万病に効く薬はないと言うけれど、こんな書きはじめで行くと、リハビリはなんにでも効くとなりそうだが、そんなことはない。薬は、効果が形に見えなくても続けられるが、リハビリは、効果が見えないとやってる本人も、介護している周囲も別の方法を考えたくなる。7年も寝たきりだった小生が、1年に満たないリハビリで、手すりを使ってだがトイレに歩いていけるようになった。本人も満足だが、介護している周囲は、安心と介護している充実感を得るだろう。しかし、リハビリには病気の進行をとどめるものもあり、形が見えない場合、リハビリしている本人と周囲の絆が切れることもあったり、リハビリ師との信頼関係も切れたりするだろう。リハビリを始めるときは、事前にそのことをみんなが理解し、少しの進歩、少しの停滞を喜び、次に進むことを覚えなければいけないだろう。リハビリを始めて次に進むことをしなければ、何の効果も見えないし効くことはない。
小生は、リハビリを始めて特に気をつけようとしたわけではないが、リハビリ師には何でも話すようにしていた。在宅リハビリなんですが、病院でのリハビリ師との対応とは違うように思う。病院でのリハビリは、退院のためのリハビリであり、通院のリハビリでも、ある期間が来るときられる。在宅リハビリがいいというわけではないが、リハビリ師と患者の関係は、病院でより密でなければ成り立たないであろう。病院では、医師、病院という上があるから、リハビリ師に大きな責任はかかってこないだろうが、患者のサイドにいる家族、介護人との対応もリハビリ師にかかる。患者とリハビリ師が密にいなければ、お互いのフォローもできないだろうし、リハビリの進みも変わるだろう。在宅リハビリでは、病院でのリハビリと違って生活に近いリハビリも行われる。小生なぞは、冷蔵庫から物を取り出すリハビリもやった。家庭によってその位置も異なり、取り出し方も違う。家族の理解がないと、家族によってはリハビリ師がそこまで介入することを嫌うし、リハビリ師だって、それはリハビリ師の仕事ではないと思うかもしれない。しかし、患者にとって生活自体がリハビリなのである。伸びないひざを伸ばすことから始まり、手すりを持っての自立、移動。車椅子での移動。トイレの使用。いろいろやりましたが、電子レンジの使用何ってのもやりました。寝たきりで何もしなかった小生が、リハビリ師と協力の上、周囲の理解もあって、いろいろなことに挑戦することは、寝たきりの患者の視線も変わり、次へのステップとなるだろう。
この原稿だって、ある意味リハビリかもしれない。手が動かなくならないようにツイッターとかフェイスブックをやってた小生に、リハビリ師がくれた宿題なんです。SNSだってリハビリになる。以前考えられてたリハビリは、医師、リハビリ師によって確実に進んでいる。一部の患者からもそのデータは上げられているが、在宅リハビリのデータがあげられることはないだろう。あげられるとすれば、病院の実験によってだろう。確かに、数多い実証がなければ価値はないかもしれないが、数少ないリハビリであっても、それを欲する患者がいれば立派なリハビリだ。この原稿の前には、車椅子でバスに乗って出かける写真を使って、外出を促すパンフレットを作った。これによって、外出するためのリハビリをする人が増えたり、外出する人が増えれば立派なリハビリだし、誰かの役に立てば、それは小生にとっても立派なリハビリだ。リハビリの成果は、万人が決めたものでなく、患者それぞれが持っている独自のものだ。成果の見えにくい認知症のリハビリだって、患者本人、リハビリ師、家族には見えているかもしれない。
在宅リハビリをやっているリハビリ師は、一人で何人ものリハビリをやっている。病院でのリハビリのように、決められたカリキュラムににのってこなしていけばいいが、在宅リハビリは、患者本人も家族もそれ以上を望んでいるだろう。患者それぞれに独自のカリキュラムを組めないリハビリ師は、在宅リハビリはやらないほうがいいだろう。病院にはリハビリの道具も多く、医者のフォローもある。家庭には、立ち上がるときに手すりさえないのだ。幸い、小生宅には仲間のつけてくれた手すりがあり、自立や歩行の訓練ができる。駅やバス停も近くいろいろなリハビリも考えられる。まだ成功はしていないが、壁などの出っ張りを持って自立するというのもやった。いろいろやらせてくれるリハビリ師ではあるが、この応用力がなければ、手すりがなければ自立も歩行もなく、マッサージに似たリハビリになっていたかもしれない。それも進歩のための一歩だが、何もないところから次の一歩を生み出す応用力は、リハビリ師のリハビリかもしれない。リハビリの基本を学んで、患者より十二分の知識は持っていても、それぞれの患者に合わせて応用できなければ、価値はない。リハビリ師も大変だ。
これは少しリハビリと離れるかもしれないが、スカイプのような通信設備も有効だと思われる。身動きのできない人を常時そばで見ていることは可能だが、見ているほうにも見られているほうにもストレスがたまる。介護しているほうにストレスがたまれば、予期せぬ事態になることも最近よく耳にする。常時とはいかずとも離れて見られることは、介護するほうにもされるほうにも良いことだと思われる。スマホも普及してる今、外出先で両者が姿を見ながら連絡が取れるのはいいことだし、小生だけかもしれませんが、設置されたパソコンをつかって、ツイッター、フェイスブックなりで、他の身障者ともアクセスできるし、リハビリなどの情報も交換できる。盲目の人でも音声入力でメールできるようである。ある人は、スカイプで一度に多くの人とコミュニケーションをとり、活力を盛り上げている。老齢の方でも、最近ではパソコンを使いこなし、多くの方とコミュニケーションをとってるようだ。八十一才の小生の母もやっている。これだって、高齢者の立派なリハビリかもしれない。少子高齢化の中、孤立する高齢者が増えているが、家庭では通信費の割合が増えているというからには、通信方法も回数も増えているに違いない。その一部で高齢者との通信を増やせば、孤立する高齢者を減らすことができるかもしれない。当然、高齢者のほうも通信の勉強をする必要はあるが、スカイプで顔を見ながら話し、高齢者のパソコンを遠隔操作で動かしながら教えることもできる。小学生の授業にパソコンがある今、孫とおばあちゃんの会話が、電話じゃなくパソコンになるのもそう遠くないだろう。コミュニケーションをとることによって、孤立して失われた高齢者の立場をを回復する。身体的機能を回復することがリハビリだといわれがちだが、人の立場を回復し社会復帰することも立派なリハビリだ。
本来社会的権利・資格・名誉の回復を意味する言葉だが、医療的回復のほうが小生のような障害者には先に来る。ただし、在宅リハビリのリハビリ師さんと知り合ってからは、リハビリの幅が大きく広がった気がする。リハビリ師も理学療法士とか作業療法士、視聴覚療法士とか言うのが正式名称なのだろうが、リハビリ師さんのほうが呼びやすい。本当は姓名で呼んでいるのだが、リハビリ師と患者は親しくなって、リハビリの幅を広げることが大切だろう。しかし、理学療法士、作業療法士、視聴覚療法士も患者にとっては医師と同じ存在なのだが、その認知度は、小生の知識では皆無に等しい。そんなことは気にしないというリハビリ師さんは多いと思うが、資格の回復という点からも、リハビリ師さんの資格はもっと世間に認知されるべきであろう。何もできない患者サイドではあるが、リハビリ師さんの資格回復にも協力した主のである。
小生は月に二度ほど往診を受けているが、比較的若い医師が多いし、インターンがついてくることが多い。在宅の患者は、病気もわかっているし、対処の仕方も事前に想定できるので、経験をつむにはいいだろうが、患者の変化を見つけ出すベテラン医師の話術を見ていない。ベテランは、寝室の状態変化でも患者の病状変化に気づく人もいるというし、患者が言いやすいように質問もする。質問というより話しやすくしているのだが、設備の整っていない往診では必要なアイテムだろう。マニュアルどうりやっていたのでは、十分な往診活動ではないと患者としては思う。回復という意味でのリハビリでは、医師の話術は患者・医師・リハビリ師を密につなぐ道具でもある。
万病に効くという薬はないが、リハビリは、患者とリハビリ師、医師との関係、家族や周囲の理解や協力、患者本人の目標や努力、その他によって、少なくとも進歩する。誰が認めなくても、本人が満足すれば、万病に効いているといえるかもしれない。それが、怪我や病気、老齢であっても。
万病に効く薬はない。