今回は2、3回分使って、
愛の話をしたいと思います。
愛ってなんでしょうか?
言葉にするのは、
なかなか難しいですよね。
私の尊敬する斎藤一人先生は、
「マザー・テレサも言ってたけど、
愛の反対は憎しみじゃなくて、
無関心なんだよね。」
とおっしゃってました。
という事は愛って、
「他人に関心を持つこと」
なんだと私は思います。
そしてその愛の反対である無関心って、
他人に対して興味がなくて、
自分の事しか考えられない。
って事なんですよね。
愛がある人の心理は、
まず大前提として、
ダメな部分の自分がいたとしても、
自分を否定しないで、
「そういう自分が居たっていいんだよ。」って自分を好きになって、
自分も大切な存在なんだというのを、
分かっています。
その上で自分も大切な存在だけど、
他の人もそれとも同じ位、
大切な存在なんだと
分かっている人なんですよ。
そう言う人って、
「自分も親切にしてもらった時
幸せな気持ちになれたから、
どこの誰とも関係なく、
自分の行動で幸せになってくれたら、
嬉しいな。」と思い、
親切に生きていくようになります。
でも、無関心な人って自分の事しか
考えてないので、
「他人が何かで苦しもうが、
自分は苦しくないから関係ない。」
と思っていますので、
自分にとって利益にならないと
思う事はやりません。
それなのに他人からの愛を求めます。
ここで何か分かったかも。
と思った方はいるかも知れませんが、
要するに、
親切にできる人は自分の中にある幸せを、外側に出して行って、
無関心で生きてる人は自分の中の空洞を埋めるために幸せを自分の外側に求める。
ってことなんですよね。
何かギブアンドテイクが
成立してるような気がしてる方も
いるかも知れませんがそうではないです。
実は本来誰しも皆平等に、
永遠に無くならない幸せが、
自分の中にあるんですけど、
その場所ってのが真我って言う、
もう1人の自分というか
要するに魂なんですけど、
自分勝手な人ほど、
自分の魂君を自我って言う、
表面的な考え方を使って作った、
牢屋で何重にも囲って
見えなくなるくらい厳重に閉じ込めてる
って事なんですよ。
真我って内神様って言ったり、
自分自神様って言ったりも
するんですけど、
まだまだこの話には続きがあって
全然終わりそうもない話なので、
今回はこの辺で終わりにします。
相変わらず長くてごめんなさい。
冒頭にありますようにしばらく、
続きますが、よろしくお願いします。
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