らされ、襄には
内緒にするように・・・・と、
言われるのですが、
余りにも嘘をつくのが下手すぎた・・・・・
新島さんにあっさりと看破され、
「こわいのは死ぬことではなく、
覚悟もできず、支度もできずに死ぬことです。」
と言われ、あっさりと心臓のことを白状・・・・・。
やっぱ、八重さん、そういう性格なのね・・・・(笑)
「襄が死ぬなら大学なんて無くていい」とは
言うものの、
「大学は誰でも作れますが、
わたしが種をまかなければならないのです」
夫の戦(いくさ)を手伝うことにした八重さん、
二人は涙を流しながら抱き合うのでした。
ふたりが寝ている時も、八重さんの事を心配して、
「心配しなくても、まだ息をしていますよ。」
と、ユーモアで返す襄でしたが、
その直後に倒れてしまい、
「死がわたしに追いついてしまう!!」
と鬼気迫る状況。
あまりの急変・・・・。
そこまでの緊迫感を与えながらも、
なんとか粘りこむ、新島襄。
今日はなんとか
息切れしながらも生き延びることが
できました。
ふうっ、良かった・・・・。
さて次回は・・・・
ああ・・・・・。
こてくんでした。
PS・バックの時計の音が、新島襄の残りの命数を
暗示しているようで・・・・。
命を削っている感じを受けました。
とるに足らないことでしょう」
伊藤博文は大隈重信にそう言った。
つい数年前は国会内で対立しており、
政敵として放逐した当の本人が言う言葉にしては、
あまりにも異様過ぎるような言葉ではあった。
大隈重信、外務大臣承諾っ!!
国家の為に『私怨』を捨てた決断であった。
その頃、元同志社の徳富猪一郎さんが、
(後に東条英機さん、山本五十六さん、正力松太郎さん、
中曽根康弘さんとも交友があったある意味凄い人)
いろんな働きもあって、同志社を大学にする為に
奔走していました。
その活動のおかげもあってかどうかは
ぬぼ~~~っと、見ていてもあまりわからないのですが、
いつの間にか「東の福沢(諭吉)西の新島(襄)」と
言われるようになっていました。
そういうわけで、大学の資金集めの為に東京に出向いた、
襄と八重夫妻。
大隈重信さんは、襄の為に懇談会を開いてもらい、
有力者から大学への寄付を集め、
現在で言う億単位の寄付を集めることに
成功しました。
そして、
勝海舟の家でいろいろと相談に乗ってもらい、
徳富蘇峰(猪一郎)の発信力を頼って、全国へ
大学への寄付のお願いの檄文を次々と
書きました。
順調にみえたように端からみたら見えるのですが、
新島襄には心臓の病があり、その死病と
向き合う毎日でもありました。
夏、襄の静養の為に鎌倉・・・・・
射的でも八重さんの実力は抜きん出ていて、
次々と的に命中。
「よし 命中っ !」
会津戦争の時の、あの懐かしい言葉が帰ってきました。
襄には、「わたしに勝つなんて10年早い」と
言い、
「10年か・・・・」と嘆かせています。
そう、後10年も生きられない・・・
と襄は思っています。
そうそう、
元・京都府知事のまきむらさんが
今頃 のこのこと出てきて『同志社』に
寄付をしてくれました。
「あのぉ~~~~、顔見世興行ですか・・・・」(笑)
さすがにここは笑う所か。
少なくとも『貴族院』に行くおっちゃんじゃなくて、
その辺のおっさんといった風貌でありました。
ただ、蝉時雨が、新島さんの残りの時間が無く、切迫
しているのを更に強調しているような・・・・
そんな感じを受けました。
八重さん、新島さんの主治医に、後1回発作が起これば、
心臓が持たない事を知らされ、襄には
内緒にするように・・・・と、
言われるのですが、
余りにも嘘をつくのが下手すぎた・・・・・
新島さんにあっさりと看破され、
「こわいのは死ぬことではなく、
覚悟もできず、支度もできずに死ぬことです。」
と言われ、あっさりと心臓のことを白状・・・・・。
やっぱ、八重さん、そういう性格なのね・・・・(笑)
「襄が死ぬなら大学なんて無くていい」とは
言うものの、
「大学は誰でも作れますが、
わたしが種をまかなければならないのです」
夫の戦(いくさ)を手伝うことにした八重さん、
二人は涙を流しながら抱き合うのでした。
ふたりが寝ている時も、八重さんの事を心配して、
「心配しなくても、まだ息をしていますよ。」
と、ユーモアで返す襄でしたが、
その直後に倒れてしまい、
「死がわたしに追いついてしまう!!」
と鬼気迫る状況。
あまりの急変・・・・。
そこまでの緊迫感を与えながらも、
なんとか粘りこむ、新島襄。
今日はなんとか
息切れしながらも生き延びることが
できました。
ふうっ、良かった・・・・。
さて次回は・・・・
ああ・・・・・。
こてくんでした。
PS・バックの時計の音が、新島襄の残りの命数を
暗示しているようで・・・・。
命を削っている感じを受けました。