澤瀉屋って、あたしはあんまり分かってなくて色々、動画みたりしてる
屋号毎にカラーってあるんだなーって思う
そして、そのカラーが好きってなると、そこの御贔屓になってくんだね、きっと
中村屋と澤瀉屋はカラーが似てるから、あたしの気持ちが移行していけるのかも知れない
日々、澤瀉屋三妹のあたしが検索で見つけて心強く持てそうと思ったコラムを以下抜粋↓↓↓
澤瀉屋一座の芝居で、忘れられない光景がある。
1997年7月、歌舞伎座の「當世流小栗判官」。先代市川猿之助(現・市川猿翁)演じる小栗判官が、馬にまたがったまま狭い碁盤の上に乗ってみせる。前半の見せ場である。馬の脚は2人の人間が演じており、ワイヤーで釣って、後ろ足だけで碁盤の上に立つのだ。
ところが、碁盤の上に乗ろうとした瞬間、馬の体勢が崩れて、猿之助が落馬した。かなりの高さである。客席から「キャッ」という女性の悲鳴があがった(あとで聞いたら、馬の体内の太紐が切れたのだそうだ)。
そのとき、周囲にいた役者たち――故・片岡芦燕や坂東彌十郎、市川右近(現・右團次)たちが、一瞬のうちに駆け寄って落ちていく猿之助を支えた。そのおかげで、猿之助は床面に直接叩きつけられるような落ち方にはならなかった。見事な即応態勢だった。猿之助は客席に背を向けて正座し、低い声で「幕、幕」と指示を出した。
すぐに幕が引かれた。客席は「大けがをしたのでは」「このまま休演か」と騒然となった。しかし、特にアナウンスもないまま、たしか5分か10分で幕が開いたと思う。
碁盤に乗る直前の場面から、舞台は平然と再開した。そのとき猿之助は馬(2人の足役)に向かって、「連日の疲れのせいか先ほどは落鉄いたしたが、今度はうまくやれよ」というようなアドリブで声をかけた。馬は(了解しました)といった仕草でうなずいている。
ものすごい拍手と声援、大向こう。ツケ打ちがひときわ力強く響くなか、今度は見事に碁盤乗りを果たし、馬の前足が高く上がる。猿之助は馬上で扇子を広げて見得を切った。
約2000人で満席の客席は興奮の頂点に達した。こんな芝居は観たことがなかった。
このときの澤瀉屋一座の結束力、また、緊急事態に対する臨機応変ぶりは実に感動的だった。これからもずっと彼ら、澤瀉屋一座の舞台を観ていきたいと、心の底から思ったものだ。
この碁盤乗りの場は、舞台後方に、悪役・横山大膳がいた。演じていたのが、猿之助の弟・市川段四郎だった。また、物語の後段で小栗判官に祟る娘・お駒を演じていたのが当時22歳の市川亀治郎――段四郎の息子にして当代猿之助である。
あれから四半世紀の時が流れた。予想もしない形で段四郎はこの世を去った。当代猿之助は自殺をはかった。伯父の猿翁(先代猿之助)は体調不良で舞台復帰はかなわないままだ。
いよいよ澤瀉屋一座の落日かと思われた。
しかし、舞台は続いている。明治座「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」は、昼の部を2回休演しただけだ。夜の部に至っては1回も休演することなく、28日まで続いている。要するに昼夜公演が繋がらなかったは、たった1日半だったのだ。
いったい、このパワー、臨機応変の対応力は、どこから来ているのだろうか。
トラブルに見舞われるのは日常茶飯事
歌舞伎は、新劇などに比して、公演回数も期間も桁違いに多くて長い。生身の人間がこなす以上、トラブルに見舞われる比率も高い。澤瀉屋一座も例外ではなかった。
1982年7月の歌舞伎座。先代猿之助が、舞台上で足の指を骨折。約1週間、休演した。この月は昼夜奮闘公演で、特に夜の部は、大作「天竺徳兵衛新噺」の復活初演だった。早替わりはもちろん、驚愕の“空中つづら抜け”もあった。しかしすぐに、弟・市川段四郎が代演して乗り切った。本来の段四郎の役もほかの役者が演じ、澤瀉屋一座の層の厚さが感じられた。
2003年11月の博多座公演も危機に見舞われた。藤間紫主演、澤瀉屋一座総動員の超大作「西太后」である。演出もかねる先代猿之助は、準主役(恭親王)だった。
17日の舞台で、猿之助の呂律がうまくまわらなかった。終演後、診察を受けたら脳梗塞と診断され、そのまま緊急入院(結局この日が、先代猿之助の最後の本格舞台となった)。
翌日から、猿之助の恭親王は、一番弟子ともいえる市川右近(現・右團次)が代演した。だが問題は、それまで右近が演じていた光緒帝役だった。重要な役だが、適任の代役がいなかった。このとき抜擢されたのが市川喜猿だった。当時まだ名題下だったが、見事にこなして話題となった。名題下の役者でも、突然の大役がこなせる――このときも澤瀉屋の対応力が証明された。
トラブルは当代猿之助になっても続いた。
2017年10〜11月の新橋演舞場、スーパー歌舞伎II「ワンピース」。10月9日、猿之助が花道のセリで負傷し、左腕骨折。すぐに代役を尾上右近がつとめ、坂東新悟や中村隼人も配役変更に対応した。このときは「どんなに大きな荒波が押し寄せても、みんなで乗り越えてまいります」のセリフが客席をわかせた。
もともと澤瀉屋一座は長期公演が多いので、先代猿之助のころから、時折、主要役を交代で演じるシステムを取り入れていた。このときも、交代出演システムが見事に機能した。
ピンチをチャンスに変える
だが、いくらなんでも、昨年8月は、誰もが公演休止か演目変更だろうと思った。
歌舞伎座の「弥次喜多流離譚」。市川染五郎&市川團子の美少年コンビ主演が話題となった。ともに若者と娘役の2役早替わりと、宙乗りがある。それが、2人ともコロナ感染。
このときも、猿之助はアッと驚く奇策で、休演1回で見事に再開させた。なんと、美少年2人を、一座のベテラン4人で演じ分けたのである。團子(18)の2役は、中村隼人(28)と、娘役:市川笑也(63)が。染五郎(17)の2役は、市川猿弥(55)と、娘役:市川笑三郎(52)が(年齢は当時)。
中村隼人はスラリとした美青年だから團子の代役にふさわしい。娘役もベテラン女形による代役だからわかる。驚いたのは市川猿弥の起用だった。失礼ながら、年齢的にも容姿的にも、どう見ても染五郎の代役とは信じられなかった。荒事やコミカルな役が得意な役者である。
こんな澤瀉屋の芝居はもう観られないと思い、二度目の鑑賞に行ってみた。
その場の幕が開いた。客席は大爆笑だった。あの猿弥が白塗りに金髪、イケメン暴走族風の衣装ですまして立っている。しかも、いかにも染五郎っぽく演じている。まじめにやればやるほど面白い。踊りの場面では、見事に「ウエスト・サイド・ストーリー」のパロディ・ダンスをこなした。意外と身軽ではないか! 風船をもっての宙乗りも実に楽しそうだった。観ているほうも幸せな気分になった。
よく「歌舞伎役者は、演技や踊りの基礎ができているし、子供のころから同じ演目をやってるから、どんな代役でもすぐできる」という人がいる。たしかにそうかもしれない。
だが澤瀉屋の演目は、ほぼすべてが「新作初演」である。
たとえばいま話題の明治座公演。昼の部「不死鳥よ波濤を越えて」は、宝塚レビューが原案である(1973年の甲にしき退団公演)。1979年に初演されたあと、今回まで一度も上演されていない。事実上の初演だ。しかも歌唱がある、一種のミュージカルである。この主役を、市川團子が休演2回の間に稽古してこなしたのだ。
夜の部「御贔屓繋馬」は、今回で四演目の人気作だが、初演時は5時間の超大作だった。それを今回は休憩含めて3時間に圧縮改訂したうえ、前回から約30年ぶりの上演なので、やはり新作も同然だった。
こちらは、これまた中村隼人が休演なしの代役でつないだが、千秋楽で主演を演じる予定だったので、ある程度、準備ができていたと思われる。これも先述の「交代出演システム」が機能したといえよう。
才能と稽古と好き
先代猿之助は1984年に『猿之助の歌舞伎講座』(新潮社/とんぼの本)を上梓している。宙乗りや早替わり、舞台機構や女形の見せ方などを、舞台裏写真をふんだんに使って明かした、ファン垂涎の解説書である。
その後、スーパー歌舞伎が始まったので、増補改訂版がつくれないかとの企画がもちあがった(残念ながら、ご本人の病気などもあり実現しなかった)。そのとき、編集者が雑談の流れで「役者さんは、急の代役のとき、どう対応されるんですか」と聞いた。すると、
「うち(澤瀉屋)は、稽古の分量がちがうので、自然と、ほかの役まで(身体に)入っちゃうんですよ。特に復活初演のときは、最後の数日間は、ほとんど全員、楽屋に泊まり込みです。立ち回りも一見複雑に見えますが、あれは振付けた踊りですから、これもすぐにできます」と、サラリと語っていたそうだ。
今回の明治座公演プログラムでも、ベテラン市川門之助が「猿翁さんが毎年四月に明治座で公演をしていた時には、いつもお稽古が深夜もしくは早朝までかかっていました」と思い出を綴っている。
名作狂言「菅原伝授手習鑑」に、こんな詞章がある――「上根(才能)と稽古と好きと三つのうち、好きこそ物の上手とは、芸能修業教えの金言」。
だが、猿之助二代が率いた澤瀉屋一座の場合は、この三つのすべてが金言だとしか思えない。でなければ、いままでの緊急事態をすべて乗り切るなど、とうていできなかっただろう。
今後の澤瀉屋一座がどうなるのかは不明だが、この対応力を生かして、ぜひ先代以来の“猿之助歌舞伎”をつないでほしいと、すべてのファンが願っているはずだ。