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戦国武将・加藤清正の死因は性病…!今も昔も変わらぬ「梅毒の恐ろしさ」
わかりましたか・・
戦国武将・加藤清正の死因は性病…!今も昔も変わらぬ「梅毒の恐ろしさ」(週刊現代) @gendai_biz
「徳川による暗殺」で死んだわけではない
豊臣秀吉に見いだされ、「賤ヶ岳七本槍」の一人として活躍した加藤清正は、今でも根強い人気を誇る戦国武将だ。戦に強かっただけでなく、築城や統治にも長けていたことから、かつての領地だった熊本県などでは現在も「清正公さん」として親しまれている。
清正は慶長16(1611)年3月、徳川家康と豊臣秀頼を和解させるため、二条城での会見を取り持った。しかし、帰路についた船内で発熱し、わずか3ヵ月後に領地の熊本で死亡したのだ。
こうした背景から、多くの映画や小説は、清正の死因を「徳川家による暗殺」としている。
'16年に放送されたNHK大河ドラマ『真田丸』でも、服部半蔵に毒殺される一幕があった。しかし、現在最も有力なのは、清正が「別の毒」によって死亡したという説だ。
好色は身を滅ぼす
徳川家康の孫にあたる松平忠明が著したとされる『当代記』は、慶長18年に浅野幸長が唐瘡(梅毒)で死んだことを示しつつ、こんな記録を残している。
「去々年加藤肥後守(中略)死したりしこと、ひとへに好色の故、虚の病と云々」
つまり、清正は浅野幸長と同様に、朝鮮出兵時に遊女を囲むなど、女遊びの末梅毒にかかって死んだと結論付けられているのだ。
『当代記』には他にも、松平忠吉や結城秀康といった家康の息子達が梅毒で死去したことを記しているため、「浅野幸長や清正が敵対勢力だから梅毒と喧伝して辱めた」ということは考えにくい。
なお、家康の次男として生まれた結城秀康は、豊臣秀吉の養子だったこともあり、清正と同様に徳川家と豊臣家の和解に努めていた。豊臣家の頼みの綱であった前田利長も梅毒で死去。
こうして勢力を失っていった豊臣家の状況を鑑み、家康は豊臣家を攻め滅ぼすという方針を固めたのだった。
もし清正たちが女遊びを控えていれば、それ以降の歴史は変わっていただろう。
いつの時代も、性病は恐ろしい存在だ。(若)
「週刊現代」2022年10月29日号より
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