私はいま、うつ病と闘っています。
☆発症と経過、そして入院。
☆入院生活と治療のはじまり。
診断では「適応障害」「気分障害」そして後から「パニック障害」になりました。
これから何回かに分けて、私が体験してきたうつ病との闘いの記録や、今をどう生きているのかを書き綴っていこうと思います。
あくまでもこれは「私の症例や体験」であって、うつ病と闘う全ての人に当てはまることではないということだけ覚えておいてください。症状や対処法は人それぞれです。私の記事を読んで間違った知識で偏見や差別を生まないで下さい。
よろしくお願いいたします。
※内容が内容なので定期的に(私が)癒されるアクアリウムな写真を載せておきます。
☆発症と経過、そして入院。
私がうつ病と診断されたのは2013年7月頃だったかと思います。
最初に表れた症状は「生理不順」詳細は忘れましたが、月経前症状が酷くなり、月経以外の時も下腹部が痛むので心配になり婦人科を受診しました。
セカンド・オピニオンで訪ねた病院は個人のクリニックで、これまで出産した大きめの病院とは違うところへ行きました。母の友人たちが更年期障害の治療をした際に非常に良い先生だったと話していたとのことで、そこを選びました。
一通り内診を含めた診察を終えましたが、子宮などに異常はなく、二人目の妊娠も考えていなかったこともあり低用量ピルを飲んでみることにしました。
最初の一週間くらいは吐き気がひどく落ち着かなかったのですが、次第に慣れてきて、その月と翌月の生理は不快感もなく順調でした。
しかし、それでも倦怠感や目眩で立ち上がれない時もあり、これでは子育てに力を入れられないと再び同じ婦人科を受診。ピルを貰うついでに相談をしてみました。すると、その先生が突然言いました。
「あなた、うつ病なんじゃない?」
唐突だったので驚きはしましたが、私自身がうつ病かも知れないということに驚きは全くありませんでした。
私は大学を中退していますが、それまで通っていたのは心理学科。うつ病のことはもちろん、精神的な病気や症状、薬、カウンセリングなどの勉強を一通りしていたのです。
元々カウンセラーを目指して進学したのですが、授業でカウンセリングの過去のケースや心理の話を聞いているうちに、自分にも当てはまることが多々あることに気付きました。
そして臨床心理センターでカウンセラーとしても活動されていたゼミの先生にカウンセリングをお願いすることにしたのです。
細かい内容はまた後述しますが、自分が「うつ傾向の高い人間」であり「過去の精算ができていない」ことをそれで知りました。
なので、うつ病かも知れないことは簡単に受け入れられたのです。
そしてクリニックの先生はいくつかの心療内科を紹介してくれました。月経不順のことも含めて紹介状を書いてくれて、後日、私は勧められたその心療内科へと行きました。
そこは個人クリニックで、元は県立病院で勤務していた先生が独立して始めたところです。なので予約も取れやすく、他の患者さんとの接触も少ないので、通うのに抵抗はありませんでした。
吐き気や目眩といった、ピルで解決しなかった症状が緩和されるなら…その一心でした。
穏やかな語り口の男の先生は、記述式の検査や面談をした上で、言いました。
「あなたの症状は、うつ病です」
やっぱりか、と思いました。
当時の自分に思い当たるストレスは、夫が私の反対を押し切って車を買い換えたこと、夫が仕事を辞めてしまったこと、その中でやり繰りしながら子育てをしなければいけなかったこと…思い当たることが多々ありました。
息子は当時1歳、歩き始めて可愛い盛りでしたが、気を張ることは常にあります。実家に行くことも多くありましたが、それでも子育てに疲れていることは間違いなかったと思います。
いきなり強い抗うつ剤を使うのは、と先生はまず漢方薬を処方してくれました。それと生理痛と頭痛のために鎮痛剤、胃腸薬も処方してくれて、まずは安心して帰宅していたと思います。
ツラくなったら薬を飲めばいい。鎮痛剤と胃腸薬は頓服でしたが、持っているだけで支えになりました。
しかし、私の体調は回復するどころか、徐々に悪化していきます。明らかに食欲がなくなっていったのです。
普段の私は白米を余裕で一杯分、おかずによってはおかわりをするくらいに食べるタイプでした。
最初は、まず料理をしている段階で食欲が減退していくようになりました。作っていても全く美味しそうに見えず、実際に食べても美味しく感じませんでした。隣にいる夫はいつも通りだと言うのに。
それからも段々と食欲が失せ、大好きな間食さえもしなくなり、息子のために作った雑炊をちょっと食べれば満足だと感じるようになりました。しかし醤油を少し入れただけでは味を感じず、かなり塩を入れて食べていました。
そのうち、立ち上がれば目眩がして息子のところへ歩み寄るのもしんどくなり、とうとう実家に帰ることになりました。
家族が息子を見てくれて、夫は職を探す合間に顔を出してくれていましたが、最初は別居のような感じでした。
けれど日に日に食事が喉を通らなくなり、死ぬのではないかという不安が襲ってきたとき、ついに私は泣きながら夫に「横で寝ていて欲しい」と頼みました。私の横に布団を敷いて、しばらく夫も私の実家で寝ることになりました。
米粒ひとつ食べるのも嫌になり、唯一の栄養分であったポカリスエットやOS-1を飲むことさえ億劫になり、家族の付き添いなしではトイレまでも歩けず、風呂も介助がなければどうにもならず…流石にこのままではマズイと、家族が救急車を呼びました。
私の記憶は曖昧ですが、息子の顔は殆んど見ていなかったように思います。当時の息子がそんな中でどうして暮らしていたのかも全く覚えていません。
大きな病院に運び込まれ、横たわりながら必要最低限の受け答えはしていたように思います。隣で話をしている夫と先生、会話から「このまま入院を」と聞こえてきたのは覚えています。それほどまでに衰弱していたのかと自分ではまだ少し状況を理解できていませんでした。
うつ病はよく「死にたい」気持ちに苛まれるというイメージを持たれます。しかし、実際に最大限まで追い込まれると、そんなことさえもどうでもよくなるのです。生きているのか死んでいるのか、それさえもよくわからなくなります。更に思い通りに体が動かなくなり、手足がまるで石にでもなったかのようにも感じました。
心療内科を勧められて受診してから2~3ヶ月で、私の体重は15kgほど落ちていました。最初はまだ元気があり痩せたんだと喜んでいましたが、入院時に聞いた時には全く何も感じませんでした。
☆入院生活と治療のはじまり。
精神科病棟に車椅子で運ばれ、個室に案内されました。子供が会いに来るからと母が個室にしてくれたそうです。
看護師さんに「ご飯を食べられるようになろうね」と言われましたが、目の前に出された昼食はお粥を一口食べて終わりました。
そして、夕方。看護師さんが迎えに来ました。お風呂の時間です。
点滴を外し、看護師さんに介助されながらお風呂場へ。順番に入るので私以外の患者さんと一緒に入ることはありませんでした。
看護師さんは母くらいの年代の女性、優しい物腰で、母親のようでもありました。
しかし、最初の難関はお風呂の介助だったのです。
神経質ではない私ですが、とにかく「他人に体を触れられることが苦手」で、それは今もあまり変わってはいません。
特に男性相手となると至近距離に居られるのも無理だと感じることがあるくらいで、唯一、触れても平気な血の繋がらない男性は夫だけなのです。今でもそれはあまり変わっていません。
なので、他人に体を洗ってもらうというのがとてもとても嫌で仕方なくて、それでも看護師さんも仕事だからと髪と背中までは我慢したのですが…さすがに胸や股間を洗われるのには本気で無理だと感じたので「お願いだから!自分で洗わせてください!」と何度も何度も言いました。向こうも仕事なので「気にしなくてもいいから!」と言ってきたのですが「本当に!本当にどうしても嫌なんです!」と言い続けて、何とか体の前面だけは自分で洗わせてもらえました。
お風呂から出て、着替えも看護師さんが手伝ってくれたのですが、やはりどうしてもお風呂を他人と入ることが苦手で、その感情だけはうつで心が死にかけていた中でも強く強く前に出てきました。
なので「どうすればお風呂の介助を無くしてもらえますか?」と聞いてみたら、看護師さんは「先生の判断もあるけれど、ご飯をちゃんと食べられるようになったら外してもらえるかもね」と言いました。
その夜、私は出された食事を無我夢中で完食しました。
その時は、お風呂の介助が嫌だという一心でしたが、それが治療へのきっかけになったことは間違いないと思います。
それから薬の効果もあって、翌日には少しだけ周りを見る余裕ができました。
テレビをつけていないと気が沈むからと祖母がテレビカードを買ってきてテレビをつけてくれましたが、いつも腹を抱えて笑って観ていたバラエティ番組を観ても何も感じることがなく、息子が来ていたのもあってEテレに替えました。
「何か持ってきて欲しいもの、ある?」
と夫に聞かれました。
ゲーム?漫画?何か必要?色々と挙げてくれましたが、私が最初に持ってきて欲しいと思ったのは「スケッチブックと色鉛筆」でした。
ちょうど無印のたくさん入った色鉛筆を買ったばかり、それをふと思い出したのです。夫は翌日に色鉛筆と、百均のスケッチブックを買ってきてくれました。
最初は何を描こうとも思わず、ただテーブルの上に置いてありました。
食事と先生や看護師さんと話をする以外は横になって、ただテレビを観ていました。Eテレの色々な番組を、ただずっと無言で観ていました。
どのタイミングかは覚えていませんが、私はふと色鉛筆を手に取りました。
真っ白なスケッチブックに、油性マジックで車を描き、ひたすら赤で塗っていきました。その横に「Car」と描いて。
翌日、着替えを持った母と息子が来ました。私は息子に車の絵を見せました。
息子は1歳3ヶ月、まだはっきりと言葉を話せない息子は「ぶっぶ!」と嬉しそうにスケッチブックを手に取り、ずっと離しませんでした。
その日から退院まで、私は2冊のスケッチブックを埋めました。すべて息子のために、息子の好きなものを描き続けました。その中には魚や動物、アンパンマンやワンワン、どこを開いても息子が喜ぶスケッチブックを作りました。
これが私にとって、大きな治療の第一歩になったのです。
次回は、入院生活について書いていこうと思います。
自身の備忘録も兼ねて、頑張って書き上げたいと思いますのでよろしくお願いいたします。