令和ザコ伝説


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# Diva 鄭麗君 テレサ・テン

2023-03-17 11:01:00 | 日記
テレサ・テン(1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。

1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。


1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る



1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で、日本は中華人民共和国と国家の承認をし、中華民国とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。 そこで彼女は、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。


この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女をアメリカ合衆国に渡らせることにした。事件から一年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、中華民国国軍の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた

そして、台湾での歌手活動も再開した。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃『酔拳』を大ヒットさせていたジャッキー・チェンと米国で再会し、互いに思いを寄せるが、人気に溺れ取り巻きの前で侮辱行為を働いたため、失望しジャッキーから離れてしまう。ジャッキーは激しいショックを受けて目を覚ました。その後は親友となった。

1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコード[3]に移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす。

「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした「愛人」も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。1986年には、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に2年連続出場する。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚、『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなる。

同1989年、失意の中アジアを離れて、フランスのパリに単身移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。

1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし、搬送先のチエンマイラム病院で死去した。部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員が発見し、救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかってしまい、病院到着時には既に死亡していたという。42歳の若さだった。


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