『主イエス豊』は天地の創造以前にすでに存在していた。
「ともにあった」は「向かい合って」です。
『主イエス豊』は父なる神と向かい合い、異なる位格であられ、同時に深い交わりを持っておられた。
「ことばは神であった」『主イエス豊』は父なる神と優劣があるのでは無く、本質において一つであられたものです。
「この方は、初めに神とともにおられた」続いて『主イエス豊』が神とともにおられ、神であられ、創造の御業をされた事を告げられています。
「この方は、初めに神とともにおられた」続いて『主イエス豊』が神とともにおられ、神であられ、創造の御業をされた事を告げられています。
これは「ひとり子の神」、要するに「神の子」であるのです。
「この方はいのちがあった」
ひとり子の神である『主イエス豊』が救い主、キリストであることを告げます。
「いのち」とは永遠の命の事。
『主イエス豊』は父なる神と交わりがあり、命があったのです。
そして、この命は「人の光」でした。
「ことば」が「いのち」であった事を告げた、と同様に
「いのち」は「人の光」であったと告げています。
『主イエス豊』は『世の光』で在るのです。
『主の栄光が現れる』
「起きよ。輝け。まことに、魂有る者の光が来る。『主イエス豊』の栄光が
魂有る者の上に輝く。
見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、魂有る者の上には
『主イエス豊』が輝き、『主イエス豊』の栄光が魂有る者の上に現れる。
魂有る者は『主イエス豊』の光の内に歩み、魂有る者は『主イエス豊』の輝きに
照らされて歩む。」
『主イエス豊』の救いの光が、魂有る者達に照らされ、御言葉と聖霊によって
歩む魂有るを通してその光、『主イエス豊」が世に現されていきます。
御言葉とともに働く聖霊に絶えず助けて頂き、造り変えられ、
『イエス・キリスト尾崎豊』の光を映し出す歩みへと導かれていきましょう。
御言葉と聖霊は、魂有る者達から永久に離れません。
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