学者とめぐる世界遺産!軍艦島・日光東照宮・嚴島神社

なぜか かなり重複ありますが テキスト ありがたいことです

 

価格.com - 「林修のニッポンドリル 〜学者とめぐる世界遺産!軍艦島・日光東照宮・嚴島神社〜」2022年6月15日(水)放送内容 | テレビ紹介情報

 

軍艦島

長崎県の世界遺産・端島炭坑、別名・軍艦島。レッド吉田が10年以上軍艦島を研究している出水享さんと共に軍艦島に上陸。軍艦島は建物の老朽化が進み、上陸できるのは見学ルートである一部分だけ。見学ルートからまず見えるのは急斜面の岸壁。軍艦島はもともと海に突き出た岩礁でしかなかったが、石炭採掘のために6度にわたって拡張された結果現在の姿になった。採掘は昭和49年まで行われ、危険だが高収入を得ていた工員は島に家族を呼び寄せ街を建設、外周1.2kmの島に約5300人が生活し世界一の人口密度と言われていた。しかし時代とともに炭鉱は衰退し閉山。その後、約50年無人島として雨風にさらされ続け現在の姿に。2015年に世界遺産登録されたことから再び注目を集めるようになった。見学ルートの途中には地下の採掘場に向かうための階段を見ることができる。地下の最深部は約1000mで工員はエレベーターで2分30秒かけて地下600mまで降りていたという。地下炭鉱跡は完全立ち入り禁止となっている。

見学ルートの最終地点に見える7階建て集合住宅30号棟が建てられたのは大正時代で築100年以上。日本初の鉄筋コンクリートアパートで、狭い敷地により多くの人が住めるように最新技術が惜しみなく投入されたのだという。軍艦島は岩礁だっため砂がなく、コンクリートには対岸の砂を代用、塩を含んだ砂でコンクリートを作ったため劣化を早める要因の一つになっている。隣に建つ31号棟は波から島を守る防潮棟も兼ねている。窓は小さく波に耐えられる設計になっており、30号棟と比べて劣化も少ない。

長崎市の協力で特別に許可の出たエリアに入る。立ち入り禁止の理由は劣化が進み崩壊の危険が高いため。炭鉱があった場所には石炭を運ぶベルトコンベアの橋脚跡が残っている。そして、立ち入り禁止エリアで最も貴重な施設へ向かう。

 

長崎大学

 

 

東京タワー

長崎県の世界遺産・端島炭坑、別名・軍艦島。レッド吉田が10年以上軍艦島を研究している出水享さんと共に軍艦島に上陸。軍艦島は建物の老朽化が進み、上陸できるのは見学ルートである一部分だけ。見学ルートからまず見えるのは急斜面の岸壁。軍艦島はもともと海に突き出た岩礁でしかなかったが、石炭採掘のために6度にわたって拡張された結果現在の姿になった。採掘は昭和49年まで行われ、危険だが高収入を得ていた工員は島に家族を呼び寄せ街を建設、外周1.2kmの島に約5300人が生活し世界一の人口密度と言われていた。しかし時代とともに炭鉱は衰退し閉山。その後、約50年無人島として雨風にさらされ続け現在の姿に。2015年に世界遺産登録されたことから再び注目を集めるようになった。見学ルートの途中には地下の採掘場に向かうための階段を見ることができる。地下の最深部は約1000mで工員はエレベーターで2分30秒かけて地下600mまで降りていたという。地下炭鉱跡は完全立ち入り禁止となっている。

 

30号棟

見学ルートの最終地点に見える7階建て集合住宅30号棟が建てられたのは大正時代で築100年以上。日本初の鉄筋コンクリートアパートで、狭い敷地により多くの人が住めるように最新技術が惜しみなく投入されたのだという。軍艦島は岩礁だっため砂がなく、コンクリートには対岸の砂を代用、塩を含んだ砂でコンクリートを作ったため劣化を早める要因の一つになっている。隣に建つ31号棟は波から島を守る防潮棟も兼ねている。窓は小さく波に耐えられる設計になっており、30号棟と比べて劣化も少ない。

31号棟

 

 

軍艦島

軍艦島の立入禁止エリアの中で最も貴重な施設とされる、単行の入り口跡に足を踏み入れる。軍艦島最盛期の大正・昭和は日本が非常に貧しい時代であり、世界に肩を並べるために製鉄産業に力を注いでいた。そのためには石炭が必要だった。3交代24時間体制で石炭を掘っていた時の名残として、閉山後も石炭がいたるところで見ることができる。軍艦島の石炭は非常に質が高く、製鉄には欠かせなかったという。一行は立入禁止エリアの中にある住民のん住んでいたエリアに歩を進める。ちなみに住居は71号棟まであったが1号棟は住居ではなく神社だったという。地下深く堀り石炭を採取するという危険な仕事だったため、神社は島民の心の拠り所だったという。また軍艦島には小中学校もあり、最盛期には1169人もの生徒が通っていた。校舎の6階には体育館があった。もともとは6階建てだった校舎の最上階が体育館だが生徒数の増加により簡易的な7階を建て増しした。7階は現在では潰れてしまっている。また学校のそばには病院もあった。軍艦島は当時木造建築が主だった時代にデザインも凝った集合住宅がいくつも存在した。ちなみに65号棟が最も大きく、島でも最大の建物になり300世帯が生活していた。この65号棟は上層階の方がベランダがより張り出している。これは今持って謎だという。

解明できない謎が残る軍艦島、その中でも地下に繋がる入口があるがこれは共同浴場に繋がる入口。軍艦島のアパートは一部を除き風呂が無かったため、3つの共同浴場を使っていた。また狭い土地を有効利用を行うため、地下には焦点が作られた。炭坑の仕事は危険だがその分収入も高く、島民は充実した生活レベルだったとされている。それを示すかのように三種の神器と言われた冷蔵庫などを全国的な普及率が10%だった時代に約100%所持していたという。島には遊ぶ施設も充実しており、島の外にも発電所を作るほどだった。しかし時代は石炭から石油に移行、1974年1月15日に閉山となり、同年の4月20日には全住民が離島した。また軍艦島のシンボルとも言えるのが「地獄段」と呼ばれる階段もあり、屋上庭園も存在した。この屋上庭園は野菜などの作り方を子どもに教えるために作られたという。軍艦島は2015年に世界遺産に登録された。しかし今回立入禁止エリアで見たものの中に世界遺産の登録に関係しない。軍艦島で世界遺産に登録されているのは2つ。1つは地下の炭鉱跡、もう1つは明治期に作られた軍艦島を守る護岸。これは石でできており、天川という接着剤を使って石を積み上げている。その軍艦島の護岸だが、現在海流や波の影響で護岸の土台に穴が開いているという。果たしてその大きさはどれほどのものなのか。

 

ニュー・シネマ・パラダイス

 

軍艦島の護岸の土台部分の穴。これは波や潮の流れで確認するのが非常に困難だという。今回の撮影では護岸の穴は撮影することは出来なかった。1年前の時点では天川を使って硬めた石が取れてしまっており、流されてしまった。また同様に石が取れて空洞になっている部分や設置部分が無くなってしまっている場所もある。軍艦島は果たしていつまでこの姿を保つことができるのか。

 

厳島神社

軍艦島の護岸の土台部分の穴。これは波や潮の流れで確認するのが非常に困難だという。今回の撮影では護岸の穴は撮影することは出来なかった。1年前の時点では天川を使って硬めた石が取れてしまっており、流されてしまった。また同様に石が取れて空洞になっている部分や設置部分が無くなってしまっている場所もある。軍艦島は果たしていつまでこの姿を保つことができるのか。

 

 

日光東照宮


日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

 

陽明門

 

唐門

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

石鳥居

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

 

 

 

 

表門

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

 

神厩舎

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

御水舎

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

 

上神庫

日光東照宮は1617年、徳川家康を祀る神社として創建された。1999年には世界文化遺産に登録された。しかし、世界的建築家のブルーノ・タウトが珍奇な骨董品と酷評するなど、徳川家の権力を象徴するあまり下品だと揶揄されることもある。研究歴50年、日光東照宮特別顧問の高藤晴俊さんは日光東照宮について、昭和まで装飾過剰で否定的な評価が多かった、そのため研究しようという人がいなかったと話した。日光東照宮には国宝級の建物が55棟ある。今回は高藤さんと一緒に日光東照宮を巡る。まず、注目してほしいのが入り口にある石碑、徳川家康没後300年祭の時に建造された。石碑の字を書いたのは渋沢栄一だという。境内の方へ向かうと、巨大な石鳥居が現れた。1949年に大きな地震があり、石鳥居の柱の継ぎ目が10cmズレたが揺れている間に元に戻るという怪奇現象が起きた。しかし、高藤さんによると怪奇現象の謎は解き明かされたという。この鳥居は15個のパーツに分かれていて、絶妙なバランスで組み合わさっていることが分かった。上部は軽くするために中が空洞になっている。柱の継ぎ目は心木でつながれている。上部の柱には隙間が作られており、心木の先端は丸くなっているので、ズレても自己修復する。耐震構造を持った石鳥居だということが分かった。鳥居を過ぎ、表門をくぐると御神域に到着した。神厩舎や御水舎、国宝の陽明門がある。日光東照宮の彫刻は日本の美ではないとマイナスの評価をされていたという。しかし、高藤さんはすべての彫刻に意味がある、それを知ると別の顔が見えてくると話した。彫刻の動物で虎とウサギが特に多い。高藤さんによると干支が関係しているという。現在の日光東照宮をつくったのは三代目の徳川家光。一代目の徳川家康の干支は寅、二代目の徳川秀忠の干支は卯となっている。高藤さんは虎とウサギが多い理由について、先代への畏敬の念ではないかと考えている。実在しない動物の中で一番多いのが龍、徳川家光の干支は辰。高藤さんは干支へのこだわりが強かった徳川家光に気を使った職人たちの遊び心だと考えている。重要文化財の上神庫には象のの彫刻が彫られている。高藤さんによると上神庫の正式な名前が御宝蔵、ダジャレで象を彫ったという。高藤さんは有名な三猿にも職人の遊び心があると話し、どういうものか説明した。陽明門を越えて本殿に向かうと国宝の唐門が現れた。唐門には中国王朝を思わせる彫刻が彫られている。明治維新にこの彫刻が関わっていたという。

日光東照宮

東照宮の彫刻は徳川家康が良い政治をするようにと、長い中国史でも理想とされる平和な時代を築き上げた中国の伝説の王の堯か舜をどちらかを彫ったものでナゾとされていた。しかし研究者は舜ではないかとの見方をしていて、大名へのメッセージではないかとされる。自分の子供であっても優秀でないのであれば滅ぼしてでも国を治めてほしいという親子でない堯が舜を王にした由縁がメッセージとしてほられている。徳川慶喜は15代目だが大政奉還で政権を返上した。250年経過してから家康の遺言が実践されたという。日光東照宮の境内には全国の大名から寄進された灯籠が並ぶ。伊達政宗からは南蛮鉄の灯籠が贈られた。今までの通通説によれば3年かけ税収をかけ製造されたとしていたが、伊達政宗は仙台にいて、江戸にいた息子から他の大名が灯籠を寄付しているがどうするか?と聞かれ、急ピッチで製造されその期間は一か月だったとされる。しかし不可能に近いというが、これは南部鉄の可能性もあるという。そして東照宮の中で最も重要な彫刻は陽明門という場所。彫刻は508体あるという。その中段には9つに分かれた子供の彫刻があるがこれには徳川家が叶えたかったメッセージが隠されているという。

 

陽明門

東照宮の彫刻は徳川家康が良い政治をするようにと、長い中国史でも理想とされる平和な時代を築き上げた中国の伝説の王の堯か舜をどちらかを彫ったものでナゾとされていた。しかし研究者は舜ではないかとの見方をしていて、大名へのメッセージではないかとされる。自分の子供であっても優秀でないのであれば滅ぼしてでも国を治めてほしいという親子でない堯が舜を王にした由縁がメッセージとしてほられている。徳川慶喜は15代目だが大政奉還で政権を返上した。250年経過してから家康の遺言が実践されたという。日光東照宮の境内には全国の大名から寄進された灯籠が並ぶ。伊達政宗からは南蛮鉄の灯籠が贈られた。今までの通通説によれば3年かけ税収をかけ製造されたとしていたが、伊達政宗は仙台にいて、江戸にいた息子から他の大名が灯籠を寄付しているがどうするか?と聞かれ、急ピッチで製造されその期間は一か月だったとされる。しかし不可能に近いというが、これは南部鉄の可能性もあるという。そして東照宮の中で最も重要な彫刻は陽明門という場所。彫刻は508体あるという。その中段には9つに分かれた子供の彫刻があるがこれには徳川家が叶えたかったメッセージが隠されているという。

 

日光東照宮

貴重品より大切なのは人の命、平和の世を願い彫刻が掘られた。解明が進む一方でお手上げの謎も。豚鼻とツノが1本だけの動物は龍ではなく日本東照宮のみに存在。資料は読み方すら分からない謎の動物。

 

厳島神社

日本三景の1つ「朱い大鳥居」。神秘的な会場社殿は自然景観と建築美が計算された唯一無二の建造物。1996年に世界文化遺産に登録された。厳島神社はいまが絶好の撮影時期というのが秋山教授。大鳥居は70年ぶりの大規模工事中。まず知って欲しいのは地御前神社。厳島神社と同じ時期に創建され幕には厳島神社の御神紋。この神社こそ、大注目。現在、鉄道や国道で埋め立てられているが地御前神社の前まで海があった。地御前神社から宮島を拝むのが本来の参拝方法。厳島の語源は髪を斎き祀る島で長らく人の上陸が許されない島だった。厳島神社の神事「管弦祭」では厳島神社から地御前神社へ舟が出る。「柱が短くなっているのは?ため」と出題。ヒントは「江戸時代まで目の前が海だった」。正解は「船をつなぐ」。研究者と巡って分かった「宮島の対岸には本来参拝していた神社があった」。昔ながらの参拝を済ませ。フェリーで宮島へ。厳島神社に向かうルートから少し外れた場所に研究者の間で論争が起きる建物がある。それは豊臣秀吉が本流を命じた社「豊国神社」。元々はお坊さんがお経を唱える仏教施設として建てられ、千畳閣とよばれる重要文化財。外壁なし天井裏むき出しの状態。通説では秀吉の死により建設が中断され未完成のまま。しかし異を唱える教授。定説を覆す証拠は建物の屋根にある。書いてあるのは天正十七年、西暦で1589年。その後ヒデヨシは1598年に亡くなるが秀吉の死がある謎を生む。秀吉が未完成のままで9年間放置を許したのか。研究者と巡ってわかった「豊国神社はこれが完成形。あえて壁を造らなかったではないか」。ガイドブックにはない研究者を興奮させるものがある。現在の大鳥居は明治時代に造られたもの。再現するため16mのものさしを作った。それが豊国神社に現存。さらに間近でみることができない大鳥居の扁額、江戸時代まで使用していたものが見ることができる。研究者と巡って分かった「豊国神社には多くの観光客が気づかない見どころがたくさんあった」。大鳥居がキレイなビューポイントへ。2019年からスタートした70年ぶりの修繕工事は今年中に終了予定。今しかみられない姿で専門家にとっても人生初のできごと。研究者が大興奮の2ツノ新発見がアタ。

 

地御前神社

日本三景の1つ「朱い大鳥居」。神秘的な会場社殿は自然景観と建築美が計算された唯一無二の建造物。1996年に世界文化遺産に登録された。厳島神社はいまが絶好の撮影時期というのが秋山教授。大鳥居は70年ぶりの大規模工事中。まず知って欲しいのは地御前神社。厳島神社と同じ時期に創建され幕には厳島神社の御神紋。この神社こそ、大注目。現在、鉄道や国道で埋め立てられているが地御前神社の前まで海があった。地御前神社から宮島を拝むのが本来の参拝方法。厳島の語源は髪を斎き祀る島で長らく人の上陸が許されない島だった。厳島神社の神事「管弦祭」では厳島神社から地御前神社へ舟が出る。「柱が短くなっているのは?ため」と出題。ヒントは「江戸時代まで目の前が海だった」。正解は「船をつなぐ」。研究者と巡って分かった「宮島の対岸には本来参拝していた神社があった」。昔ながらの参拝を済ませ。フェリーで宮島へ。厳島神社に向かうルートから少し外れた場所に研究者の間で論争が起きる建物がある。それは豊臣秀吉が本流を命じた社「豊国神社」。元々はお坊さんがお経を唱える仏教施設として建てられ、千畳閣とよばれる重要文化財。外壁なし天井裏むき出しの状態。通説では秀吉の死により建設が中断され未完成のまま。しかし異を唱える教授。定説を覆す証拠は建物の屋根にある。書いてあるのは天正十七年、西暦で1589年。その後ヒデヨシは1598年に亡くなるが秀吉の死がある謎を生む。秀吉が未完成のままで9年間放置を許したのか。研究者と巡ってわかった「豊国神社はこれが完成形。あえて壁を造らなかったではないか」。ガイドブックにはない研究者を興奮させるものがある。現在の大鳥居は明治時代に造られたもの。再現するため16mのものさしを作った。それが豊国神社に現存。さらに間近でみることができない大鳥居の扁額、江戸時代まで使用していたものが見ることができる。研究者と巡って分かった「豊国神社には多くの観光客が気づかない見どころがたくさんあった」。大鳥居がキレイなビューポイントへ。2019年からスタートした70年ぶりの修繕工事は今年中に終了予定。今しかみられない姿で専門家にとっても人生初のできごと。研究者が大興奮の2ツノ新発見がアタ。

 

豊国神社

日本三景の1つ「朱い大鳥居」。神秘的な会場社殿は自然景観と建築美が計算された唯一無二の建造物。1996年に世界文化遺産に登録された。厳島神社はいまが絶好の撮影時期というのが秋山教授。大鳥居は70年ぶりの大規模工事中。まず知って欲しいのは地御前神社。厳島神社と同じ時期に創建され幕には厳島神社の御神紋。この神社こそ、大注目。現在、鉄道や国道で埋め立てられているが地御前神社の前まで海があった。地御前神社から宮島を拝むのが本来の参拝方法。厳島の語源は髪を斎き祀る島で長らく人の上陸が許されない島だった。厳島神社の神事「管弦祭」では厳島神社から地御前神社へ舟が出る。「柱が短くなっているのは?ため」と出題。ヒントは「江戸時代まで目の前が海だった」。正解は「船をつなぐ」。研究者と巡って分かった「宮島の対岸には本来参拝していた神社があった」。昔ながらの参拝を済ませ。フェリーで宮島へ。厳島神社に向かうルートから少し外れた場所に研究者の間で論争が起きる建物がある。それは豊臣秀吉が本流を命じた社「豊国神社」。元々はお坊さんがお経を唱える仏教施設として建てられ、千畳閣とよばれる重要文化財。外壁なし天井裏むき出しの状態。通説では秀吉の死により建設が中断され未完成のまま。しかし異を唱える教授。定説を覆す証拠は建物の屋根にある。書いてあるのは天正十七年、西暦で1589年。その後ヒデヨシは1598年に亡くなるが秀吉の死がある謎を生む。秀吉が未完成のままで9年間放置を許したのか。研究者と巡ってわかった「豊国神社はこれが完成形。あえて壁を造らなかったではないか」。ガイドブックにはない研究者を興奮させるものがある。現在の大鳥居は明治時代に造られたもの。再現するため16mのものさしを作った。それが豊国神社に現存。さらに間近でみることができない大鳥居の扁額、江戸時代まで使用していたものが見ることができる。研究者と巡って分かった「豊国神社には多くの観光客が気づかない見どころがたくさんあった」。大鳥居がキレイなビューポイントへ。2019年からスタートした70年ぶりの修繕工事は今年中に終了予定。今しかみられない姿で専門家にとっても人生初のできごと。研究者が大興奮の2ツノ新発見がアタ。

厳島神社

厳島神社の大鳥居は平安時代後期に平清盛が造ったとされる。850年の歴史がり倒壊などで現在8代目になるという。修繕の中でわかったことは本当は9代目ではないかという説。1223年から40年のあたりもう一つあったとの資料が見つかったという。さらに厳島神社の大鳥居は風や波で倒れないように地面に置かれているだけの状態。4トンの重石で上からおさえるような形になっているがそこにお経の文字があるという。仏教では経石と呼ばれ仏教で石にお経を書くことがある。大鳥居の屋根にそれが書かれているとされているが否定派は今の鳥居は明治時代につくられ、神社と仏教のお寺をわける時代に差し掛かっていた中で書くことは考えにくいという。修繕をしたことでその結論に結果が出たがその石には書かれていなかった。その社殿は今修復中で国宝となり国宝を土足である歩ける。国宝の上iにもう一枚別の板を重ね観光客も社殿に入れるように。また修復中で色がない部分がある。

厳島神社

厳島神社の柱には線があるが、高潮に襲われたことを示す。これまで数々の災害に見舞われているが、本殿は高潮の被害はうけたことがないという。

厳島神社にはナゾのお宝があり今回そのお宝を見せてくれるという。それはナゾのこま犬だという。銀製の狛犬はまんがチックの顔をしていた。石見銀山の算出した銀でつくられているという。

 

 

日光東照宮

日光東照宮の家康の墓地の階段への入り口にあるのは眠り猫がいるが、これはねたふりをして家康がにらみを効かせているとされていたが、腰が浮いている理由は陽明門にあるというが、彫刻は真下からみることを想定され、眠り猫を真下から見ると寝ている。家康の強いものも弱いものも安心して暮らせる平和な世の中への願いが込められているという。

 

 

陽明門

日光東照宮の家康の墓地の階段への入り口にあるのは眠り猫がいるが、これはねたふりをして家康がにらみを効かせているとされていたが、腰が浮いている理由は陽明門にあるというが、彫刻は真下からみることを想定され、眠り猫を真下から見ると寝ている。家康の強いものも弱いものも安心して暮らせる平和な世の中への願いが込められているという。

(エンディング)

 

 

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