お宿の近くに水戸烈士関鉄之介の歌碑があるというので、出発する前に見てきました。
関鉄之介は「桜田門外の変」の実行隊長として襲撃を指揮し、大老・伊井直弼を暗殺した水戸藩士。
向かって左側の碑が鉄之介の歌碑
(右側にある碑は温泉ホテル創業者竹内勇之助の顕彰碑)
袋田のさとにひそみて有りけるころよめる
「河鹿鳴く 山川みすのうきふしに あわれははるの夜半にもそしる」 平遠
(春のある夜半、ふと目覚めると近くの谷川の瀬音にまじり、河鹿の鳴き声が聞こえてきた。潜伏中の身であるが、その音にえもいわれぬ情趣を覚え、しみじみ聞き入り、春にもあわれを感じた。)
【大子町文化遺産HPより】
関鉄之介の生涯
関鉄之介は、名を遠、字は士仁、通称は初め鉄之介、のち新兵衛を襲名し、楓巷、丹楓、錦堆、錦堆逸などと号した水戸藩勤皇の志士です。万延元年(1860)3月、同志と共に桜田門外に大老井伊直弼を襲撃、暗殺した関は、はじめ西国に潜行しましたが、のち江戸方面に引返し、やがて大子地方に入りました。大子地方では、袋田村の桜岡源次衛門を頼り、桜岡邸に設けられていた蒟蒻会所などに潜伏しました。袋田に入ったのは7月中旬から下旬頃といわれ、それから翌文久元年(1861)8月頃までの約1年余りの間、関は、当地方を中心に隠遁の日々を送るのです。
この間、関は、日々の記録とともに、数多くの詩歌を彼の書き残した「目録」の中にとどめています。
「河鹿鳴……」の和歌は、「目録」文久元年3月18日の記事の中に漢詩6篇、和歌10首を載せていますが、その中の一つに「河鹿鳴山川みつのうきふしにあはれはかけよはるの夜な夜な」の歌(この歌の半折が小生瀬の大藤家に残されている。)が記されており、これを元歌に後で推敲したものと思われます。
関は、文久元年10月、越後で捕われ、水戸赤沼の獄に下り、翌文久2年4月、江戸伝馬町の獄に移され、5月11日、斬に処せられました。享年39歳、波瀾に満ちた生涯でありました。
関鉄之介は「桜田門外の変」の実行隊長として襲撃を指揮し、大老・伊井直弼を暗殺した水戸藩士。
向かって左側の碑が鉄之介の歌碑
(右側にある碑は温泉ホテル創業者竹内勇之助の顕彰碑)
袋田のさとにひそみて有りけるころよめる
「河鹿鳴く 山川みすのうきふしに あわれははるの夜半にもそしる」 平遠
(春のある夜半、ふと目覚めると近くの谷川の瀬音にまじり、河鹿の鳴き声が聞こえてきた。潜伏中の身であるが、その音にえもいわれぬ情趣を覚え、しみじみ聞き入り、春にもあわれを感じた。)
【大子町文化遺産HPより】
関鉄之介の生涯
関鉄之介は、名を遠、字は士仁、通称は初め鉄之介、のち新兵衛を襲名し、楓巷、丹楓、錦堆、錦堆逸などと号した水戸藩勤皇の志士です。万延元年(1860)3月、同志と共に桜田門外に大老井伊直弼を襲撃、暗殺した関は、はじめ西国に潜行しましたが、のち江戸方面に引返し、やがて大子地方に入りました。大子地方では、袋田村の桜岡源次衛門を頼り、桜岡邸に設けられていた蒟蒻会所などに潜伏しました。袋田に入ったのは7月中旬から下旬頃といわれ、それから翌文久元年(1861)8月頃までの約1年余りの間、関は、当地方を中心に隠遁の日々を送るのです。
この間、関は、日々の記録とともに、数多くの詩歌を彼の書き残した「目録」の中にとどめています。
「河鹿鳴……」の和歌は、「目録」文久元年3月18日の記事の中に漢詩6篇、和歌10首を載せていますが、その中の一つに「河鹿鳴山川みつのうきふしにあはれはかけよはるの夜な夜な」の歌(この歌の半折が小生瀬の大藤家に残されている。)が記されており、これを元歌に後で推敲したものと思われます。
関は、文久元年10月、越後で捕われ、水戸赤沼の獄に下り、翌文久2年4月、江戸伝馬町の獄に移され、5月11日、斬に処せられました。享年39歳、波瀾に満ちた生涯でありました。