いたづらなり

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私の不安神経症 母の最期

2023-11-13 02:06:15 | くやしむべきこと
タイトルをこうさせてもらった。
精神医学では何でもかんでも一緒くたにしがちだからだ。
それぞれ、生い立ち、環境、性質、或いは外的環境に著しく左右されられてしまうからだ。
私の場合は、発症ちょうど一年前に、かなりな事があったものの、それが原因と思わない。
ぎりぎり成人してたし、働きまくった。

ある夜のこと、夜中の3時くらいに(急撃な発作にみまわれ、15〜20分ゼイゼイしたあと、一番眠い時間帯であるから、そのままパタと寝るといった事が約一週間続いた)

その最後?日、肉体と精神が一致しない感覚にとらわれ、夜中なのに、テレビをつけてみたり、風呂に入ろうとしたり(入らなかったが)、鏡を覗いたりした。

「おれ、生きてるよな?」

そうして小1時間家をウロウロして、当時同居していた両親を起こすことにした。

既にあらゆる感覚が麻痺し始めており、

親父が救急車を呼んだ。

呼吸がおかしいのと、身体特に指の自由が効かなくなっていて、拇指が勝手に閉じるとか、朦朧としていたのをクッキリ覚えている。

救急隊はバイタルを取り、氏名を聞いて、「ゆっくり生きていますよ」と言ったのを覚えていいる。

いわゆる、大雑把にいうと離人感を覚えていて、通常の行動をとるにはそれなりの時間を要したが、回復していった。

それよりも、救急車の搬送先の医師が「単なる過呼吸ですよ、もう二度と救急車呼ばないでくださいね!

がなにより腹がたった。

離人感や発作がおさまらないため、割と近所の精神科?に通ったが、開口一番「うつ病ですね
と毎回大量のうつ病の薬を飲むことに。

いやいやいや、鬱的な症状も問診もなかったハズなのに、何故?と晴天のヘキレキだったが、やはり何一つ良くなる方向になかった。

馬鹿(自分)なので、仕事はキッチリつづけて、いたるところでパニックを起こした。
飯時、風呂、トイレ、飯時、通勤。。そりゃあ治ってないからだろうからね。

自分でも書籍を読み漁り、何も無い、冷静な時に発症する症例があまりにおおいこと、就寝時にも多いことを、知った。

しばらくして、転院し、その前に、都立病院に、行ってみたものの、
先生は
「うーん。。これだと、強いていうなら不安神経症かなあ?」
「一応処方をだしておきますね」
「あなたの言えからだとココは遠いし、くるべきところではないです、保健所で調べてもらうと案内してくれますよ」

とのことだった。

それから、色々探して、
当時はそういうクリニック一般的ではなかったから、
通勤路線の中間の位置に、決めた。

考えると、人の話を聞かない。どういうメカニズムで発症するのか、答えてはくれない。ただ、忘れていくのを待つといった治療法だった。

それから、何年か通っていると、緩やかな予約が、患者が増えていくのに追いつかず、なんじかんも待つまでになっていった。。

これは何かあるんだろうな?と。

対処療法で、私は治らなかった。少なくとも、何十年と。

自分はこの長きの間、バブル崩壊を経験し、クビになり、個人事務所でちびちびやり、

そして、自ら無理なのではと自分の能力低下を悟った。

あとは、わりとグタグタである。

このコロナ禍で家族を二人なくした。コロナもワクチンも関係なったが、
不審死だった。

実家を出ていた私は、兄夫婦に母をまかせていたが、兄が急死したため、

30年ニートだった甥と、義姉が、ボケてるババア!とやりつくし、ケアマネも専門家もお墨付きの母をいちびった。

最後に壁中に
「死にたい」と書いて貼り付けていた母。

法律がなければ、殺してやるという、甥のコトバを重く受け止めた、ケアマネとこちら夫婦がデイサービスに避難訓練させていたとき、

異変が起こった。
血中酸素の著しい低下、コロナのせいで、遠い病院までの搬送。。

一週間経つか経たないかで、母はこの世を去った。
遠い病院のため、間に合わなかった。

自分が何か先手を売ってでかることがなかったか?と色々考えたが、
実家を継ぐものが、その権利をもつし、弱った母を巻き込んでストレスをかけたくなかった。

こんなこと、あってはならない。
もう2年近く経つのか。
後悔とともに、
おれはいる。


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