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北条義時の巻 大河ドラマが描かない歴史
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【音声で聴く 神田蘭の5分で恋する日本史列伝】北条義時の巻 大河ドラマが描かない歴史
今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は10%台半ばの視聴率で推移していて、テレビ離れの時代としては堅調な人気です。
小栗旬さん演じる義時や源頼朝(大泉洋さん)、北条政子(小池栄子さん)らが織りなす、時にコミカルなストーリーは、もちろん史実と違う部分があります。
鎌倉幕府の成立に貢献し、頼朝の死後は姉の政子とともに幕府の実権を握った義時ですが、実際には、大河ドラマの主人公になるほどの優れた政治力を発揮したとはいえないとされます。ドラマより史実に近い物語を神
田蘭さんが語ります。
脚本全文を公開します。音声とともにお楽しみください。
◇
肉親殺しというのは人の道を最も外れているのでありますが、鎌倉時代の権力者たちは平気でやったのでございます。初代将軍、源頼朝は、いとこの義仲を倒し、叔父の行家を斬らせ、人々に慕われておりました弟の義経を自害に追い込み、やはり弟であります範頼も死に至らしめ、幼い娘のいいなずけで義仲の子でありました義高も殺してしまったんです。これにより娘は心を病んでしまいました。
頼朝は偉大な政治家でありますが、そんなことをしていては後継者や味方は減っていきます。建久10年、1199年、頼朝が謎の死を遂げますと、息子の頼家が18歳で第2代将軍となったのですが、若き頼家の能力には期待はできません。
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そこで頼朝の未亡人、北条政子は、父の時政と謀りまして、13人の有力者で政治や裁判を行う合議制を敷いたのです。
幕府の歴史書であります「吾妻鏡」によりますと、次の人たちでございます。
北条殿、同じき四郎主、ならびに兵庫頭広元朝臣(ひょうごのかみひろもとあそん)、大夫属入道善信(たいふさかんにゅうどうぜんしん)、掃部頭親能(かもんのかみちかよし)、三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)、八田右衛門尉知家(はったのうえもんのじょうともいえ)、和田左衛門尉義盛(わだのさえもんのじょうよしもり)、比企右衛門尉能員(ひきのうえもんのじょうよしかず)、藤九郎入道蓮西(とうくろうにゅうどうれんさい)、足立左衛門尉遠元(あだちのさえもんのじょうとおもと)、梶原平三景時(かじわらのへいざかげとき)、民部大夫行政(みんぶたいふゆきまさ)。
ここで赤穂義士伝でしたら盛大な拍手をいただけるんですけどねえ…。13人ですからこれで終わりでございます。
北条殿というのが北条時政。四郎主というのは息子の北条義時でして、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公でございます。
この義時、平安時代末期の長寛元年、1163年に伊豆国に生まれました。14歳のころに姉の政子が源頼朝と結婚しておりますから、頼朝とは若いころからの付き合いでございます。戦でも常に手柄を立てますことから、頼朝から「お前は家臣で一番じゃ」と信頼されておりました。
頼られておりました理由はそれだけではないんですよね。
鎌倉に入ったばかりの頼朝は、妻の政子が頼家を身ごもっていたときに浮気をいたします。相手は亀の前という愛人でして、政子が出産後にそれを知りまして修羅場となります。父の時政は怒りまして、一族を率いて伊豆へと引き揚げてしまったんです。
ところが義時は「おれ関係ないから」と鎌倉に残っておりました。それを知りました頼朝、夜中にも関わらず義時を呼び出しまして「お前、感心したぞ。私の子孫を守る人物になるだろう。後で褒美をやろう」と褒めたのでありました。上司の不始末を見逃すのが出世の道となったんですねえ。
さて、合議制の13人ですが、北条氏の陰謀で次々と減っていきます。その一人に比企能員(ひきよしかず)がおりまして、2代将軍頼家の妻の実家が比企一族でありました。北条氏と対立して滅ぼされてしまったんです。
それだけではありません。政子は頼家を伊豆の修善寺に押し込めまして、手下が惨殺したんです。子殺しでございます。人の道を外れております。頼朝が浮気していたときに身ごもっていた、あの頼家をですよ。どんな心境だったんですかねえ。
肉親同士の血みどろの争いはまだまだ続くのです。幕府の初代執権…、執権というのは将軍を補佐する役職ですが、将軍はお飾りになっておりましたから最高実力者です。この執権であります北条時政を、子供であります政子、義時のきょうだいが追放してしまったんです。こうして義時は第2代執権に就任して権力を握ったのでありました。
頼家の後を受けまして第3代将軍になったのは弟の実朝で、朝廷との結びつきを強めておりましたが、この実朝も鶴岡八幡宮に参拝しましたときに、頼家の子、つまりは自分のおいに暗殺されてしまうんです。そのおいも直ちに殺されまして、源頼朝の血は3代27年で途絶えたんです。
この事件の背景はよく分かってないんですが、実朝と一緒にいるはずだった北条義時は、直前に「おなかが痛い」と言って自宅に帰っていったんだそうです。
こうした鎌倉幕府の混乱ぶりを京都で苦々しく思っておりましたのが後鳥羽上皇でございます。朝廷に再び権威を取り戻そうと、武芸に励んでおりました。「源実朝なら望みもあるが、北条義時では話にならん」ということで、承久3年、1221年、全国の武士に対しまして、「義時を討て」と命令を出したのです。
これが承久の変の始まりでございます。最近は承久の乱と言ってるそうですけど、まあ私は神田蘭なんでラン好きですけど、これは承久の変ですね。
関東の武士たちは朝廷と戦うことをためらいましたが、北条政子が「頼朝公のおかげで、皆の地位も上がり、土地も増えたではないですか。そのご恩は、山よりも高く、海よりも深いのです」という有名な演説を行いました。鎌倉幕府の仕組みは、将軍が武士に土地の支配を認め、武士は将軍のために戦うというものですから、武士は幕府がなくなっては困るわけです。
土地をめぐってはこんなこともあったんです。後鳥羽上皇には亀菊という愛人がおりまして…。また愛人の話ですね。源頼朝の愛人は亀の前でしたが、今度は同じ亀でも亀菊でございます。
上皇、この亀菊に、現在の大阪府豊中市にあります土地をポンとプレゼントしたんです。しかし、その土地は幕府に任命されました地頭という武士が管理しておりまして、「そんなこと聞いてないよ」となったんですね。これを知りました後鳥羽上皇、義時に「あそこの地頭を廃止しろ」と迫りました。しかし義時は「特別扱いをしては示しがつきません」と拒否。これが承久の変の一因とも言われているんです。

義時は息子の泰時を総大将としまして朝廷の軍を破り、恐れ多くも後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を島流しにし、2歳で即位したばかりの仲恭天皇を退位させたんです。また、京都に六波羅探題という役所を置きまして、朝廷を監視いたしました。
朝廷の軍に付きました武士やその家族に対する義時、泰時親子の報復も残酷を極めたんです。子に親を斬らせたり、叔父がおいを斬ったりするなど、どこまでも人の道を外れていたんです。
北条義時は3年後に亡くなりまして、泰時が第3代執権として後を継ぎました。この泰時、義時と違ってなかなかの人格者で、話し合いの政治を進めまして、初めての武家の法律であります御成敗式目を作ったのです。
その後、第8代執権であります北条時宗は2度にわたります蒙古襲来を撃退いたしました。時宗がいなければ、現在のわが国はなかったかもしれないのです。
そう考えますと、あのとき義時が朝廷に逆らったことが悪かったのか、はたまた良かったのか。歴史というのは本当に奥深いものでございます。
大河ドラマよりも面白い北条義時のお物語、これをもって読み終わりといたします。
□
語り手 神田蘭
脚本 渡辺浩(産経新聞社)
ディレクション EUREKA creative studio
音響監督 向井達也(オレンジボックス)
制作 産経新聞社

埼玉県春日部市出身。女優、岡部厚子としてNHK大河ドラマ「元禄繚乱」などに出演。平成16年に講談師の神田紅さんに入門。 20年に二ツ目、30年に真打昇進。落語芸術協会所属。 ラジオ番組「恋する日本史」(JFN)などに出演。著書に『恋する日本史講談』『女と男の恋する日本史講談』。
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