小説家 夢咲香織のgooブログ

私、夢咲香織の書いた小説を主に載せていきます。

SF小説 ホロスコープの罠 06美樹

2021-06-09 23:16:56 | 小説

 それから俺と清美は全くの他人同士になった。清美はあの日以来、もうバスに乗って来る事は無かったし、学校で俺と会っても、目を合わせる事も無かった。俺も結局、清美を見かけても話しかける事もせずに、ただ目を伏せて通り過ぎるのだった。そんな学校生活が苦しくなかったと言えば嘘になる。だが学生である以上、学校に通わない訳にはいかなかったし、それは清美だって同じだった。俺達は気まずい空気の様な関係のまま、三年間を過ごした。

 結局俺は高校時代に、清美の他に好きになった女性は居なかった。清美に振られた落ち込みが酷かったせいもあるが、半年程経ってようやく気持ちが上向いても、他の女に興味を惹かれる事はなかったのだった。もしかしたら、あのホロスコープのお告げのせいで恋愛から逃げていたのかも知れないが、とにかく、新しい彼女を作る事もなく、俺は卒業を迎えたのだった。

 高校を卒業した俺は、すぐに小さな出版社に就職した。俺の仕事は、作家から送られてきた小説やらビジネス書やらの文章を校正する事だった。特にこの仕事がやりたかった訳ではない。というか、そもそも俺には取り立ててやりたい事などなかったのだ。卒業する数ヶ月前に高校の新卒用の企業の張り紙を見てなんとなく決めたのだった。入社試験を受けたら受かってしまったので、ここで働いているだけである。

 入社して三年も経つと、もう俺は清美の事は忘れていた。いや、時々思い出して胸が少しチリチリするがそれだけだ。それに、俺には新しい想い人がいた。彼女は時々わが社に原稿を納めに来る小説家の女で、美樹という名だった。俺より二つ年上で、背はそれほど高くないが、メリハリの効いたグラマーな体をした、中々の美人だった。猫の様な大きな黒い瞳がセクシーで、俺は彼女を一目見てたちまち恋に落ちたのだった。

 今時は普通なら原稿は電子データでやり取りするのが普通なのだが、美樹はどういう訳か、手渡しに拘った。

「だって、電子データじゃ、いかにも味気無いじゃない? 魂が無いっていうか」

これが彼女の口癖だった。お陰で校正も手書きでする事になるのだが、いつもコンピューターにばかり向き合っている俺にとっては、それも悪く無かった。今日も美樹はオフィスにやって来ると、編集としばらく打ち合わせした後、俺の所へやって来た。

「はーい、海君。頑張ってるわね?」
美樹は明るい茶色に染めた長い髪を片手でかき上げながら、俺のデスクに肘を付いて、俺の顔を覗き込んだ。甘い香水の香りが俺の鼻腔をくすぐって、何だかその香り嗅いだだけで、彼女にからかわれている様な気がした。そしてそれは、中々気分の良いものだった。
「ええ。仕事ですからね」
俺は出来るだけ素っ気なく答えた。
「ふーん。相変わらず真面目なのねえ……ね、今日仕事が終わったら、飲みに行かない?」
「えっ? 美樹さんと二人でですか?」
思いがけない誘いに俺の心臓は急激に鼓動のペースを上げた。俺は彼女に自分の心臓の音が聞こえやしないか、と狼狽えた。
「もちろんそうよ~」
「あの、でも、どうしてです?」
「どうしてって……飲みに行くのにそんなに理由が必要かしら?」
美樹は派手なローズピンクの口紅で縁取られた唇を大きく開いて形の良い笑顔を作って笑う。真っ白な形の良い歯がまるで真珠の様に煌めいて、それを見ただけで俺はもう彼女の虜だった。
「そうですよね……ええと、じゃあ今日は7時頃に上がるんで……」
「分かったわ。7時にまた来るわ。じゃね!」
軽くウィンクすると、美樹はオフィスを出ていった。

「おい、海! やったな!」
同僚の小林が向かいの席から立ち上がって、ニヤニヤと薄笑いを投げて寄越した。
「やったなって、飲みに行く約束しただけだぜ」
「ふふん。そっか、お前は知らないんだっけな」
小林はさもいわくありげといった目付きで俺を窺うように見詰める。
「何だよ」
「あの女な、小説家やってる合間に水商売で稼いでるんだぜ。噂じゃ、そこの常連客に体を売ったりもしてるって」
俺は愛しい彼女を侮辱された様な気がして、小林に噛みついた。
「だから何だよ! 仮にそうだとしたって、お前には関係ない事だろ。あの人は作家で、俺達は原稿もらって出版する、それだけだろ」
「そりゃ……まあ、そうだけどな。ま、あれだ。そういう女な訳だから、お前も本気で誘われたとか思わないこった」
小林は憐れみを含んだ目で俺を見ると、席に着いた。

 体を売ってる……小林から聞いたその一言が気にならない訳ではなかったが、俺が美樹に惚れているという事実に変わりはなかった。その時の俺は、憧れの美樹から誘いを受けたというだけで嬉しかったのだ。取り立てて魅力的でもない冴えない俺に彼女が目をかけてくれた――その事実だけで十分だった。


SF小説 ホロスコープの罠 05別れ

2021-06-08 17:43:42 | 小説

 それから俺達はとても良い雰囲気で付き合いを続けていた。俺は清美の透き通ったうなじを見るたびに、押さえきれない欲求を感じた。

――清美を抱きたい――

その度に何とか押さえようとするのだが、俺の動物的本能は消え去ることはなかった。ある休日、清美は俺の家に遊びに来た。これは天祐だ。俺は何とかしてこのチャンスをモノにすべく、あれこれ考えていた。どうやったら清美をベッドへ誘えるのか? 俺の頭はその事で一杯だった。

「何か飲む? コーヒーで良いかな?」
俺は焦る心を落ち着かせながら清美に聞いた。明るい日差しが窓越しに清美の頬を照らして、彼女の白い肌はいつも以上に際立って輝いていて、俺は思わず見とれた。
「ええ、良いわ――私の顔に何か付いてる?」
俺の視線に気付いた清美はにっこり笑ってそう訊いた。
「い、いや、何でもないよ」
俺は努めて冷静さを装うと、キッチンのコーヒーメーカーにグァテマラ産の豆を入れた。スイッチを入れると豆を引く音が響いて、コーヒーの香ばしい香りが充満する。背後でソファーに座った清美の、静かな吐息の音がまるで俺の耳のすぐ近くでしている様な気がして、俺はくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちで落ち着かなかった。落としたコーヒーをカップに注ぐと、俺は出来る限りの冷静さを装って、テーブルに置いた。

「どうぞ」
「ありがとう」
清美はそう言ってニッコリ微笑むと、静かにカップに口を付けた。俺は彼女の隣に腰を下ろすと、横目で彼女の様子を伺った。清美の柔らかな桜色の唇が陶器の白いカップに接触する度、俺はこの唇が俺の体に触れたら一体どんな気持ちがするだろう? と想像して、顔が熱くなるのを感じた。

――どうすれば良いのか?

俺は清美がコーヒーを飲み終わるのを見計らうと、思い切って彼女の方へ向き直った。
「あ、あのさ……」
多分俺の声は上ずっていて聞き取りにくかったと思う。清美は少し警戒するような顔をして、
「な、何?」
とだけ答えた。俺は言葉に詰まり、そして次の瞬間清美をソファーに押し倒した。
「ち、ちょっと、海君!」
狼狽する彼女の唇を強引に奪う。次の瞬間、
「やめてよ!」
清美は有らん限りの力で俺を押し退けた。気まずい空気が部屋に充満していく。

「清美、俺――お前の事が――す……」
「待って」
清美はソファーに起き上がり、乱れた髪を手で直すと、フウッと溜め息を一つ付いた。
「私も、海くんの事は好きよ……いえ、好きだったわ。だけど、こういう関係になりたかった訳じゃないの。良いお友達でいたかったのに……残念だわ。私の事、そういう嫌らしい目で見ていたなんて」
「き、清美!」
「悪いけどもう帰るわ。それから……もう本の貸し借りも止めましょ。私との事は無かった事にして。コーヒー御馳走さまでした。じゃあね」
そう言い放つと清美は俺の方を見向きもせずに玄関へ直行し、部屋を出ていった。俺はそれ以上強引に清美を引き止める事も出来ずに、ただ呆然と彼女を見送った。

「クソッ!」
俺はソファーの肘掛けを思い切り拳で叩いた。取り返しの付かない事をしてしまったという後悔と懺悔の気持ちが胸に重苦しく広がってゆく。タイミングが早すぎたか? いや、そもそも彼女は初めから俺の事を恋の対象とは見ていなかったのだ。きっと、この先どれだけ付き合っても、俺達が結ばれる日は来なかったのに違いない――その事実は俺を打ちのめした。何故だ? 何故俺じゃ駄目なんだ? やはりルックスだろうか? 俺は洗面所へ行き、鏡を覗きこんだ。少しばかり青ざめた面長の輪郭に比較的整った目鼻立ち――男らしい精悍さとか、モデルみたいな華やかさは無いが、我ながら割とイケてる方だと思う。少なくとも醜男ではない筈だ。なら、一体何が清美のお気に召さなかったのか? 体か? 俺は自分の体を見下ろした。背はクラスでも高い方だ。ジョギングが趣味だから、デブというわけでもなく、まあ引き締まっている。それなら何で――どうしてだ?

 俺の疑問はグルグルと熱くなった頭を巡り、そして例のホロスコープの事を思い出した。
「やはりそうなのか?」
俺はホロスコープ通りに生きるしか無いのだろうか? 俺は鏡に映った自分の眼を見詰めた。じんわり涙が滲んだ。清美……好きだったのに。初恋だったのに。これ以上友達になる事さえ拒絶されてしまった……

 俺は絶望感にうちひしがれたまま、ソファーへ寝転んだ。清美が飲んだ白いカップがテーブルに残されている。もう二度と、あんな風に清美がこの部屋で俺とコーヒーを飲む事は無いのだ――そう思うといたたまれなくて、俺は思い切り泣いた。


SF小説 ホロスコープの罠 04清美

2021-06-06 09:25:37 | 小説

「本、ありがとう。面白かったよ」
俺は本を清美に返した。
「そう。なら良かったわ」
清美は柔らかく微笑むと、本をカバンにしまった。
「なあ、良かったら、これからお互いの本を貸し合いっこしないか? 俺のは電子書籍だけど」
「ええ、良いわよ」
「ありがとう。帰りもバスだろ? 一緒に帰ろうぜ」
「そうね」

 俺達は一緒にバスに乗ったが、しばらく黙って隣り合って座っていた。俺は何か話したかったが、話題を見つけられないでいた。ふと、例のホロスコープの事を話そうかと思ったが止めておいた。話したせいで、今の彼女との良い雰囲気を壊したくなかったからだ。

「読書が趣味なのか?」
俺は当たり障りの無い事を聞いてみた。
「そうよ。まあ、子供の頃から本の虫ね。海君は?」
「ふーん。俺は正直そんなに読んでないや。まあ、たまには読むけど。そうだ、貸してくれた本のお返しに……」
俺は携帯電話を取り出すと、電子書籍のストックを検索した。マルグリット・デュラスの『ラマン』を見付けると、清美にも携帯を取り出すよう促した。
「君の電子書籍ライブラリーのID教えてよ。送るから」
「分かったわ」
俺は彼女のライブラリーに電子書籍のデータを転送した。
「デュラスね」
「もしかしてこれ、読んだ事あったかな?」
「いいえ。デュラスの作品は読んだことあるけど、これは無いわ」
「そっか。なら良かった」
「『ラマン』て確か恋愛ものよね? デュラスの自叙伝的な」
「そうだよ」
「ふーん。ちょっと意外だわ」
「何がさ?」
「海君って、そういうの読む感じに見えないから」
そういって清美はクスリ、と笑う。桜色の唇から健康そうな白い歯がこぼれて、俺は思わず目を細めた。
「じゃあ、どんなの読みそうに見えるのさ?」
「そうねえ……歴史物とか、戦記物とか……とにかく、ディープな恋愛物に興味あるようには見えないわ」
「フフフ。少年の顔は一つじゃないんだぜ」
「プッ。ウフフ、それ、普通は女が言うセリフよ」

 俺は心の底から笑った。他人と一緒にいてこんなに幸せだった事は今までなかった。俺は清美との出会いを神に感謝した。もしかしたら彼女が、俺の悲惨な運命から俺を救ってくれるのかも知れない。

 それから俺達は毎日一緒に帰った。バスに揺られながら、貸し合った本について意見を交わすのが日課になっていた。『ラマン』を飲み終わった清美は、感想を話し始めた。
「恋愛物としては悲恋に当たると思うけど、良かったわ。でも、この話が主人公達が結婚して愛でたし愛でたし、だったら、きっと興醒めでしょうね」
「まあ、そうかもな。でも、俺が恋愛するなら、愛でたし愛でたしが良いよ」
「そう?」
「そうさ。俺は小説家になりたい訳じゃない。女の子と幸せになりたいさ。清美はどうなんだよ?」
「そうねえ……そりゃあ、やっぱり素敵な男性と幸せになりたいわよね」
「そうだろう? 普通はそうだよな?」
「ええ、そう思うわよ」
「な、ならさ……」

――俺と恋人同士になってみないか?

そう言いたかったが、俺の口はそこから動かなかった。例のホロスコープの画像が頭を過ったのだ。

「どうしたの?」
怪訝そうな表情で清美が俺の顔を見つめる。
「い、いや……何でもない」
そう答えた時にバスは清美が降りるバス停に着いた。
「じゃあ、また明日ね!」
清美はそう笑顔で言うと、軽やかにバスを降りて言った。

 俺は自室のベッドに仰向けに転がり、ホロスコープを眺めていた。このホロスコープ通りなら、仮に清美と恋人になれたとしても、やがては破局するのだろうか?

――嫌だ、そんなのは嫌だ!

まだお互い話すようになって日が浅いが、清美は性格の良い良い娘だ。このまま付き合ったからといって、破局に結び付きそうな要素は見付からなかった。清美が俺に惚れているかと聞かれれば、正直それは自信がないが、拒絶もされていない。このまま、二人の仲を暖めていけばやがて自然に結ばれる日が来るかも知れない。

 俺はその日が来ることを真に願った。高校を卒業したらどこかに就職して、職が決まったら清美にプロポーズする――そんな計画が頭に思い浮かんだ。ありきたりと言われればその通りだが、とにかく俺は早く結婚したかった。好きな女と結婚して幸せな家庭を築く――それが何よりの願いだ。出来れば子供ももうけて、親子で幸せになりたい。これは人間としてごく当たり前の、自然な願望ではないのか?
ホロスコープ通りに生きるより、遥かに価値のある事ではないか。俺は清美と幸せになる。そう心に決めると、俺はホロスコープを机の引き出しにしまって鍵を掛けた。こんなものはもう見るまい――その時俺の中では、不安よりも未来への期待の方が上回っていた。


SF小説 ホロスコープの罠 03誕生日

2021-06-04 09:07:22 | 小説

 今日は俺の誕生日である。だからといって特別なことは特に無いが、学校から帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。差出人は市役所だった。とうとう来たのか――俺の胸は高鳴った。自室でカバンをベッドへ放り投げ、ペーパーナイフで封筒を開けると、二枚の紙が入っていた。一枚はホロスコープの画像に、各惑星の度数が記入され、その度数の抽象的な意味が書かれた物だった。もう一枚にはホロスコープを元に解明された俺の人生のテーマが書かれている。俺は静かに書かれている文字を追った。

 幼い時に両親の離別という不条理を味わって、人の悲しみを知る事、母親を許す事が子供の頃のメインテーマだった。大人になってからも、女性関係は上手く行かず、自分とは異なる性の存在を理解し、上手く行かないことを受け入れて許す事がメインテーマとなっていた。結論から言えば、俺にはこの先幸せな結婚生活など無い、という事だった。ただし、不確定要素が一つだけあり、それは現在のホロスコープ解読技術を持ってしても解明されていなかった。海王星のエネルギーがその不確定要素を司っており、ホロスコープの度数も未知への期待、という度数であること以外は解明されていない。役所としては、不幸な運命を背負った海に同情するが、運命は決まっているし、くれぐれもホロスコープ通りに人生を全うするよう望む。未知の度数については、そもそも未知なのであるから説明のしようがないが、辛い運命にあって、そこに少しばかり期待しても良いのかもしれない。

以上が通知の内容だった。俺は通知を二度読んでから机の上に置くと、ベッドへ転がった。絶望感にうちひしがれながら天井を見詰めていると、涙が溢れてきた。子供の頃だけでなく、大人になってからも幸せな結婚生活は送れない――この通知は俺を打ちのめした。まだ高校に上がったばかりで、彼女さえ居ないというのに、今から女に絶望しなければならないとは。余りに惨すぎやしないか? だが、一縷の希望があった。海王星の度数だ。

未知への期待――

これは何だろうか? 考えたって分かるものではないが、この度数に救いを見出だせるかも知れないと俺が思ったって、不思議ではないだろう? 俺はその日、父が買ってきたケーキにも手をつけずに、早々と眠りに就いたのだった。

 半年後、何と俺にも彼女が出来た。自分でも驚きだったが、経緯はこうだ。学校に向かうバスの中で、いつも俺より一つ先のバス停から乗って来る少女がいた。少し赤茶けた髪に透き通るような白い肌をして、いつもバスに乗り込むとカバンから今時珍しい紙で製本された小説を取り出して読んでいるのだった。俺は何とかして、彼女がどんな小説を読んでいるのか知りたかった。頭に例の役所からの通知がちらついたが、ある時勇気を出して彼女に声をかけてみた。

「あの……いや、もし差し支えなければ、その本読み終わったら貸してくれないかな?」
少女は少々面食らった顔をして俺を見上げると、少し頬を赤らめて、
「ええ、良いわよ」
とだけ言った。その時の俺はかなり舞い上がっていたのだと思う。肝心の少女の名前やら、クラスやらを訊ねるのをすっかり忘れていたのだった。後になってから、突然俺にあんな風に声をかけられて、彼女は怪しんだかも知れない。明日からもうあのバスには乗って来ないかも……等と不安が胸を旋回した。

 だが次の日も彼女はバスに乗って来た。俺は内心ホッと胸を撫で下ろして、彼女があの本を読み終わるまではぞっとしておこう、と心に決めた。数日後、彼女はいつものようにバスに乗り込むと俺を探して、本を差し出した。
「ありがとう。いつまでに返せば良いかな? それと……君の名前とクラスを教えてくれないか? 俺は山下海(やましたかい)、一年Bクラスだよ」
「私も一年生よ。Aクラス。名前は、春野清美(はるのきよみ)っていうの。本は読み終わったらで良いわよ」
清美はそう言って微笑んだ。

 本はガルシア・マルケスの『百年の孤独』だった。名前はどこかで聞いたことはあるが、読んだ事はなかった。内容はとある街の百年の繁栄と滅亡を神話的に描いた物で、エピソードに次ぐエピソードという感じだが面白かった。最終的には街は近親相姦の罪のために滅ぶのだった。俺は俄然清美に興味を持ち始めた。こんな風変わりな、面白い本を読んでいたとは、彼女のいかにも大人しくて清楚な見た目からは想像もつかなかったからだ。俺は彼女となら、上手く付き合っていけそうな気がした。

 本を読み終わった俺は、放課後すぐにAクラスに駆け込み、清美を探した。教室には疎らに生徒達が帰り支度をしている。清美は後ろの方の席で、カバンに教科書を詰めている所だった。俺は焦る心を出来る限り落ち着かせながら清美に近付いた。


SF小説 ホロスコープの罠 02回想

2021-06-04 00:50:07 | 小説

 あれは俺が五才の時だった。幼稚園での一日を終え、俺は母が迎えに来るのを楽しみに待っていた。次々に友達の親が迎えに現れて、彼等と一緒に通りへ消えていった。当然、俺の母親ももうすぐ迎えに来る――その時俺は何の疑問も持たずにそう信じていた。水色の小型自動車が自動運転の大通りから外れて、母の余り上手いとは言えない自立運転に切り替わり、幼稚園の門の前で停車するのを、俺は今か今かと待ちわびた。だが車は来なかった。俺は段々と不安になり、日が西の地平に沈みかける頃には大声を上げて泣いていた。泣いている俺に気付いた保母さんが、俺の父親に電話をかけてくれた。母がどうして来ないのか、それは分からなかったが、代わりに父が迎えに来ると知って、俺はひとまず泣き止んだのだった。

 父親の車から降りて、マンションの部屋へ入った俺は、部屋中をくまなく探した。もしかしたら、あのカーテンの裏に母が隠れているんじゃないか? ひょっとしたら、キッチンの対面カウンターの影に潜んでいるのかも知れない。俺はきっと母が何処かに居る筈だ、との希望を捨てていなかった。だが、母の姿は何処にも無かった。一体母は何処へ消えたのか? 俺は再び涙がじんわり滲むのを隠すこともせずに、振り返って父親にこの疑問の答えを明かすよう目で訴えた。父は一枚の書き置きを手にしたまま、悲しそうな目をしてリビングに突っ立っていた。

「母さんは出ていったんだよ」
そう、一言だけ呟くように言うと、父は俺を抱き締めた。出ていった?
「……お買い物?」
俺の質問は五才の子供としては至極妥当なものだったと思う。だが父は大きく首を振ると、信じがたい言葉を告げた。
「そうじゃない。母さんは、もうこの家には戻らないんだ」
父はそう言ってため息を一つ付いた。俺には全く理解不能だった。
「どうして、どうして? 僕が悪い子だから?」
俺は父にしがみついて泣き叫んだ。
「いや、そうじゃない。これは仕方のないことなんだよ……母さんがいつか父さんと別れる事は予め決まっていたんだ」
「どういう事?」
「人間は皆、生まれたときにホロスコープを背負っているんだ。いわばお星様からのメッセージだな。人はそのメッセージに従って生きていかなきゃいけないんだ。母さんのホロスコープには、いずれ父さんと別れなきゃならないメッセージが刻まれていたんだよ……だから、誰も悪くないんだ」
俺は混乱した。お星様のメッセージだって!? そんなものの為に、母さんは出ていったのか? 俺や父さんへの愛を捨てて?
「海、お前もホロスコープを背負っている。十六才になったら、それがどんなメッセージか分かるんだ。そしてそれが分かったら、その通り生きていかなきゃならないんだよ」
「僕……僕そんなの嫌だよ!」
「どのみち、人間はお星様からは逃れられないんだよ」
俺は押し黙った。怒りとも、悲しみともつかない思いを心に抱えて。お星様だとか、ホロスコープだとか、そんな物は理解不能だった。ただ俺の心にはこの事実だけが刻み込まれた。

――母さんは僕を捨てたんだ――

 この傷は中々癒える事は無かった。小学生になって、もっと色々見える世界が広がれば広がるほど、俺の傷は深くなっていった。他の奴等は皆両親揃って幸せそうな家庭を築いているのに、何故俺だけがこんな孤独を味わわなければならないのか? 一体、この世に母親に捨てられる事ほど悲しいことがあるだろうか?

 何故だ? 何故だ? 何故だ? 疑問符ばかりが頭を飛び交い、俺の悲しみはいつしか憎しみに変わっていった。そして俺はある結論を導きだした。つまり、母は親失格のロクデナシっていう事だ。ホロスコープだか何だか知らないが、人の親ならそんな物に従うよりも、キチンと子供を育てるべきなのだ。俺は何か間違っているだろうか?

 出口の見えない痛みはその後もジワジワと俺の心を蝕んでいった。何度も父に母が居なくなった理由を訊ねたが、父は
「ホロスコープで決まっていた事」
その一点張りだった。
「じゃあ、父さんは、母さんが出て行く事を知りながら、結婚したの?」
俺は素朴な疑問をぶつけてみた。父は遠くを見るような目で、
「そうだよ。母さんと婚約した時に、母さんのホロスコープを見せてもらったんだ。母さんはこう言ったよ『この通り、私の運命は貴方と結婚して、その後時が来たら貴方と別れる事になっているみたいだわ……何故別れなきゃならないのか、その時が来るまで分からないけど、それでも構わないの?』ってね」
「父さんは何て答えたの?」
「『それでも構わない。俺は君と結婚したいんだ』って言ったさ」
俺は絶句するしか無かった。二人は納得済みなのだから良いかも知れないが、俺にとっては理不尽この上ない。どうせ生まれるなら、死ぬまで仲良く別れることの無い両親の元に生まれたかった。あの日以来、母の愛を味わえなかった俺は、いつしか強烈に女に愛されたい、と思うようになっていた。