違うことに寛容に

違うことに寛容に
 〈日本以外のアジアの思想〉
 偉い人には規則は適応されない、守らなくていいというのが日本以外のアジアの思想です。支配される側には適用されても、支配する側は許される。しかし、日本では天皇陛下ですら規則を守ります。それだけ『規範意識』が強い。それを朝青龍は知らなかったのです。

 朝青龍はこう考えていたに違いありません。自分が一番相撲が強くて、応援してくれるファンがいて、自分のおかげで興行成績も上がっている。相撲協会に対して「オマエらは俺のおかげで金を儲けているんじゃないか」「俺が一番偉いんだから、規則は関係ない」と。

 〈相撲は国技ではない〉
 日本には「長幼の序」という思想がありますが、モンゴルにはありません。(中略)日本の「文化」だった「マンガ」や「クルマ」は世界中に広まり、「文明」になりました。同じように「相撲」や「柔道」も「文明」となったのです。「文化」から「文明」への変化を意識せず、今までと同じように接するのはおかしいのです。

 〈いじめは日本の特徴
 農村で稲作をして暮らす日本人にとって一番怖いのは、仲間はずれにされることです。「村八分」という言葉は、村の秩序を乱した人間とその家族を、仲間はずれにすることです。葬式と火事の二つだけが例外だったので、二分引いて八分と言った。

 このような歴史から、仲間はずれにされるのは、当人が悪いのだという思想がいまだに日本には残っています。だから、一人だけをのけ者にする「いじめ」が成立するのです。どちらが正しいとか、理屈が通るとかは問題ではなく、気に入らない人間を仲間はずれにする、という『嫌がらせ』です。ある意味、日本の文化の特徴です。

 日本人は全体の中の一部分で過ごすのに慣れすぎてしまっている。そのせいで、自分を磨いて立派な人間になることを軽んじ、努力する人の足を引張る傾向があります。道理と正義に関係なく、「立派だから」仲間はずれにする。

 なぜそうするのか。嫉妬しているからです。「男の嫉妬は正義に変わる」。正義面して言っているけれど、本当は嫉妬なのです。

 〈違うことに寛容に〉
 日本人は「自分」を十割出すのは悪いことだと思っています。伝家の宝刀は抜かないし、「能ある鷹は爪を隠す」のが伝統で、才能があっても二割しか表に出さない。それを是としてきた。

 だから他人が力を十割発揮するのを見ると嫉妬するのです。自分がこんなに我慢しているのにアイツは何で我慢しないんだ、と。嫁姑関係だってそうでしょう。「私はこんなに苦労したのに、あの人は我慢が足りない」というのが多い。

 しかしモンゴルは人口が少ないから、他人と較べることも少ない。むしろ持っている力をすべて発揮するほうがいいことなのです。日本の若者が、アジアへボランティアなどに行って病み付きになったしまうのは、自分を100%発揮できるからです。思い切りやっても怒られない社会があるのなら、そこに行きたいと思うのが普通です。

 天才、エリートは数が少ない。その少ない割合の優秀な人を削除していき、力を発揮しょうとする人の足を引張るようでは、日本がよくなるわけがありません。そろそろ日本は、「違う」ということに寛容になる時期に来ているのではないでしょうか。(宮脇淳子 モンゴル史学者 「WILL-2008年2月号」)

真中 行造のページ  2008年2月26日より 引用
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