言葉を大切にすれば栄える

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言葉を大切にすれば栄える

国が傾く原因は何かというと、根本思想が崩れることだが、根本思想が崩れるとは、「言葉」が崩れることだ。
人間1人にしても、優れた人間であるか、劣った人間であるかは、その者が持っている根本思想によるが、その根本思想が駄目だとすれば、それは、その者が使う「言葉」が駄目だからだ。

ユダヤ人が優秀であることがよく言われる。
世界の人口の中の0.2パーセントに過ぎないユダヤ人がノーベル賞の20%を受賞し、ユダヤ人がお金で世界を動かしているともよく言われる。
そして、ユダヤ人は、古代から言葉を大切にしている。
それを象徴する話として、ユダヤ人が神の名を特に重んじている話がある。
例えば、ユダヤ人には、神の名を書き始めたら、書き終わるまでは、王様が挨拶をしてきても返事をしてはならないという教えがある。
それほど大切にしている神の名は、みだりに言わず、敬虔に神の名を崇める者以外には、聞かされることもない。
聖書の詩編23に、
「御名のために、私を義の道に導かれます」
と言い、詩編91では、
「彼はわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう」
と書かれている。

日本においても、言葉は言霊として大切にされた。
『古事記』は、改ざんされたと言うべきか、あるいは、重要なことが隠されたと言うべきかは迷うが、おかしな記述も多い。
例えば、イザナギとイザナミの間に出来た初めての子は、骨のない水蛭(ひる)に似た醜い子で「水蛭子(ひるご)」と言われ、小さな船に乗せて流し捨てた・・・なんて無茶苦茶である。
『古事記』より古くに書かれたと言われる『ホツマツタエ(ホツマツタヱ)』では、イザナキとイザナミの間に出来た初めての子は「ヒルコ」と名付けられた姫だったが、訳あって、カナサキ夫婦に譲った。
ヒルコは、日霊子(ひるこ)とも書かれる太陽のごとき姫である。
カナサキに譲る際、形式的に、一度捨てることとし、確かにヒルコを船に乗せて流したが、すぐに、カナサキがその船を拾い上げるという手順であった。
カナサキは歌の達人であり、カナサキに育てられたヒルコ姫も、幼い時から歌に通じ、やがて、歌の神として、ワカヒメ(和歌姫)と呼ばれるようになる。あるいは、若く瑞々しい神という意味で「若姫」と言うこともあるようだ。
ワカヒメが作った歌を、自ら詠んだり、高貴な人に詠ませると、自然災害や害虫の害が自然に収まるなど、奇跡の力を示したと言われる。
ワカヒメは、『日本書紀』で、稚日女尊(わかひるめのみこと)として少し登場するくらいで、今日では、天照大神の幼名であるとか、天照大神の妹神などと言われる。
だが、ワカヒメは歌の神として、言葉の重要性を示しており、このことが語られないことが問題であるが、とはいえ、日本では、元々、言葉は大切にされた。

だが、第二次世界大戦後、日本語が乱れてしまい、日本人の真の力が封印されたが、それでも、心ある人は日本語の重要な部分を大切にしたので、他国に負けることはなかったが、それも、近年では駄目になってしまった。
もはや、若者だけではなく、いい歳をした者達も、いい加減な、醜い日本語を使うようになってしまった。
日本語を美しく使わない者に力はない。
しかし、美しい日本語を使う者は言霊に護られる
特に古語を使わなくても、きちんとした日本語を使うべきだろう。
少なくとも、乱れた日本語を使うようでは見込みはない。
そして、ユダヤ人に倣い、神の名を大切にすべきである。
もっとも、日本では、神の名は隠され、
「ありがたい」「いただきます」「おかげさまで」
などと言う時、実は、神に対して言っているという話もある。
だから、これらの言葉を丁寧に使うべきだろう。

日本語自体が美しいのだから、「神様の奇跡が起こる」というアファーメーションも、敬虔に唱えれば、より大きな力を発する。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、「ありがたい」を1日1万回言わせ、この武士は7日で完治した。
あるいは、自分が生まれた地域の祭神の名を大切に唱えるのも良いと思う。
言葉を大切にする日本人に不幸はない。
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