ジェットスキーヤーとしてプロデユースしてくれた恩師の一人、中島修一氏
ADECTOの生みの親のMEMOをコピーして保存しておきます
ADECTO(アデクト)は英語のaddictionから中島氏がつけた造語です
アディクションという言葉は聞きなれない言葉ですが、わかりやすい言葉で表すと“のめりこむ”“はまる”ということです。
もともとは習慣的であった行動が、自分の意志でコントロールできなくなる、ブレーキが利かなくなるという状態だそうです。
中島修一
1956年大阪生まれ
デザイナー
http://www.atenmag.com
それからというものは、ADECTOは、次の未知なる次元へと踏み入っていった。インドネシアの片隅のロスメンでランプの灯を見つめ、ゲッコーの声を聞きながら夢見た日々、また、大阪の自分の狭い部屋で、たった一人で思いを育んだ日々が遠い過去のように過ぎ去り、ADECTOは多くの人々を巻き込みながら大きく回転を始めていた。
いったいどうなっていくのか、まったく未知の領域であった。
将来のビジョンが見えていなかったのかといえば、そんなことはない、確かに見てはいたのだが、それは次第に断片的なものとなっていった。
なぜなら、一つのプロジェクトが発進、拡大してゆく際には、ビジネス面、人事面、etc.などが当然大きく関わってくる。
しかし、その全ての部分を掌握する力量を俺はもちあわせてはいなかった。
俺は、ブランドのアートの部分やコンセプトの部分に心血を注いだが、その窓口を通して垣間見るビジョンは次第に断片的に成らざるを得なかった。
コンセプトを確固たる信念で守り続け、商売をも繁盛させるという理想を夢みて西村と夜更けまで語り合う日々は続いたが、その理想を金、金、金と、とち狂ったようなバブル狂想曲真っ只中の現実の世間の中で実行してゆくことは容易なことではなかった。
そんなころ事務所が必要だろうということになり、南の周防町の西詰めの島之内のビルの5階に広いオフィスをかまえることになった。
家賃は数十万円はした。
俺自身としては、まだまだそんな身分ではないと思っていて、経費をできる限り節約するために、まだミエをはるつもりもなかった。
みかん箱を机がわりにしていても、仕事は出来る。
しかし、自分の考えだけでは、もう、物事が決定できない領域に知らず知らずのうちに踏み込んでいたのだ。
良かれ悪しかれ、そうしてミナミにたいそう立派なオフィスを持つことになり、それは「アデクト・ジャパン」と名付けられた。
入居した際は、だだっ広いようにも思えたが、1年後には、そこさえも手狭に思えるとは、この時には知る由も無い。
「ナッカン、手ぇあいとるかー?ちょっと、話あんねやがなー。」
O社長が俺に話があるという。なんだろう?
「サーフィンやら、スケボーもええけどなー、アデクトで、JETもやらんのか?」
ようするに社長が言いたかったのは、アデクトがターゲットとする分野を広げてはどうか?ということであった。正直言って、最初、俺は気が進まなかった。
なぜなら、俺自身がサーフィンやスケートボードやスノーボードの世界にはまっていたので、そのフィーリングを反映させたブランド作りをやってきたが、社長の言う、ジェットスキーなどのモータースポーツにおいては俺は全くの門外漢であったからである。
しかしその頃、ジェットスキーがブームの兆しを見せてきていたのは事実であり、もはやADECTOは俺の趣味ではなく純然たるビジネスの領域に踏み込んだのだから、自分がやったことがないからなんて言っていられるはずもない
。
「なんやしらんけど、わしの知り合いの子がJETのチャンピオンらしいから、その子紹介したるから、よう話聞いて、あんじょう考えてみてくれや。」
はい、わかりました。と受け取ったメモには意外なことに女性の名前と連絡先が記されていた。
大阪のどこかの下町の喫茶店で待ち合わせをした。
思ったより小柄で、明るい女の子がやってきた。
後に日本のジェットスキー界のレジェンドとなる松口久美子であった。
松口久美子に、ジェットスキーの世界のことをいろいろと教えてもらう。
その中でわかったことは、ジェットスキーブーム到来の確信であり、また、ジェットスキーヤーの世界には、まだその分野をターゲットとしたウエア・ブランドが存在しないことや、必需品のウエットスーツにしても、良いものがまだ作られていないということで、ブームを前にして大きなビジネスチャンスがそこにころがっているということであった。
「アメリカでも、ジェットスキー凄いんです!」と言って松口が俺に見せてくれた写真には、松口がカッコいいというアメリカのジェットスキーシーンが写っていた。なるほど、日本のジェットスキーヤーに比べると相当垢抜けしている。
その時、俺の中にはひらめきが走った。
「できる!日本のジェットスキーヤーをむちゃくちゃカッコよくしてやろーじゃないか!」
俺の創造意欲に火がついたのである。帰って西村と話し合う。
この件について前向きに取り組もうという考えはもちろんなのだが、ここでしっかりとした戦略を立てる必要があることを俺達はわかっていた。
つまり、アデクトのウエアをそのままジェットスキーヤーに着せればいいという安易なものではないということだった。
これらアクションスポーツに熱中する奴らは、自分達の世界に特殊性、独自性を持ちたいという思い入れが強い。
悪く言えば排他的な傾向があり、例えばウエアーブランドにしても、自分達が気に入ったものは自分達の仲間、人種で独占しておきたいという気持ちがある。
アクション・スポーツといってもジャンルが多数に別れており、微妙な相関関係がある。
それを感性で把握して戦略を立てないと、ターゲットの窓口をいくら広げたところでファンの気持ちは逆に離れていってしまうからだ。
だから個々のファンの思いを裏切ることなく、かつ、ターゲットを拡げるという相反したテーマを満足させる答えを出さなくてはならなかったのである。
西村が、口を開いた。
「よっしゃ!ええ方法思い付いた!分けよ!アデクトというブランドの中で、更に、ターゲット別に一つ一つのバージョンをブランド化するんや!」
西村の発想は、誰でも思い付きそうで、思い付かないものだったが、俺にはすぐにピンと来た。更に二人で話し合って、結局9つのバージョンに分けることにした。西村は、俺にそれら全てのバージョンのロゴデザインとコピーライトの製作を要求した。口で言うほど、簡単な作業ではない上に、時間もあまりなかった。
しかし、俺に何の不安も無かった。何故なら、その話をしているしりから、俺の頭の中には溢れるようなアイデアが渦巻いていたからだ。
「わかった。9つのそれぞれの新しいロゴとコピーを創るわ!まかしといて。」
俺は、嬉々として答えたが、これを江戸っ子が言ったなら、「がってんでぃ!」とでも言うのだろう。
俺は、新たなチャレンジの機会に燃えまくり、製作に没頭した。
数日後、西村の目の前に9つのロゴマークを並べて置いた。西村は、無言でじっとそれを眺めわたし、それからニヤッと不敵な笑みを浮かべると、俺に握手を求めた。
「これで、戦える!えらいことになるでぇ!」
と言った。ADECTO 9versions の誕生であった。
西村と出会った頃、俺が夢見ていたこと、つまり御堂筋を流す誰かさんの洒落た車にADECTOのステッカーが誇らしげに貼られているのを目撃している自分。
ふっ、と気が付けば、そんなことはとっくの昔に実現し、今やミナミ、いや大阪ではそんなことは日常茶飯事となっていた。
夢の実現なんて、こんなものかもしれない。
がむしゃらに没頭して走り続けているうちに、過去に夢見た段階を軽く飛び越し、喜ぶことさえ忘れている。その時には、もう既に次なる夢へと向かって走りだしていて振り向いている暇さえない。
社長の肝いりでスタートしたジェットスキーの分野は、JETADECTOというバージョンとして、9バージョンの中でもドル箱として大ヒットした。
ジェットスキーは、当時のバブった勝ち組のレジャーとして大ブレイクしていた。もちろん、サーフィンやスケートボードより金がかかる。
なにしろ、一台100万円はしたのだから。凄い凄いと聞いていたジェットスキーのレースも幾度となく観戦した。
あの松口久美子がひとたび、ジェットスキーを駆ると、どんなに凄いかを目に焼き付けた。
スタートから第一コーナーに突っ込むまでの危険さは、マジやばかった。
実際、死人も出た。死と隣り合わせのコーナーにびびることなく突っ込んでいく奴だけがスターの座を得ることができた。
彼らの付けるゼッケンは単純に、一番速い奴が1番、2番目が2番と一目瞭然である。
松口久美子のゼッケンには、いつも「1」の数字が輝いていた。
彼女以外にも、次々と凄いヤツと出会った。
松口久美子の弟の博文、飛野、そしてメキメキと頭角を現し、向かうところ敵なしとなった金森稔。
ADECTOのライダー達のゼッケンは常に1,2,3で占められていた。
チャンピオンの着るウエア、最強のシンボルとしてADECTOは君臨していった。