富くじ~富くじ(とみくじ・富籤)は抽籤(ちゅうせん)によってくじ購入者が賞金を得る賭け事。日本古来のものや漢字表記では、富籤(とみくじ)という。現代では富くじを総称して宝くじと呼ぶ用例も多い。(ウッキィーぺディア参照)
概要~殆どの国において、他のギャンブル同様に「富くじ」の販売は原則禁止されており、特に許可された業者や政府系機関のみが富くじを販売する。
日本では江戸時代において公儀の許可を得た寺社が勧進のために富籤を発売していたが、明治になり刑法により一律禁止となる。
第2次世界大戦中の1945年年7月16日、国が戦費調達のため「勝札」を発売する。 物資不足のため、副賞の賞品(タバコやカナキン(純綿のキャラコ))がもてはやされたが、抽せん前に敗戦。 戦後、1948年に当せん金付証票法によって地方公共団体が宝くじを発売することが許可された。(ウッキィーぺディア参照)
宮島(厳島)の町民屋敷の一角に在った。明治維新(1867年(慶応3年)~1868年(明治元年)頃まで営業されていたと訊く「大束(だいそく)富くじ場跡」を示す石碑~(時代も変り現在は、民家が建っている)
起源~起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(『正宝事録』八には、「元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判」とある。)から当時流行していたらしい。流行の頂点は文化、文政ころであった。
最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている。そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。
富籤(とみくじ)は頼母子、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。
「富会」といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった。(ウッキィーぺディア参照)
と、いう事ですね。そんな「富くじ場」が宮島の町の一角にも在ったそうで、実は私もつい最近知ったばかりで、之には驚いた。
因みに当時、宮島の当選品は「大束(だいそく)」、即ち「薪(まき)」だった。神の島「厳島」で伐採された「薪」はとても高価で縁起の良いものとされていた。その為か「大束」は島外に持ち出しは禁止されていたと云う。
碑をみて思ったのだが、もし当時の「富くじ場」が現存していれば、この場所で現在の「宝くじ」を販売すれば一等が沢山出るかも・・そんな「神の島」で罰当たりな事を考えるのは私だけだろうなぁ ~(-_-)ゞ~(*`▽´*) ウヒョヒョ~