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半年に一度(私が会えるのは一年に一度かなあ?)必ずやって来てくれる来訪者がおります。
とやまのくすりやさん(売薬 ばいやくさん、とも言うそう)です。
置き薬の会社の営業さんです。
物心ついたときから、同じおじさんだったようにおもいます。(どうかな?)
昔は黒髪、いまはすっかり白髪ですが、とにかくいつも元気にやってきます。
【とやまの置き薬】について、調べてみました。
配置売薬の歴史は元禄3年(1690)に遡る。
百万石の加賀藩から分封した、支藩の富山10万石2代藩主・前田正甫(まえだまさとし)公が江戸城に登城した折、陸奥三春藩(みつはるはん=福島)5万石の3代藩主・秋田輝季(あきたてるすえ)公が激しい腹痛を訴えて倒れておりました。
そこへ、前田公が持参していた、このとやまの置き薬でもっとも有名な、反魂丹(はんごんたん あの仁丹のような黒い丸薬(くすり)をあたえたところ、たちまち治癒し、その偉効に緒大名が、その薬を自分の国にも分けてほしいとなり、とやまの薬を全国に行商して販売するようになったんだとか。
明治の時代には、大変(重税がかけられたりと)苦しき時代もあったそうですが、新しい薬の開発、薬学学校設立、置き薬の必要性を熱心にといてまわった営業さんの存在があり、今に至っているそうです。
置き薬の最大の特徴はその販売の仕組み。
全国を回る富山の売薬さんは、薬箱(配置箱・預箱〔あずけばこ〕)を配置し、次回の訪問時に使用した分の代金を精算し、集金する(「先用後利〔せんようこうり〕」という仕組みです。
その備えは、そのむかしは、急な病で薬が必要なときにお金がなくて買えないなどということを防げた、といいます。使った分をあとで支払えばよかったからね。
今のように、24時間買い物ができたり、ATMですぐ用意して支払えたりなんてなかったからね。
くすりやさんは、訪問する家族構成や、健康状態、などを把握して、その家庭に必要と思われる薬を配置するだけでなく、その昔、テレビもラジオもましてやインターネットなどなかった時代には、全国を行脚しているくすりやさんらを介して、世の中のNEWSを知る人たちもいたのだとか。
明るくて話術巧みで、家庭の主婦とは世間話しし、小さな子供がいる家庭にはおみやげなんかも持参していましたねー。(写真参照)
私は、小さいときに、「いつも、たくさんの場所をまわるんだよ」、と話すそのおじさんは、ずっと旅の人だとおもいこみ、この人生の苦労やいくばくぞーと、幼いながらも「こんな仕事はたいへんやー」と、思ったものです。
もちろん、そのような遠方への出張も今も変わらずあるかもですが、おじさんには家庭もかえるおうちもありますし、万年、旅の人ではありませんよね。
今となってはわかりますが!(笑)
きっと、旅の人=水戸黄門 の世界とくっついて想像したようです。
(当時のおじさんの持ち物 重ねごおり(かご)や風呂敷などが、そう連想させたのかも)
そうそう、江戸や明治の大昔は歩いて行商してたでしょうけど、ちょいひと昔前はバイクにのって、風呂敷にそろばんに手書きの領収書でした。
そしていまは、車にのって、アタッシュケースにPDF端末を携え、領収書も印刷されたものが目の前ですぐに出てきます。
そんな風に、変わっているんですよー。
うちの母が、大地震がくるだのどーだの、もう不安なことないなーとぼやいてたら
「とにかく命を大事に、毎日過ごすしかないー、元気でいましょう、私も、元気でいたら、また次も来ますから」と、明るい声で話していた。
元気で、丈夫で、明るく、だな
また、半年後!
photo
くすりやさんの子供用おみやげの定番は、四角い紙風船です。
よく遊びました。
柄がレトロです。
昭和生まれのあなた、懐かしいのでは?
とやまのくすりやさん(売薬 ばいやくさん、とも言うそう)です。
置き薬の会社の営業さんです。
物心ついたときから、同じおじさんだったようにおもいます。(どうかな?)
昔は黒髪、いまはすっかり白髪ですが、とにかくいつも元気にやってきます。
【とやまの置き薬】について、調べてみました。
配置売薬の歴史は元禄3年(1690)に遡る。
百万石の加賀藩から分封した、支藩の富山10万石2代藩主・前田正甫(まえだまさとし)公が江戸城に登城した折、陸奥三春藩(みつはるはん=福島)5万石の3代藩主・秋田輝季(あきたてるすえ)公が激しい腹痛を訴えて倒れておりました。
そこへ、前田公が持参していた、このとやまの置き薬でもっとも有名な、反魂丹(はんごんたん あの仁丹のような黒い丸薬(くすり)をあたえたところ、たちまち治癒し、その偉効に緒大名が、その薬を自分の国にも分けてほしいとなり、とやまの薬を全国に行商して販売するようになったんだとか。
明治の時代には、大変(重税がかけられたりと)苦しき時代もあったそうですが、新しい薬の開発、薬学学校設立、置き薬の必要性を熱心にといてまわった営業さんの存在があり、今に至っているそうです。
置き薬の最大の特徴はその販売の仕組み。
全国を回る富山の売薬さんは、薬箱(配置箱・預箱〔あずけばこ〕)を配置し、次回の訪問時に使用した分の代金を精算し、集金する(「先用後利〔せんようこうり〕」という仕組みです。
その備えは、そのむかしは、急な病で薬が必要なときにお金がなくて買えないなどということを防げた、といいます。使った分をあとで支払えばよかったからね。
今のように、24時間買い物ができたり、ATMですぐ用意して支払えたりなんてなかったからね。
くすりやさんは、訪問する家族構成や、健康状態、などを把握して、その家庭に必要と思われる薬を配置するだけでなく、その昔、テレビもラジオもましてやインターネットなどなかった時代には、全国を行脚しているくすりやさんらを介して、世の中のNEWSを知る人たちもいたのだとか。
明るくて話術巧みで、家庭の主婦とは世間話しし、小さな子供がいる家庭にはおみやげなんかも持参していましたねー。(写真参照)
私は、小さいときに、「いつも、たくさんの場所をまわるんだよ」、と話すそのおじさんは、ずっと旅の人だとおもいこみ、この人生の苦労やいくばくぞーと、幼いながらも「こんな仕事はたいへんやー」と、思ったものです。
もちろん、そのような遠方への出張も今も変わらずあるかもですが、おじさんには家庭もかえるおうちもありますし、万年、旅の人ではありませんよね。
今となってはわかりますが!(笑)
きっと、旅の人=水戸黄門 の世界とくっついて想像したようです。
(当時のおじさんの持ち物 重ねごおり(かご)や風呂敷などが、そう連想させたのかも)
そうそう、江戸や明治の大昔は歩いて行商してたでしょうけど、ちょいひと昔前はバイクにのって、風呂敷にそろばんに手書きの領収書でした。
そしていまは、車にのって、アタッシュケースにPDF端末を携え、領収書も印刷されたものが目の前ですぐに出てきます。
そんな風に、変わっているんですよー。
うちの母が、大地震がくるだのどーだの、もう不安なことないなーとぼやいてたら
「とにかく命を大事に、毎日過ごすしかないー、元気でいましょう、私も、元気でいたら、また次も来ますから」と、明るい声で話していた。
元気で、丈夫で、明るく、だな
また、半年後!
photo
くすりやさんの子供用おみやげの定番は、四角い紙風船です。
よく遊びました。
柄がレトロです。
昭和生まれのあなた、懐かしいのでは?