milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その22(2007年12月)

2012年06月11日 | メルハバ通信

メルハバ通信22(最終回)

11月17日、 自宅に無事辿り着いた。19日から職場である(会社に籍を置く現職参加だったので)山口造園に出社した。連日、個人邸の樹木剪定作業に精を出している。造園業界にとっては一年中で一番忙しい時である。正月まで、雨以外は休み無しといったところだ。

今日は珍しく朝から雨が降った。久し振りに作業は休み、ホット一息。この最終回のメルハバ通信を作成している。お世話になった方々への報告を兼ねて、海外でのボランティア活動を振り返ってみたいと思う。

私は1981年に青年海外協力隊でタンザニアに派遣された。タンザニアの人々は私を本当に心暖かく迎えてくれた。今でもそうだと思うが、当時のタンザニアは非常に貧しく、国民が常に飢えている状態だった。そんな中でも人々はアフリカの日差しのごとく、眩しいばかりの明るさで私に接してくれた。彼らの心の豊かさに驚くと共に感動し、少しでもこの国の人々の役に立ちたいと考えていた。しかし、父の急逝により、赴任後5ヶ月足らずで日本への帰国及び任期短縮を余儀なくされた。

このタンザニアでの経験が以後、私の人生の礎となっているといっても過言ではない。貧しいタンザニアにボランティアに出かけたのではなく、逆に豊かな心を持ったタンザニアの人々に魅了されてしまった。とにかく人は明るくなければいけない。どんな時でも明るく生きていくことが人間にとって一番大切なことであると信じるようになった。

それから20年以上経過し、いつかは外国で人々のお役に立てればと考えていた。今回、多くの人々のお蔭で海外でのボランティア活動ができた。そして、無事にトルコでの任期を全うすることができた。タンザニアでは2年間の任期を全うすることができず、それだけが心残りであった。

トルコでの2年間は実に満足する仕事を与えられ、それに対して精一杯活動することができた。造園の仕事だけでなく、今までの経験すべてがトルコでの活動に役立ったと実感している。

私の残した仕事が果たしてトルコ、カマンの人々の生活向上に役立ち、また今後どれだけ役立つかは解らない。しかし、成果はともかく、現地の人々と共に汗を流し、笑いや悲しみを共有し、一緒に仕事をした事が大切だと思っている。たった2日間ではあったが、断食も経験した。イスラムの人々の辛さと共に、食べ物のありがたさが解ったような気がする。

妻と娘も途中でトルコに来て、周りの心温かい人々に支えられ、実に快適な生活をすることができた。家族で日本では得られないような貴重な体験ができたと思っている。カメラに納めた人々の笑顔を眺めていると、心暖かい人々との数々の出会いが走馬灯の様に蘇ってくる。

赴任前、東京(広尾)での研修中、青年海外協力隊の事務局長の言葉に感銘を受けた。“任国の人々は君達の背中をじっと見ている。黙々と作業をする姿を現地の人々はきっと忘れない・・・。”

一生懸命さえやっていれば、誰かが私の姿を見ていて、そして考えてくれるはずだ。私のボランティとしての姿勢なり考えがトルコの人々に僅かでも影響を与え、この国を良くする原動力になってくれると信じている。たとえ、それが蟻のように小さな力だとしても・・・。

この2年間、私を応援して頂き、本当にありがとうございました。感謝の念に耐えません。この体験を無駄にしないよう、これからも精進するつもりです。今後とも何卒宜しくご指導の程、お願い申し上げます。

平成19年12月3日  枚方市の自宅にて、福田嘉之


メルハバ通信その21(2007年10月)

2012年06月03日 | メルハバ通信

メルハバ通信その21

ついこの前まで真夏のように暑い日もあったが、4,5日前から急に寒くなり、アパートでも暖房が欲しくなった。ここカマン、アナトリアではそろそろ短い秋を通り越して冬支度。昨年も11月初めに大雪が降った。もう直ぐカマンでも初雪がありそうだ。

トルコでの生活も残り20日程になってしまった。月日の経つのは全く早いものだ。作業も正真正銘のラストスパート。カマンの日本庭園では完成した藤棚とあずまやの柱基部を小石で補強している間に、ムラムラと作庭意欲が湧いてきた。

一緒に作業しているガリップと近くの川原で小石を探していると、石臼らしきものが転がっていた。臼を回転させる棒を差す穴が開いている。つくばいの手水鉢代わりに使えそうだ。つくばいをポイントに、あずまやの下をちょっとした坪庭風に仕上げてやろう・・・。

しかし、ガリップがこの石臼は相当古いので、考古学的価値があるかも知れないと言い出した。勝手に使うとここトルコでは重罪になる。研究所のM考古学ドクターに聞いてみると、転がっていた所が発掘現場ではないので、使ってもいいだろうということ。庭に利用することにした。地面に転がっているよりも、利用してやったほうがこの石にとっても幸せに違いないと勝手に解釈した。

延べ段に使う石敷きの小石が少なかったので、あずまやの椅子の下には日本で言うピンコロのような角張った切り石を繋げてアクセントに使う。

《坪庭の制作途中》

先日ようやく完成したが、自分でもなかなかの出来だと思っている。カイセリに日本庭園を作成したが、カマンでは庭らしいものを作っていなかったので、ちょっとした私の置き土産である。

《あずまや下の坪庭の完成》

小石の目地モルタルを押さえるのに、小さな目地ゴテがトルコにはない。代わりにドイツで購入した油絵用のコテを利用した。これがなかなか使い勝手が良い。日本に帰ってからも十分使えそうだ。

藤棚の植え桝も角石で縁取り、土の部分が低かったので、中には小石を配置した。

さて、9月13日からトルコではイスラムの一大行事(修行?)であるラマダン(断食月)が始まった。昨年は断念したが、今年は最後なのでちょっと挑戦してやろうと、オロチ(断食)に挑んだ。2日間位は少なくとも続けるつもりだった。

まず1日目、午前3時に街を練り歩く太鼓の音に起こされる。毎日みんなを起こすために太鼓を鳴らすのだ。朝食の準備はできているので少し眠り、太陽が出る前にたらふく朝食を食べる。今年はまだ暑い(年によってラマダンの月は変化する)ので飲めるだけ水を飲んだ。お腹は水ではちきれんばかり。

空腹よりも喉の渇きに耐えられないことのほうが多いと聞いている。アフリカ(タンザニア)ではラマダンでも水は飲んでいいことになっていたが、本来は水も飲めない。

カマンのアパートから日本庭園まで行くのに、体力温存のためバスを使う。仕事も無理をしないよう、また汗もできるだけかかないようにヤワッシュ、ヤワッシュ(スロー、スロー)に徹し、作業終了の5時まで無事に過ごした。

バスでカマンに帰り、イフタル(ラマダンの食事)が用意された市役所のテント(貧しい人々のため、ラマダン月に無料で食事が施される。)で待ちに待った食事である。頂いた食事のそれはそれは美味しいこと。

《テントの中でイフタルを頂く》

《イフタルの食事》

《子供達と一緒にイフタルを頂く》

っていたより簡単にオロチが経過し自信を深め、2日目は無謀にも自転車で日本庭園に向かうことにした。仕事もセーブせずにいつもの様にこなす。ところが昼を過ぎてから、体力的には大丈夫だったのだが、なぜか頭痛がする。とたんに身体もフラフラになり、夕方早々と自宅へ。軽い熱射病だったのだろうか? やっぱり、いつものような作業は無理だと感じた。

周りのトルコ人もできるだけ身体を動かさないようにしている。これでは作業も捗らないし、2日間もやったのだからもういいだろうと私のオロチは終了と相成った。

でも、私がオロチに挑んだことが“日本人が2日間のオロチを経験!”とカマンの新聞に掲載された。少しはイスラムのラマダン時の気持ちが解ったような気がする。

確かに食事のありがたさは実感できたが、1ヶ月はちょっと長すぎるだろう。普段どおりに作業できればいいのだが、その間結局作業効率が落ちてしまう。とにかく2日間のオロチも終了し、その後はいつも通り作業を続けた。

ラマダン中の10月16日はカマンで唯一の祭りらしい祭り、ジェビズ(クルミ)祭りが開催された。昨年は春の晩霜のため、殆どのクルミの芽がやられてしまい、実が成らなかった。お陰で恒例のジェビズ祭りも中止。

今年こそはと期待していたが、あいにくラマダン月と重なり、なかなか催行決定が出なかった。ようやく開催することに決まり、妻や娘またアンカラから同期のSV隊員2名とトルコ人もカマンに来て祭りに参加した。

昼間、クルッカレの街からオスマン時代の衣装を着た人々がやって来た。笛や太鼓の音に合わせて街を練り歩き、市役所前のアタチュルク広場で盛大な開会式があった。クルミやその他の品物を売る物売り達と多くの市民で賑わった。

《祭り会場》

《会場のいたる所でクルミを売る》

陽が暮れて、みんなで市役所設営のテント内でイフタルの食事を頂いた。さあ、外に出てこれからが本番。特設会場には次々と市民が訪れる。カマンにこれだけの人々がいたのかと改めてビックリ。

まず、サズ(トルコギター)の演奏。ベテランと若者の二人が続いて演奏したが、その演奏技術や夜空に響く歌声に感動。

今年、質の良いクルミを栽培した人々等が表彰を受け、誇らしげに喜びを顕わにする。

《誇らしげにクルミの自慢をするおじさん》

そしてステージではコミカルなショーや手品等のアトラクション。会場で盛大な花火が打ち上げられた。トルコで見る初めての本格的な打ち上げ花火である。その迫力に“田舎町のカマンもなかなかやるな!”と思わず感心した。しかし、 費用も大分掛かっているのでは・・・。私も今は一応カマン市役所の職員である。ちょっと市の財政も心配する。

さて、このまま祭りはいつ果てるとも解らない。女性歌手の張りのある歌声を聞きつつアパートに戻る。

日本人同士でアルコールを交え、打ち上げのパーティーだ。アンカラの友人達もカマンの底力にビックリといった所ではないだろうか?念願のジェビズ祭りを体験することができ、これで本望。思い残すことなくカマンを後にできます。

さて、祭りも終わり、ラマダンの最終週にカイセリの日本庭園の仕上げに向かうことにした。8月に日本から来た友人とこの庭園を訪ねた時に、あまりの荒れ果てようにがっかりしていた。何とか整備し、見られる庭にして帰国しなくてはと考えていた。

《池の中は雑草だらけ》

まず、雑草だらけの枯れ池の中で小石を綺麗に取り除き、雑草を抜く。池の下には予め雑草除けのモルタルを塗っていたので、思っていたよりも簡単に抜けた。綺麗になった後に、もう一度小石を並べる。池の姿が見違えるようになった。やはり、日本庭園では日頃の手入れが大切だ。メリカジ市役所の公園長に手入れをきちんとするよう申し入れた。しかし、トルコに来る機会があれば是非見てみたいものである。

制作途中だったつくばい周りでは、予てより依頼していた織部灯篭と手水鉢がとうとう間に合わなかった。結局灯篭は諦め、手水鉢は石材屋に行って、何とか使えそうなものを調達した。そして、ようやくつくばいも完成。なかなか満足とはいかないが、何とか格好が付いたのでは・・・。つくばい周りの植栽も指示した。樹木が植わればもっと雰囲気が出るだろう。

《日本庭園》

《日本庭園、枯れ池》

《つくばい回り》

《延べ段と景石》

《エルジェス山石組み》

《夜の日本庭園》

やっとカイセリの日本庭園を仕上げ、トルコに来た時からの念願であったエルジェス山登頂を目指した。ところが、カイセリでの仕事の最終日、午前中は快晴だったのに、午後から俄かにエルジェス山から雲が湧き出て、不穏な動き・・・。みんなはエルジェス山では雪が降っていると言う。まあ、仕方ないさ、行けるとこまで行くだけさと、みんなの制止を振り切り、写真だけでも撮ろうと、エルジェス山の麓にあるスキー場までドルムシュ(乗り合いバス)に乗る。

一緒に乗り合わせた家族が“エルジェス山は雪だから登山は諦めて私の街まで来なさい。”と言うが、とにかく麓だけでも歩いて来なくては気が治まらない。丁寧に誘いを断り、予定通りスキー場で降りた。

《スキー場からエルジェス山、翌日撮影》

エルジェス山は雲の中で見えないが、雨がしとしと降り続いている。おそらく上では雪が積もっていることだろう。ホテルに着いて、“エルジェス山に登りたい”と言うと、主人はピッケルを貸してくれるということで少し安心。

ジャンダルマ(郡警察)に登山届けを出しに行った。エルジェス山までの時間を聞くと、今はリフトが動いていないので、登りだけで9時間掛かると言わる。まして、ここ最近は誰も登っていないとの事。

スキー場は標高2,000メートル足らず。3,940メートルの頂上まで標高差2,000メートル。宿の主人も往復で12時間は必要だと言う。夜明けを待たず、5時に出発するとし、明日の好天を期待して眠りに付いた。

緊張しているのかあまり眠れず、窓から外を見ると星が瞬いている。天(アッラー)はわれに見方せり!

5時過ぎにカイセリで買った懐中電灯を頼りに宿を出発した。クルト(狼)や野犬が出没すると聞いていたので、自転車に乗っている時にいつも持参している、おもちゃの火薬ピストルをポケットにしのばせ、いつでも撃てるように手も引き金に・・・。

途中犬らしい鳴き声がしたが、姿を見ることも無く辺りが明るくなった頃、リフトの終点2,900メートルに達した。良いペースだ

《エルジェスからの山の夜明け》

ここからいよいよ尾根に取り付く。やっぱり足元の雪が多くなってきた。アイゼンが無いのでスリップに注意して確実に登る。高度感も増してきたが、何とか登れそうだ。スリップしても下まで落ちないように忠実に尾根伝いに登る。

《エルジェス山》

10時頃小さなコブに登り、上を見ると純白の雪に輝く稜線が・・・。地図にある3,700メートルのピークだろうか。

圧倒的な高度感と共にチベットを思わせるような陰影のある雪の美しさが私を待っていた。もしあの稜線でスリップしたら・・・。今までに無いような恐怖感が私の中で湧いてきた。

《最高到達地点より》

悲しいかなこれが歳というものであろうか? 恐怖感で足元がすくむと余計にスリップし易くなってしまう。以前なら恐怖感など感じることも無く果敢に挑戦した私であるが、事故でも起こして家族やJICAに迷惑をかける事になってはと、ここで潔く引き返すことにした。

《登ってきた道を引き返す》

おそらく2日前なら雪も無く、夏山の感じで簡単に登れていただろう。しかし、昨日だったら午前中の快晴で、登頂はできただろうが、きっと午後の吹雪に襲われて下山が困難だったと思う。

“またいつか登りに来るからな。”とつぶやいてエルジェス山を下り始めた。おそらく3,600メートルには達しているだろう。体力的にはまだまだ余裕があった。悔しい思いよりも自分の体力に自身が持てて、いつかは登れるという満足感で一杯であった。頂上には登れなかったけれど、新雪のお陰で素晴らしいエルジェス山の姿も拝むことができた。

エルジェス山が私の耳元で“そんなに簡単には登らせない。お前をずっと待っててやるから、きっとまたトルコにやって来い!”と囁いた感じがした。

 ところで私達親子の帰国日程であるが、トルコを11月7日に発つ。途中オーストリアに寄り、東京(成田)に14日帰国予定。東京で報告会や健康診断等があり、枚方へは11月18日(日)に戻る。次回のメルハバ通信は日本に帰ってから、2年間の報告を兼ねて送りたいと思う。


メルハバ通信その20(2007年9月)

2012年05月31日 | メルハバ通信

メルハバ通信その20

容赦なく強烈な日光が差す日中は、まだまだ暑いトルコのアナトリア地方だが、朝夕はだいぶ涼しくなってきた。外にいると半袖では肌寒いこともある。ふと耳を凝らすと鈴虫も泣いている。カラカラに乾いた空気も微かではあるが、秋の匂いが感じられる。

シニアボランティアの任期も残すところ2ヶ月になった。まだまだやり残した事がある反面、結構自分では満足できる活動ができたのではないかと感じている。ここに来させて頂いた多くの人々に感謝し、トルコでの残された日々を大切に過ごしていきたいと考えている。

さて、先月に取り掛かった“あずまや”の製作だが、新しい柱の基礎位置が崩壊前の位置とだいぶ“ずれ”があることを懸念していた。果たしてアンカラの職人が元通りに組み立ててくれるか不安だったが、日本から観光に来た友人をイスタンブールに出迎えに行っている間に見事に組み上げられていた。柱の“ずれ”も上手い具合に吸収されており、ほっと一安心。今回は私の心配が単なる危惧で済んだ次第だ。少々の“ずれ”はタマム(オーケー)とするトルコ人のおおらかな考えに軍配が上がった訳だが、偶然上手くいったような気もしないではない。まあ深くは考えないで、以前のように立派な“あずまや”が復活したので、ここは良しとしよう。

《職人の手により完成したあずまや》

現在はだいぶ涼しくなってきたので、樹木の刈り込み作業を一時中断し、藤棚と“あずまや”の柱の根元部分を石とモルタルで補強する作業に入った。

近くの川原(とはいっても雨が極端に少ないので水は枯れているのだが)で作業人のガリップと二人で適当な小石を選別して集める。ある程度集めたら、ケプチェ(バックホウの付いたブルドーザ)で日本庭園の入り口まで運んでもらう。ガリップは本来の芝刈りの仕事があるので、入り口からは私一人で石を積んでいる。日本と違って石も規格化されていなく、また砂やセメントも離れた場所から一輪車で持ってくるので、思ったよりも時間が掛かる。

石積みの仕上がりも日本と比べるともう一つ、もう二つといった感じではあるが、見栄えよりも柱の補強に重きを置いて製作している。モルタルの部分を増やし、目地も厚くしている。ここカマンでは日本と比べると遥かに強い風が吹く。構造物は強風対策が肝心である。私が帰国して直ぐに藤棚が壊れたでは、ここに何をしに来たのか解らない・・・。

《川原で拾ってきた石で補強する》

8月30日はトルコのいわゆる“戦勝記念日”で国民の祝日になっている。第一次世界大戦後、敗戦国であったトルコは戦勝国によってバラバラに解体されようとしていた。そこで立ち上がったアタチュルク(初代大統領で、今でもトルコ国民の英雄であり象徴だ。トルコ国中いたる所にアタチュルクの像、旗、写真、肖像画等が掲げられている。)がギリシャ軍をエーゲ海に追い返す戦争を開始したのがこの日であった。以後トルコ軍は快進撃を続け、イズミールでとうとうギリシャ軍を駆逐した。戦争を開始した記念の日を“勝利の日”として称えているそうだ。

カマンでも、夜になると祝砲が上がり、軍人達が松明とトルコ国旗で街の中心街を行進した。後にはたくさんの車や人々が続く。車のクラクションを鳴らし、歓声を上げたり・・・。夜遅くまで賑やかなお祭り騒ぎであった。

《軍隊によるパレード》

ところで、市役所の電気工事を担当しているムラットから彼の弟の結婚披露宴に、同期のSさんと私達家族が招かれた。トルコで正式に結婚披露宴に招待されたのは初めてだったので、期待して出かけた。トルコでも日本と同じようにお祝いとしてのお金を包むそうで、こちらの相場で一人当たり10リラ(1,000円程度)を持参した。

披露宴は夕方から始まり、花婿と花嫁の家族別々に催される。まず、会場であるムラットの実家に行くと、玄関で笛と太鼓の演奏で派手に出迎えられる。庭に通されるとトルココーヒーやコーラ、ジュースなどの飲み物でもてなされた後に食事が出される。

《笛や太鼓で出迎える》

我々は特別待遇で、少し離れた席でムラット自慢の魚料理が用意されていた。常は敬虔なイスラム教徒であるムラットもこの日は特別な日で、久し振りのビールを口にする。しかし、彼に言わせると、次は子供の結構式まで酒は決して飲まないとのことであった。披露宴で他に酒をたしなむ人もいるが、日本のように、おおっぴらには振舞われない。隅っこでビールの入ったコップを傾け、ひっそりと飲んでいる。やはりここはイスラムの国、アルコールは一応、禁止なのだ。ただし、アンカラやイスタンブールの披露宴では結構平気で飲んでいるようだ。

さて、ムラット特製のおいしい魚料理とビールでほろ酔い気分になり、みんなの踊りに参加する。トルコ人は実にダンス好きで、披露宴でもお祭りのように踊り明かす。我々もひっぱり出されて、下手な踊りを披露しする。みんなからは“やんや、やんや”の喝采である。

ムラットはサズ(トルコギター)の名手で、市役所の催しや祭りでは街の人々の前で必ずサズを演奏している。この日も、サズの腕前と自慢の喉を参加者に披露した。

9時頃になっただろうか。みんなが車に乗込んで移動する。我々にも“乗れ!”という。何事だろうと思ったら、花嫁の家でクナの儀式(染料を花嫁の手のひらに塗る)が始まるとのこと。

花嫁の家に行くと、花婿の所と同じように庭でみんなが踊りまくっている。踊りが終わると、ローソクを手にみんなが素早くトンネルのアーチを作った。スイカの実をくり貫いて作ったローソク立てもある。そのトンネルの中を潜って、花婿と真っ赤なベールで包まれた花嫁が登場。みんなの中心に据えられた椅子に二人が座った。

《トンネルを作り、花嫁と花婿を迎える》

そこで木の皮から作った染料であるクナが参列者に配られ、花嫁の手のひらに塗られた。このクナの儀式は、昔は男子禁制だったそうだが、今では結婚式の一つの儀式としてみんなの前で披露されているようである。

さて、クナの儀式も無事に終わり、とうとう花嫁が赤いベールを脱いだ。なかなか理知的な美しい女性である。そして、二人を中心にまた盛大なダンスが始まった。我々はここで花嫁の家をおいとまし、また花婿の家に戻った。

《ベールをかぶった花嫁》

《ベールを取って、ダンスに参加》

ところで先日、私の山岳部時代の友人がトルコを訪ねてくれ、アンカラやカッパドキアを案内した。念願だったウフララ渓谷を歩いた。ここはグランドキャニオン(行ったことはないが)を思わせるような渓谷に多くのキリスト教信者が隠れ住んだという渓谷である。教会跡も点在しいて、なかなか見応えと歩き応えのある所であった。

《ウフララ渓谷を歩く》

《スケールの大きなウフララ渓谷》

《ちょっと絵になるロバ》

《渓谷にはなぜか羊の群れも》

《カッパドキアにてスカーフ姿の女性》

《洞窟から望む》

《カッパドキアにて》

《洞窟天井に描かれたフレスコ画》

《カッパドキアにて》

大学時代にはよく3人で山を歩いたものである。あれから30年以上の月日が流れたが、思わず時が遡った様な気になった。“飛んでカッパドキア~♪(イスタンブールならず)”トルコでの山岳部時代の復活であった。


メルハバ通信その19(2007年8月)

2012年05月30日 | メルハバ通信

メルハバ通信その19

カマンは毎日嫌になるほどの快晴続きである。首都のアンカラでは水不足のために、とうとう断水が始まった。二日間給水、二日間断水といった具合である。ここカマンでも水は不足しているが、断水も数時間程度で、生活に不自由することはない。

しかし、娘の学校が9月から始まるので、妻と娘はもうすぐアンカラに戻らなくてはならない。彼女らが住んでいるアパートは結構大きな貯水タンクがあり、 少しはましであるが、やはり不自由するだろう。せっかくシニアボランティァでトルコに来たのだから、たまには他の開発途上国のような苦労を体験するのも良いだろう。

さて、日本庭園ではこの季節に藤の花がまた咲き出してきた。葉も青々と茂り、藤棚が崩壊する前より元気になってくれた。そして今度は見晴台にある“あずまや”が壊れてしまった。最初は一本の柱が落ち込み、屋根が傾いていただけであった。根元を補強すれば何とかなるだろうと考えていたが、私の知らないうちに作業人たちが修理に失敗して、屋根が落ちてしまった。

崩れた柱を見ると地面(コンクリートで固めてはありますが・・・)と接している部分がすべて腐っている。藤棚も同じ部分が腐って倒れた。藤棚は日本庭園の作業人たちとの協力で復活したが、今度は我々素人の手だけではちょっと修理不可能だ。最初にこの“あずまや”を製作したアンカラの職人に任せ、基礎部分のみを私達で製作することになった。

《基礎部分を施工する》

基礎のコンクリートから進入してくる水の対策のために鉄の足を製作し、この穴に柱をかませ、直接コンクリートに触れないようにした。柱を立てる基礎部分の位置について、また作業人との間で一悶着あった。以前の位置に忠実に設置しようとする私と、少し位前の位置とずれていてもタマム(オーケー)と言い張るトルコ人との言い争いであったが、結局人数に勝るトルコ人に負けて、その位置に設置した。さて、アンカラからやってくる職人が上手く屋根を乗せてくれるだろうか? 結果は来月のメルハバ通信で書きたいと思う。

7月10日から娘の夏休みを利用してドイツを訪れた。ドイツはトルコからは非常に近い国である。フランクフルトに住んでいる友人のヘッセさん家族を訪問する目的だ。ヘッセさんは私が大学卒業後に就職した造園会社で日本庭園を習得し、フランクフルトの郊外で造園業を営んでいる。7,8年前にここを訪れた際は歓待を受けた。

《ヘッセさん宅で記念撮影》

ヘッセさんが作庭した数々の日本庭園を見せてもらい、日本人にも勝るドイツ人の器用さに驚いた。ただ単に日本庭園を模倣するだけでなく、自分のものとして製作していた。この時はドイツで働きたいという私の希望もあったのだが、就労ビザの問題でなかなか思うようにはいかず断念した。今回のドイツでの旅行記はさておき、このメルハバ通信ではドイツで我々家族が困った時にお世話になったトルコ人について書きたいと思う。

トルコの新しい航空会社であるペガサス航空で、イスタンブールからミュンヘン空港に降り立った。我々の行程はミュンヘンからロマンチック街道をフランクフルトに向かい、フランクフルトのヘッセさん宅を訪れ、ライン川下りを決行し、ケルンの大聖堂を見て、デュッセルドルフ国際空港からイスタンブールに戻るという10日間の内容である。

《ミュンヘンにて》

ミュンヘン空港からホテルまでのタクシーを捜していると、仲間と話している運転手の会話がなんとトルコ語である。ドイツに着いて最初に話す人間がトルコ人であった。トルコ語でドイツの様子を尋ねながら、予約したホテルへ。

彼の話だとヨーロッパに居るトルコ人の数は1,200万人で、ドイツに住んでいるトルコ人は300万人とか・・・。トルコ人はドイツ国内のあらゆる場所に住んでいるようだ。ドイツ戦後の復興はトルコ人の下働きがあったからこそと考えられている。

さて、ミュンヘンからロマンチック街道沿いの街、アウグスブルグへ。ここには日本人の奥さんが経営するホテルがあり、色々と役に立つ情報が聞けるだろうと、泊まることにしたのだが、あいにく奥さんは泊りがけでお出かけ・・・。アウグスブルグ駅からホテルまでの行き方が良く解らず、とりあえずそれらしきバスに乗った。

路面電車に乗り換える必要があり、どこでバスを降りればいいか、娘の英語と私のドイツ語で聞こうとしたが、たどたどしい語学力に、なかなか話が伝わらない。ところが側にいた子供連れのおばさんが運転手と親しそうにトルコ語で会話。なーんだ、トルコ人だ。私たちもトルコ語で聞き返し、運転手はびっくりすると同時に急に親切な態度になった。ちょうどそのおばさんと降りる所も一緒だったので、後はトルコ人のおばさんが私達を路面電車の停留所に案内してくれた。

《城壁で囲まれたネルトリンゲンの街並》

そして次の日、ローテンブルグを目指しロマンチック街道を走るヨーロッパバスのバス停を探していたところ、なかなかそのバス停が見当たらない。ドイツ人に聞いても、駅の案内所に聞いても、街を歩いている人に聞いてもみんなに知らないと言われ、途方にくれていた。

そこへ、トルコの人気サッカーチーム、ジーコが監督のフェナルバハチェのけばけばしいユニホームを着た若いカップルが・・・。こいつは誰が見てもトルコ人。後ろからトルコ語で声を掛けるとやっぱりトルコ語で声が返ってきた。可愛い女の子と小汚い男の仲のよさそうなカップルだ。彼らは私達の話を聞くと、駅の案内にわざわざ並んでくれ、駅員にバスのことを詳しく聞いてくれた。しかし、駅の案内もバスは解らないようで、ローテンブルクに行くには“鉄道で行け”の一点張り。

仕方ないので鉄道の詳しい乗り換え案内書を作ってもらう。ここで彼らとは“さよなら”となるはずだったのに、彼らは私達を駅の外に連れ出し、座り込んで案内書の内容を詳しく説明してくれる。“タマム、タマム(オーケーオーケー)”と言っているのにも拘らず、子供に教えるように手取り足取り教えてくれた。私が時計を見ると最初にアウグスブルクを出る列車の時間が迫ってきている。“時間が無い”と言うと、彼はやっと時計を見て、“もう時間が無い、急げ!”とばかりに私達をせきたてて、ホームを目指した。しかし、非情にも列車は定刻通りに出発してしまった。親切すぎるトルコ人の性格が裏目に出る結果となってしまった。

次の列車の案内は自分で聞くからと言っても、彼らは“タマム、タマム”と、また案内に並び、新しい乗り換え案内書をもらってくれた。自分達はきっとデートの途中だったのであろう・・・。

今度の列車は時間があったので、記念撮影をして別れた。この時から、《困った時はトルコ人を探せ!》これが私達家族の合言葉となった。

《トルコ人の親切なカップルと》

結局、この日は目的地のローテンブルクには行けず、途中の街ディンケスビュールで一泊することになったのだが、ローテンブルクにいけなかったお陰で、この街で年に一度の子供祭りを見ることができた。災い転じて福と成すとはまさしくこの事であろう。

《夏祭りで旗が翻るディンケスビュールの街》

《子供祭りのダンス》

《ディンケスビュール、夜警のおじさん》

翌日、ローテンブルクに辿り着き、そこでやっと見つけたヨーロッパバスに乗り込むため、荷物をトランクに入れようとすると、まだ出発時間でないので入れられない等々、無愛想な運転手に英語で文句を言われた。“自分は朝早くミュンヘンから運転してきているので疲れているのだ。”と、我々に言った。娘が“あんなに文句を言うのはトルコ人に違いない”とつぶやく。トルコ語で彼に挨拶すると急に彼の態度が変わった。

《ローデンブルグにて》

バスには私達の他に韓国人が7,8人乗っていたが、彼らには眼もくれず、我々家族に“ジュースは飲まないか?”“お父さんにはビールもあるぞ!”と薦めてくる。運転手が差し出してくれたビールに舌鼓を打ち、バスはいざ出発。

観光地では普段は見ることができない教会を案内してくれたり、入り口が閉まっている公園では、その鍵を開けて我々を中に入れてくれたり、サンドイッチを買ってくれたり、 至れり尽くせりである。

挙句の果てには、我々がフランクフルトで訪ねるヘッセさん宅に電話し、フランクフルトからの電車乗り口や行き先を詳しく聞いてくれた。そして、フランクフルト駅で他の乗客を降ろした後は大きなヨーロッパバスを路上駐車し、我々を電車の乗り場まで案内してくれた。自動販売機で切符を購入する際にも、私が小銭を持っていないと見るや自分の小銭を差し出してくれた。本当にその親切には頭が下がる思いであった。

《フランクフルト、レーマー広場》

《ヘッセさんの末娘のユリア》

《フランクフルトにあるフンデルト・バッサー・ハウス》

そして、フランクフルトでのヘッセ家の厚い接待を受け、ライン川下りに出発した。夕方になり、船の終点であるコブレンツで一泊することになった。ホテルを探すことにしたのだが、既に頼りの案内所も閉まっている。

《リューデスハイムからライン川下りが始まる》

《船着き場に旗が掲げられている》

“これは困った、トルコ人を探せ”と言うことで、おそらくトルコ人が経営するだろうケバブ屋に入り、コーラとケバブをトルコ語で注文する。店員や客が注目する中、“ここら辺で安いホテルはないか?”と切り出す。

我々に親切に説明してくれていた従業員のトルコ人が“ちょっと待て!”と、自分の仕事を切り上げて、ホテルまで案内すると言い出した。そこまでしてくれなくても・・・。とは思ったが、厚意を断るすべを知らない我々は彼の後に続く。

ホテルに着くと料金が高いので、もっと安いホテルは無いだろうかと私が切り出す前に、トルコ人が“ここはちょっと高いから”と、このホテルの主人にもっと安いホテルを尋ねてくれた。

安いホテルが見つかったのだが、少し距離があった。トルコ人にお礼を言って自分達で行こうとすると、彼は“私の妻はイタリア人で、12時まで働いているから暇なのだ”とそのホテルにまで案内してくれた。荷物まで持ってくれて、しかも、ホテルの部屋に我々の荷物を入れると、名前も告げずに“さようなら”と立ち去ろうとする。あわてて彼の名前を聞き、私の名刺を差し出した。全く気持ちのいい青年であった。

《ケルン大聖堂のステンドグラス》

我々家族が無事に楽しいドイツ旅行ができたのも、ひとえにトルコ人の日本人に対する“度が過ぎる程の親切心”の賜物である。トルコ人に感謝しなくてはならない。ドイツ以外のヨーロッパでも結構トルコ人が多いので、トルコ語が通じるそうだ。ヨーロッパ旅行のために、トルコ語を習ったら良いのではないだろうか?


メルハバ通信その18(2007年7月)

2012年05月28日 | メルハバ通信

メルハバ通信その18 

ここトルコでは本格的な夏に突入した。最近は40度前後の気温を記録することも多くある。先が思いやられるが、今週初めは暑さも一休み。4、5日おきに猛烈に暑くなったり、少し涼しくなったりを繰り返しながら季節が進んでいくようだ。

トルコの学校は6月から8月末まで、長い長い夏休みに入る。私達カマン3人組が日本語を教えているアーヒ大学でも、6月始めにすべての講義が終了した。そのお祝いなのであろうか、野外パーティーが催された。昼過ぎから学校へ呼ばれて行ってみる。

中庭で牛肉を焼き、パンにはさんで食べる。ドネルといって、トルコでは代表的な料理だ。私がカマンで摂る昼食はたいていチキンのドネルである。値段は100円から150円、アイラン(塩が入った飲むヨーグルト)を付けても200円までだ。家計も食料費が安いので大助かりである。

ドネルの後は恒例のダンス。これから延々とダンスが催されると思ったのだが、突然の強風と共に激しい夕立が我々を襲い、ダンスは中止。みんないそいそと校舎内に避難した。

《みんなでトルコダンス》

せっかくのお招きだったので、私はここで自慢?の日本茶(抹茶)のお手前と習字を学生や先生方に披露た。トルコ人はどうも苦いものが苦手で、ちょっと抹茶を飲むのは苦労しているようだった。お茶菓子としてロクム(りゅうひに近いもの)というトルコのお菓子を用意して行ったが、お茶も飲まずにぱくつく者もいる。トルコの代表的なお菓子であるバクラバ(パイに似たはちみつ漬け)、クッキーやケーキにドンドルマ(トルコ名物の伸びるアイスクリーム)。トルコ人は甘いものには眼がない。最初の頃はどれもこれも頭が痛くなるような甘さだったが、慣れると結構旨い。

習字ではみんなの名前を聞いて、適当な漢字を当てはめて書く。中には自分の腕に書いてほしいと腕まくりをする者が現れ、大盛況であった。ムゾウという名の男子学生がいて、宮本武蔵の武蔵をもじってムゾウ(武蔵)と書いてやった。日本で一番有名な侍だと説明した。彼も非常に気に入り、周りのみんなに自慢していた。これも立派な日本文化紹介になったと自負している。

6月はまた卒業式のシーズンである。欧米の学校と同様、新学期は9月から始まるので、6月で学年も終わりだ。

さて、アーヒ大学では授業の最後にテストがあり、それも無事に終わった6月半ばに卒業式が執り行われた。この大学は50km離れた隣町クルシェヒル(いわゆるクルシェヒル県の県庁所在地)に本校がある。本校は4年生ですが、ここカマンの分校は2年生の短期大学だ。私と同期のSさんも日本語の先生として卒業式に特別参加した。

《クルシェヒルでの卒業式》

私達が日本語を教えた教え子達もいる。卒業式用に学校で用意された学帽と制服が渡され、卒業生はそれに着替える。クルシェヒルにある一番大きなサッカー競技場を借り切って、卒業生や父兄それに友人や関係者など続々と集まってきた。

《卒業式に集まった人々》

トルコ国旗と初代大統領アタチュルクの旗の下、いつものようにトルコ国歌斉唱から始まり、卒業生全員の行進。アーヒ大学に就任する新学長の挨拶の後、用意された卒業証書が配られるものと思ったら、なんと大空にバラ撒かれ、あっと仰天!! 卒業生のみんながそれを奪い合う。変わった卒業証書の授与だと思ったのだが、ほんとの卒業証書は別にあるそうだ。納得。

《卒業式》

そして、またまたトルコ恒例のダンスに興じる学生もいて、分校ごとに先生の胴上げも始まっている。アーヒ大学の人気者、我らのエンギン・ホジャン(副校長)も、もちろん高く胴上げされた。そして、一、二、三の掛け声と共に、被っていた学帽を空高く放り投げる。何度も何度も繰り返す。みんなの熱気と共に、やがて卒業式も終了・・・。

《美女に囲まれたエンギン先生

《市役所の年寄り連中も晴れの卒業》

《僕だって卒業生?》

《仲良し二人組》

卒業式の終わった後は、仲の良い友人同士でクルシェヒルの街に繰り出す者も入れば、家族で夕飯を食べたり、クルシェヒルの街は夜通し賑わいそうだ。

しかし、我々はカマンに戻らなければならない。非常に名残惜しい気もあったが、エンギン・ホジャンの車に乗り込んだ。

カマンのカレホユック遺跡の発掘作業が6月中旬から始まった。雨や雪除けのトタン屋根が取り払われ、9ヶ月ぶりに発掘現場が顔を出す。みんな生き生きとした顔で作業に当たっている。しかし、夏のうだる様な暑さの下、大変な作業が待っているのだ。発掘作業は考えていた以上に厳しい肉体労働である。日本庭園での仕事は結構木陰があるのだが、発掘現場にはテントや日除けのあずまや以外は直射日光の照り返しで非常に暑くなります。50度前後になることもしょっちゅう。暑さには強いこの私でさえ、炎天下での発掘作業は御免こうむりたい。

《発掘作業が始まった》

《日本庭園の名物犬であるボンジュック(トルコ語で“宝石”)》

て、私本来の活動であるが、以前から依頼されていたカイマカン(郡庁)前庭の図面が完成し、カイマカンに提出した。少し日本風に設計した。まあ、予算もあまり無いとのこと。ほんとに実行に移されるのか微妙である。

しかし、工事に取り掛かれば、建物が市役所の目の前にあるので、アドバイスに行かなくてはならないだろう。私がトルコに居る間に着工すればいいのだが・・・。

日本庭園ではアンカラで購入した草刈機のエンジンが掛からなくなった。エンジンオイルを多く入れすぎていたようだ。動かないので、しばらく手で刈っていたが、研究所のコックさんのムスタファが修理してくれた。彼は機械マニアでもあり、半ば諦めかけていた草刈機が調子良く復活。草刈機は調子良くなったのだが、今度は消耗部品であるナイロン紐(遠心力を利用して、この紐で雑草等を刈る)が直ぐに無くなった。カマンではこの紐を手に入れることができなかったが、先日やっと手に入り、久し振りに思う存分雑草を刈り払った。

庭も見違えるように綺麗になってきたが、一部分が綺麗になると今まで目立たなかった部分のあらが見えてきてしまう。庭の手入れに終わりはない。より美しく、それだけを考えて作業に精を出している。

研究所の宿泊棟の予算が確保できて、やっと工事に入る。それに伴い、研究所から宿泊棟裏庭の造園プランを依頼された。ここは冬場に水が湧き出し、池になってしまう。その水を利用した庭園を考えるつもりである。

春からのカモガヤ(イネ科の雑草)の花粉症がひどくて、自転車に乗れない。日本庭園にはバスで通っていた。ようやく花粉も峠を越し、先週初めから本来の自転車通勤を始めた。道沿いの草花が夏の花を咲かせている。日本では見られないような変わった花々も多く、ついつい自転車を止めてしまう。

ついこの前植えられたヒマワリの苗も次々と花を咲かせてきた。咲き競う花々を見ていると季節の移り変わりを強く感じる。麦も黄色く枯れて、収穫の時を迎えている。この時期はあちらこちらから、出稼ぎの労働者が手伝いにやってくる。

《サクランボの実がたわわに実った》

《自転車の道中で》

さて、この前の水曜日(水曜日は市役所及びビリセムの学校の両方で作業している)に、役所の仲間であるムラットから、ヒルファンル湖にあるサブジュルという所へ泳ぎに行こうと誘いがあった。もちろん我々が断る訳も無く、仕事が終わった5時から、Sさんと二人で出かけた。今は夏時間で、8時過ぎでも明るく仕事後でも結構遊べる。 

ここサブジュルはカマン近郊にしてはなかなか整備された所で、久し振りに泳ぎを堪能することができた。泳いだ後は砂浜でバーベキュー。鶏やトマトを焼き、冷えたビールで乾杯! といくはずだったのだが、ここはイスラムの国、コーラで乾杯した。最後はムラット自慢の炭火で作ったチャイ(トルコ紅茶)で閉めた。

《湖での海水浴》

《鶏でバーベキュー》

《締めはムラットのチャイで》

カマンで毎水曜日に催されるパザール(青空市場)では今が旬の果物が豊富に出回っている。サクランボに葡萄、スモモや杏に桃、メロンにスイカ。驚くほど安い。しかし、思わず買い過ぎてお腹が一杯になってしまう。日本に帰った時にきっと困るだろう。(お金がもたない)

特にスイカは乾いたトルコの大地にとっては恵みの果物ともいえる存在だ。1kgが40円から50円で、丸ごと買って毎日たらふく食べている。少々体重が増えてきた。果物ぶとりである。

そして、日本庭園での仕事の時、研究所でよばれる名コック、ムスタファの昼食が拍車を掛けて私を襲ってくる。ちょっとセーブしなくては・・・。この頃痛切に考えている。


メルハバ通信その17(2007年6月)

2012年05月27日 | メルハバ通信

メルハバ通信その17

ここカマンの日本庭園では色とりどりの花々が咲き乱れ、サクランボやエリッキ(日本の梅に似た樹木、トルコ人が非常に好んで食べます)の実がたくさんなっている。私も時々口にするが、なかなかのものである。特にサクランボはパザール(青空市)で買うのと遜色ない程だ。梨やリンゴ、そして去年は春の急激な寒さのために、全く実がならなかったクルミやアーモンドも、たくさんの実をつけている。カマンでは今年は実りの年になりそうだ。私のボランティアの仕事も実りの年になるよう、そろそろラストスパートを掛けていきたいと思っている。

さて、ようやく先月出来上がった藤棚に主役の藤やツタを巻きつけた。次々と葉を出し、寂しかった藤棚も短期間で見違えるようになった。ここトルコでは夏場の日照時間が長く、植物の成長も日本と比べると驚くほど早い。1日1日その成長を眼にすることができる。日本では1年を通して、同じ場所で庭の手入れをしていなかったので、その成長振りには非常に驚かされている。

《藤棚も格好が付いてきた》

現在の日本庭園の作業は、低木の刈り込みと同時に、エンジンの草刈機でびっしりと生えている雑草を刈っている。この草刈機はアンカラのウルス地区で購入した。しかし、中国製(値段も驚くほど安く、日本やドイツ製は6、7万円するのだが、15,000円程だった。)なので、エンジンの回転数を上げるとすぐにへばってしまう。5分か10分程度エンジンを回せば、15分か20分は休ませるために他の作業をしなければならないといった具合だ。

また、せっかく雑草を刈って綺麗にしても、半月もするとまた延びてきている。だからと言って、そのまま放って置く訳には行かない。いたちごっこであるが、手入れの行き届いた庭をお客さんに見てもらいたいので、一生懸命刈っている。

6月初めから、日本庭園も一般客に開放された。天気のいい日にはたくさんの客が訪れる。日本人の私を見つけると、一緒に写真を撮って欲しいとせがまれることもしばしばだ。私と知り合いの子がいれば、必ずといって良いほど、ヨシー!と声を掛けられる。そこはサービスに努め、持ち前の満点?の笑顔で応対している。

《サービス精神旺盛なヨシー》

5月19日はトルコ国内で大々的な“若者とスポーツの祭典”があった。この日は初代大統領、アタチュルクを記念した祝日でもある。ここカマンでもサッカー競技場で盛大な催しが執り行われた。

《開会を待つ市長、カイマカン、警察署長etc.》

《セダの妹のエダ(右)も競技場の外から見物》

いつものように笛や太鼓の音楽に合わせたパレードの後、厳粛な雰囲気の中、トルコ国旗を掲揚する。続いて、ビリセム(私のデスクがある学校)の音楽の先生が音頭を取り、トルコ国歌斉唱。そして、綺麗な民族衣装で身を固めた子供たちによるトルコダンスの披露だ。当日は男女混合と女子の二組のグループが披露した。

《トルコ国旗を先頭にパレード開始》 

《男女混合のトルコダンス》

《男性の民族衣装》

女の子のみのグループではビリセムの隣にある高校で、仲の良いギュルスンやビリセムの生徒で私と同期のSさんのマスコット的存在のヨンジャもメンバーの一員だ。他にも顔なじみの娘がたくさんいる。いつもは幼さが残っていたり、明るくふざけてばかりいる彼女たちが、真剣に踊っていた。凛々しく踊る姿に、親心とでも言うか、私まで嬉しくなった。

《出番を待つ、ギュルスン(左下)》

《我らのアイドル、ヨンジャ》

トルコダンスの後は、各学校の女子生徒が現代的なダンスを華やかに踊った。また、男子生徒は組体操を披露した。すべてカマンにある学校の生徒達による出し物で、その若さと熱気に感動した次第である。この日のために、みんなは一生懸命練習に励んでいたことだろう。こんな若者がたくさんいる限り、トルコの将来は明るいぞ。明るい未来に向かって、みんな頑張れ!!。

《男子生徒の組体操》

《催しが無事に終了した》

アンカラのウルスに草刈機を買いに行った時、近くにあるローマ浴場跡を訪れた。アンカラの街は紀元前3世紀、ヨーロッパ北部からやってきたケルト人によって作られた。その後、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン時代を経て現在に至っている。ローマ時代の遺跡であるローマ浴場跡を訪れてみると、その規模の大きさに驚愕すると共に、当時の人々がここを憩いの場所として楽しんでいた様が目に浮かぶ。日本の健康センターを大きくしたような感じだ。浴場に隣接してスポーツを楽しむ場所もある。スポーツで汗をかいた後、浴場で汗を流し、飲み物を飲み、おしゃべりに興じたことであろう。 

《ローマ浴場跡》

久し振りに家族とアンカラ城に登った。このアンカラ城もケルト人が作ったものだ。アンカラの市内が見渡せ、私の好きな場所の一つである。登り口には古いキリムや絨毯の布で作ったポシェットを売っている店があり、私達はこのお店ではもう常連である。日本への一時帰国の時にもここでたくさんのポシェットを購入し、非常に喜ばれた。

さて、アンカラ城では子供たちが城壁の上で凧揚げをしていた。娘も凧揚げに参加させてもらい、はしゃいでいた。 8時頃になってようやく太陽が西の空に傾き、空は鮮やかな紅色に染まりました。

《アンカラ城で凧揚げ》

《夕陽に染まるアンカラの街》

 

 


メルハバ通信その16(2007年4月)

2012年05月26日 | メルハバ通信

メルハバ通信その15

トルコは春たけなわ。ここカレホユック遺跡の日本庭園でもカイス(スモモ)、バーデン(アーモンド)、エリッキ(梅)、レンギョウ等の木々が、花々を次々に咲かせてきた。

《カイスとレンギョウの花が満開》

《春の日本庭園》

今週の火曜日には、満開になったソメイヨシノの下で、カマン3人組恒例?の花見をした。研究所にあった日本酒をMさんが調達し、久し振りにたらふく飲んだ。研究所の犬達が我々のつまみをあてにして集まり、収集が付かなくなりそうだったが、日本酒の匂いを嗅ぐとなぜか近寄らなくなり、一安心。犬達もつまみを諦めたか、その後はゆっくりと楽しむことが出来た。犬除けには日本酒がいいようだ。しかし、イスラム教を信心している犬に対してだけかもしれないが・・・。

《カマン3人組と犬達で恒例の花見》

《ソメイヨシノを眺めるエディ(犬の名)》

芝生では、多くのタンポポが活き活きと咲き始めた。他にちらほらと咲き始めている野の花も、もうすぐ一斉に咲き出し、ここカマでは一番華やかな季節を迎える。

さて、肝心の日本庭園の作業であるが、梨の木の剪定及び移植予定樹木の根回し等と平行して、強風で壊れた藤棚の製作に取り掛かった。木材はここでは非常に貴重である。古い電柱を材木屋で四角にカットしてもらい、再利用することにした。元あった藤棚の柱周りの基礎コンクリートを壊すのに悪戦苦闘している。

カマン市役所での作業としては、裁判所の造園設計も終わり、基本図面を提出した。先週位から既に植栽工事も取り掛かっているようだ。予算もあると思うので、おそらく図面通りにはいかないだろうが、一度視察に行かなくてはと思っている。

さて、 milima(娘)の学校(アメリカ系のインターナショナルスクール)のイースター(キリスト復活祭)を兼ねた春休みに、トルコに一番近い国であるギリシャに行くことにした。トルコに来てから初めての海外旅行(トルコ以外の)である。

ギリシャへの交通手段として、費用も安く手っ取り早いフェリーを使うことにした。まあ、名前だけは格好いいエーゲ海クルーズである。トルコ沿岸のエーゲ海の島々は、全てギリシャの領土となっている。トルコからすぐそこに見えていて、泳いでも行けそうな島々がまさしくギリシャなのだ。

3月30日の夜行バスで、アンカラのバスターミナルからエーゲ海の港町、クシャダスを目指す。4月1日から10月31日の期間、ここからギリシャのサモス島に毎日フェリーが出ているようだ。インターネットで調べると、サモス島から次の目的地、ミコノス島のフェリーは4月3日まで無いので、2日にサモス島に渡ることにした。

そのため、クシャダスで2日間の国内トルコ観光を計画した。近くにはトルコきっての観光地、エフェス遺跡があるのだ。

さて、アンカラからの夜行バスを降り、ホテルに荷物を置き、セルチュク行きのドルムシュ(乗り合いバス)でいざ出発。ところが、あいにく天気が悪く、山の上にある聖母マリアの家は、雨中での見学となった。ここはキリストを生んだマリア様が晩年を過ごした所だ。キリスト教信者がヨーロッパ各国からやってくる。

そして、エフェスに着いた時には、雷と共に夕立のような激しい雨が我々を襲ってきた。まるでイスラム教のここトルコからキリスト教のギリシャを目指している我々を、アラーの神が非難するかのように・・・。どうしてお前たちはトルコもろくに見ずして、ギリシャくんだりへ行くのか・・・?と。 

《エフェス、ケルスス図書館》

次々と観光客が観光を諦めて戻っていく。ゲートで、雨が小降りになるのを待つことにした。暫くして、アラーの怒りが収まったのか小降りになり、行動できるようになった。ラッキー!!

歩き出してすぐに、エフェスの雄大な遺跡群に圧倒される。聞きしに勝るエフェス・・・。恐るべしかな・・・。エフェス以外にも驚くほどたくさんの遺跡がここトルコには存在しているのである。

《ディディマの遺跡》

《ディディマにあるメドゥーサの首》

《アポロン神殿、牛のレリーフ》

4月2日の朝、トルコのクシャダス港から、ギリシャのサモス島へ実に可愛らしいフェリーで渡った。クシャダスの港で出国の手続きを終えると、免税店がある。船旅でも立派に海外旅行の気分が味わえる。

《ギリシャ、サモス島》 

サモス島はピタゴラスの定理で知られている彼の出身地でもある。レンタカーを借りて、彼の出生地のピタゴリオや海岸線で有名なコッカリオなど、サモス島をほぼ一周した。久しぶりの車の運転で、しかも初めての左ハンドルと右側通行であった。安全運転に終始した。

《サモス島にあるピタゴラスの塔》

《サモス島にて》

《コッカリオでエーゲ海に浸かる》

3日の夕方、サモス島からギリシャ、エーゲ海の代名詞ともいえるミコノス島へ、今度は大きなフェリーで渡った。島に着いたのは夜11時を回っていたが、予約していたホテル(アルホンティコ・ペンション)の車が迎えに来てくれた。港から少し離れた丘の上にある、眺めのいい場所にあった。ここはインターネットで調べたのだが、ダントツで評判が高く、庭と建物が非常に凝っている。値段も手ごろで、超お勧めホテルだ。

《アルホンティコ・ペンションのプール》

ミコノス島はガイドブックの写真の通り、真っ白な壁とブルーの扉、蒼い空、コバルトブルーのエーゲ海、たくさんの小さな教会、迷路のようなミコノスタウン等々、ほんとに魅力的な島であった。街の名物のペリカンにも会えることが出来、思わず2泊してしまった。

《ミコノスの人気者、ペリカン》 

《白い教会》

《セント・ニコラス教会》

《猫とおじさん》

して、アテネへ。幼い時からこの目でパルテノン神殿のエンタシスの柱を見たいとは思っていたが、その夢が叶い感動ものだった。しかし、妻は思っていたような感動が得られず、少しがっかりした様子。その原因はどうもエフェスにあったようだ。

私もカマンに帰って写真を整理してみて、エフェス遺跡群の雄大さとその偉大さを再認識した次第である。確かにパルテノン神殿以上の遺跡がトルコではここかしこに残っているのだ。

もう一つアテネに行くのには重大な目的があり、それは妻が日本から持ってきたトラベラーズチェックを現金化することであった。トルコではトラベラーズチェックは殆ど使えず、また換金できても、ビックリするような手数料を取られてしまう。泊まっていたホテルの近くでようやく換金できた。ほっと一安心。心置きなくアテネを後にした。

帰りはアテネの港、ピレウスから夜行のフェリーに乗り、ミコノスを通過してサモス島にもう1泊した。行きに泊まった、ここのホテルの主人が、イースターの祭りをどうしても見て行けと言うので、もう1泊することにしたのである。 

当日、街は昼間から爆竹の音がしている。しかし、人々は祭りの準備中なのか、あまり見かけない。夜の12時にホテルの泊り客らと蝋燭を持って教会に行くと、大勢の住民が・・・。教会から帰って、ホテルのみんなと共に、さあご馳走である。

《ミサの行われた教会》

《イースターのパレード》

キリスト教徒は今まで食事を我慢していたようで、がっついて食べる。私たちはお腹がすくだろうと、カフェでサンドイッチを食べていたのだが、そこで、他の客らになぜか白い目で見られていた訳がようやく解った。トルコのラマザン(断食)のようなことをギリシャの人々もやっていたようだ。

とにかく、ホテルの主人にリクエストしていた豚肉(トルコではイスラム教なので食べられない)をお腹いっぱい頂戴した。

翌日、またレンタカーで島の端にある港を観光して、夕方のフェリーでトルコのクシャダスに戻った。直ぐさまその足で夜行バスに乗り、アンカラに戻った。

実際に現地へ行くまでは、フェリーが出ているのかもはっきり解らず、行き当たりばったりの旅ではあったが、順調に旅行できて、思い出に残る良い旅になった。


メルハバ通信その14 (2007年3月)

2012年05月25日 | メルハバ通信

メルハバ通信その14   

日本への一時帰国が終わり、2月9日予定通りトルコに戻った。無事にと言いたいところですが、健康診断の胃カメラでポリープが発見され、細胞検査にまわされた。結果が出るまでの1週間が非常に長く感じられた。腹部エコーもいつもより時間が掛かり、一部分だけをしつこく見られていたので、ひょっとしたら悪性の腫瘍なんではないだろうかと、どうしても悪い方に考えてしまう。結果は良性だったが、ちょっと肝を冷やした。

さて、2月24日に、アンカラでトルコの高校生や大学生を対象としたロボットコンテストがあった。HONDAが主催でJICAも協賛。JICAキャンペーンと称する我々の活動を紹介するコーナーがあった。そこでカマンの活動も紹介した。ロボットコンテストはトルコでは初めての試みだったそうだが、熱心な学生達が参加し大盛況であった。多くの人々が会場を訪れたので、少しはカマンの宣伝になっただろう。

《HONDAのASIMOとトルコのロボットが握手》

《ロボットの相撲》

《パッケージデザインの展示》

《JICA活動紹介のブース》

《七宝焼きに挑戦》

3月3日に、我々のデスクがあるビリセム(知能指数130以上の天才児を集めた特殊な学校)で雛祭りを主体とした日本文化の紹介をした。昨年は節分の豆まきを主体とした催しだった。私ふんする鬼が大喝采を受けたが、今回はおとなしく、お雛様の折り紙とペーパークラフトを担当した。生徒達は関心を示し、楽しんで作ってくれた。

《ひな祭りのペーパークラフトに挑戦》

《ペーパークラフトの後はひな祭りを歌う》

アンカラからも他のシニアボランティアやトルコ語の先生、学生たちにも参加していただき、昨年に引き続き有意義な催しとなった。大好評だったので、ぜひ市役所の方でもやって欲しいとの申し出があり、5月5日にも市役所ホールで端午の節句にちなんだ催しをやる予定である。さて、次はどんな催しをするか、あまり無い知恵を振り絞って只今考え中である。

そして、どこから聞きつけたのか、我々が日本語を教えているアーヒ大学でも日本文化紹介の依頼があり、ここでも学生相手に雛祭りをした。さすがに日本語を学んでいる大学生なので、トルコ語のみならず日本語でも雛祭りの歌を熱唱した。

さて、研究所の日本庭園の作業であるが、梨の木に付いた宿木(やどりぎ)の除去及び整枝剪定の作業を続けている。梨の木の本数が多いのと、結構樹高が高い木が多く、本格的?なロッククライミングの道具を使っての作業となる。木に登ったり降りたりで、思ったように捗らない。それでもようやく先が見えてきた。

宿木が一杯付いて弱々しかった木々も、宿木と一緒に枯れ枝や不要な枝等を剪定してやると、見違えるように生き生きと復活してきた。元気になった木々を眺めると、苦労が報われたようで嬉しくなる。この仕事をやっていて良かったと言える瞬間だ。

《宿り木を取ってスッキリとした梨の木》

冬場の代表的な庭園作業に、寒肥の施肥がある。庭園にあるすべての樹木に施すのは時間的にも、また生育が良すぎるのも後の手入れが大変なので、今回は桜(日本から輸入したソメイヨシノ)と主木になる松のみに施肥した。日本庭園の樹木に肥料をやるのは久しぶりみたいなので、これらの生育状況も楽しみである。

《ソメイヨシノの寒肥え》

また、2年ほど前に山の斜面に植えられたヒマラヤシーダの支柱と水鉢をやり直した。カマンは強風の名所なので、樹木はどうしても風の影響を強く受けてしまう。せっかく植えた木々も風で傾いたり、倒れたりしている。植樹後も樹木を丁寧に観察する必要性がある。

昨年完成した研究棟や今年に完成する宿泊棟周りの造園計画も順次進めている。石庭も中庭に取り入れようと考えている。スモモやリンゴ、クルミなどの果樹も大量に入荷したので、植樹に取り掛かった。ここでは乾燥が激しいので、樹木も思ったよりも深植えする必要がある。日本では湿気のために根腐れの方が心配なのだが、トルコでは水分の補給が最重要課題だ。

《完成した研究棟》

《研究棟と宿泊棟》

メインとなる博物館の建設は残念ながら来年度に持ち越しになった。それに伴い、来年移植する樹木に対しては根回しも始めた。春が迫って、ここ日本庭園はてんてこ舞いの忙しさである。

《松の根回し》

日本庭園のみならずカマン市役所でも、新市長から老人ホームの庭と公園の設計を依頼された。加えてカイマカン(郡庁)からも、最近できた裁判所の造園設計を依頼された。この裁判所はカマンではビックリするような立派な建物である。ちょっと本腰を入れて取り掛からないといけない。

この前までは春がやってきたかのような暖かさであったが、ここ2,3日は雪も降り、真冬の寒さがぶり返してきた。今日(水曜日)はせっかくのパザール(青空市)だったが、みんな商売もそこそこに早仕舞いしていた。

日本庭園も自転車で通い始めたばかりなのに、寒さのため、またバスに逆戻り。しかし、4月に入ると野の花々が一斉に咲き始める。カマンでは心浮き浮きする季節がやってくる。美しく咲き競う花々の真っ只中を、私の自慢のマウンテンバイクが駆け回ることだろう。ただし、花粉症とチョバン犬(羊や牛の番犬)が心配だが・・・。


メルハバ通信その13通信(2007年1月)

2012年05月24日 | メルハバ通信

メルハバ通信その13

1月12日から健康診断のために日本に帰国した。このメルハバ通信も日本からお送りしている。身体に異常が無ければ2月8日に関空を発って、9日にトルコに戻る。久しぶりの日本なので、できれば温泉にもゆっくり浸かりたい。

昨年11月にカマン市長が亡くなられたが、12月にも悲しい別れがあった。それは私と同期のSさん二人で飼っていた、猫のタマちゃんとの別れであった。

タマちゃんとの出会いはちょうど1年前であった。カマン3人組でパーティー(たぶんクリスマス)の料理を持って、私が部屋を出ようとすると、ドアの外に生まれて1ヶ月にも満たないような子猫がうずくまっていた。

《初代タマちゃん》

猫をそのままにして、2階にあるMさんの部屋で盛大?なパーティーをした。そして、ほろ酔い機嫌で自分の部屋に戻って来ると、ドアの前にまだその猫がいる。私は日本でも猫を飼っているので、可哀想になり、一晩くらいならと部屋の中に招き入れた。バスルームで汚れた体を綺麗に洗ってやり、インスタントのミルクやビスケットなどをやる。ゴロゴロと喉を鳴らせ、非常に人懐っこい猫である。私がベッドで寝ていると、ベッドの中に入り込んできた。日本でも良く飼い猫が布団に入ってきていた。猫も暖かくて気持ちいいんだろうとそのまま一緒に寝込んだ。

さあ翌日、カマンの仲間に、この猫はどうしたものかと相談した。トルコにずっといる訳ではないし、部屋の中で飼うにはちょっと無理だ。可哀想ではあったが、外に出すことにした。厳寒のトルコの冬をやり過ごせるのかなと非常に心配していた。

やはり外は寒いのか、人が出入りする隙にアパートの中にこっそり入ってくる。猫の姿を見かける度に安心していたが、1階に住んでいるSさんの話だと、夜はどうも地下にあるボイラー室辺りで寝ているようである。時々Sさんや私が餌をやるようになった。二人で相談して名前を付けてやろうということになり、Sさんがたまに見かけるので、タマちゃんはどうかなと提案した。すぐにタマちゃんと決まった。

最初はほんとにたまに見かけていたタマちゃんであったが、餌をもらうためにしょっちゅう1階のSさんの部屋に来るようになっていた。Sさんの部屋で餌が無い時などは4回の私の部屋までやって来て、ドアの前で“ニャーオ、ニャーオ”と餌を催促する始末。

カマンでは猫の餌などは売っていないので、私が仕事でカイセリに行った時などにキャットフードを購入するようになった。そして、男2人(カマン3人組のもう一人のMさんは、ほとんどカレホユック研究所に寝泊りしていたので)にとっては無くてはならない大切な存在になってしまった。

そのタマちゃんが12月初めに行方不明になった。ほとんど毎日、夜にはSさんの部屋に来ていたのに、1週間以上も姿を見せなくなった。交通事故にでもあったのではないだろうかと心配していた。

Sさんが私の上の階に住んでいるムスタファ少年に聞いたところ、なんと車で撥ねられたとのことであった。やはり、交通事故に遭っていたのか・・・。私たちのアパートの前は国道になっていて、交通量も田舎のカマンにしては非常に多い。他の猫でも結構撥ねられるのも多いのではないだろうか。実に可哀想なことをしたものだと感じていた。

そして、タマちゃんが消えてから10日ほどしたある日、私は市役所へ行く途中の道路でタマちゃんそっくりの子猫を見つけた。これも生まれて1ヶ月ほどの子猫で、頭を撫でてやるとゴロニャーンと甘えてくる。タマちゃんの生まれ替わりか、まるでタマちゃんの落とし子のような気さえした。

Sさんがやって来るのを待って、この猫を見せる。Sさんもあまりのそっくりさにびっくりして、すぐさま家に連れて帰ると言う。こうしてタマちゃん2世が誕生してしまった。交通事故や寒さが心配なので、タマちゃん2世を今度はSさんの部屋で飼うことになった。私たちが日本に帰国する時は誰か飼い主を見つけるつもりである。

《2代目タマちゃん》

それから2,3日して、日本庭園へ行くバス停に向かうために(12月に入ってから寒い日は自転車の代わりにバスを利用していました。)道路を横断した。すると、街路樹の根元に1匹の猫の死体があり、タマちゃんとそっくりだ。しかし、タマちゃんと比べると大きすぎるので、そのまま日本庭園に行った。

仕事をしていても、だんだん猫の死体が気になってきた。Sさんに電話して、もう一度確かめてもらうことにした。大きすぎるのでやっぱり違うということだ。ところが、時間が経ってSさんも心配になり、もう一度昼休みに見に行ったそうだ。顔をじっくり確かめたところ、タマちゃん独特の顔の模様が確かにあるという連絡を受けた。私も仕事を切り上げて、カマンに戻った。

そして、二人でタマちゃんの死体を公園になっている丘の中腹に葬ってやった。私の部屋からはいつでもタマちゃんのお墓を見ることができる。きちんと葬ってやることができたので、1年という短い人生でだったが、きっと満足して天国に行ってくれたと思う。タマちゃん、楽しい日々をありがとう。安らかに眠れ!。

さて、今度のタマちゃんはちょっと「やんちゃ」だ。タマちゃん1世はおっとりしていたのに、なかなかじっとしていない。クリスマスパーティーの時にもMさんが手を引っかかれて、血だらけになってしまった。Sさんもちょっと手を焼くかもしれない・・・。

しかし、私の部屋でタマちゃん2世を預かった時に、milima(娘)が爪を切ってやった。これで暫くは大丈夫だろう。やんちゃではあるが、この猫も実に可愛い子猫である。 

12月3日にコンヤという街で行われるメブラーナの舞を見に行った。イスラム教の一派であるメブラーナ教による宗教行事だが、白い衣装を着て、クルクルと回り続ける有名な踊りである。観光用のものはイスタンブール等で見られるが、私たちが行ったのはコンヤで1年に一度12月に行われる正真正銘の舞である。

《メブラーナ7つの助言》

今ではトルコを代表的するものとして、世界中から観光客が訪れる。日本のテレビやガイドブック等で見られた人も多いのではないだろうか?

《メブラーナの舞い》

黒装束で身をくるんだ僧侶が荘厳な音楽や歌とともに、白装束に変わり、気持ちを集中して回り初める。見ているこちらも厳粛な気持ちになり、実に感動ものであった。

《メブラーなの舞い》

 

さて、milimaの学校が冬休みなので、妻と供にカマンにやって来た。Mさんの奥さんもトルコに来ていて、ドイツから考古学の研究にやって来ているYさんも迎え、盛大なクリスマスパーティー及び年越しパーティーを催した。久しぶりに賑わったカマンだった。

年が明けて、家族3人で世界遺産に指定されているサフランボルに行った。「杖屋ペンション」と言って、日本人御用達のペンションに泊まったのだが、客は韓国人がほとんどであった。最近はどうも韓国人のほうが幅を利かせているみたいだ。他の観光地の旅行者も韓国人のほうが目立つ。

《サフランボルの街》

《サフランボルでトルコダンス》

しかし、トルコ人にとって日本人は別扱いである。このペンションにテレビ局の人が来て、我々日本人家族だけが撮影に招かれた。トルコで働いている日本人としてインタビューも受けたので、ひょっとするとテレビで流れるかも?

12月の日本庭園では主に梨の木に取り付いているヤドリギを落とす作業をしている。ヨーロッパでは冬に落葉樹が葉を落とした後でも、ヤドリギだけが青々と葉を付けているので、生命力のシンボルとして見られているそうだ。クリスマスの飾りにも使われる。

しかし、トルコ人たちはヤドリギが付いていると梨の実付きが悪いと言うので、これらを綺麗に除去すると同時に無駄な枝を剪定している。地面近くまで垂れ下がっていた枝も落とし、だいぶスッキリとしてきた。果たして今年はたくさんの実を付けてくれるだろうか?今から楽しみである。

《樹に着いている宿り木》

《宿り木の除去後》

また、カマン3人組で、第2回目の日本語初級講座を開始した。今度はアヒ大学の学生が我々の生徒である。希望者は150名ほどあったのだが、多すぎるので取敢えず30名ほどを対象に行っている。なかなかみんな熱心に授業に参加してくれている。以前は内容がちょっと難しすぎたのと、我々の教え方ももう一つだったのか、卒業生は一人だけであった。今度は多くの人が長続きできるように工夫するつもりだ。

《2回目の日本語講座》

《日本語講座の学生と記念撮影》

1月は日本に帰国中なので、2月のメルハバ通信はお休みさせていただく。外の気温はトルコ、カマンの方が低い(現在で最低気温-5℃くらい)のですが、家の中はセントラルヒーティング(集中暖房)でとっても暖い。日本に帰ってから、日本の家はなんと寒いんだろうと感じている。


メルハバ通信その12(2006年12月)

2012年05月23日 | メルハバ通信

メルハバ通信その12

11月16日に心臓発作で倒れ、アンカラの病院に入院していた、トゥルグット・アスラン、カマン市長が亡くなられた。とても気さくで、市民からも本当に愛されていた市長であった。カマンにとって、また我々シニアボランティア3人にとっても非常に大きな損失だ。しかし、いつまでも悲しんでばかりいられない。ネジャティ・チョラック新市長の下、新しいカマンの街作りのために尽力せねばと思っている。

カマンでは亡きトゥルグット市長のために、荘厳かつ盛大な市民葬が執り行われた。このメルハバ通信で、どの様な葬儀が執り行われたのか、報告したいと思う。

市長が亡くなった当日16日、私はカイセリに作った日本庭園の仕上がりを視察に行くため、隣町であるクルシェヒル行きのドルムシュ(小型の乗り合いバス)に乗っていた。クルシェヒルからカイセリ行きのオトブス(長距離バス)に乗る。ドルムシュの中で市長が亡くなったという一報を、シニアボランティア同期隊員のSさんから携帯電話で聞いた。

クルシェヒルからカイセリ間のオトブス(長距離バス)に乗っていれば、携帯電話の電源は切らされるので、Sさんからの電話も通じなかったであろう。今から考えると非常にラッキーであった。急遽カマンに帰り、Sさんが待つ市役所に駆けつけた。

葬儀の模様を私のカメラで撮影してほしいとの依頼を、Sさんのカウンターパートであるセルメットから受けた。市役所の写真班として葬儀に臨んだ。セルメットは市長の甥っ子にあたり、彼はまた英語も出来るので、我々日本人の世話係でもある。市役所ではコンピュータを担当していて、市役所のホームページも彼が管理している。

いつもは非常に明るく冗談を言っている彼が、さすがに時折悲しそうな表情を見せる。しかし、葬儀ではおじさんである亡き市長のために、悲しみを押し隠し、気丈に中心的な役割を果たした。

《棺を担ぐセルメット》

さて、本葬儀は翌日17日に執り行われた。前日の昼から副市長が亡くなった市長を迎えに行くための車に、私とSさんを乗せてくれた。カマンから15キロほど離れた草原に向かう。バスや自動車に分乗してきた人々が、草原で大勢待っていた。雲一つ無い快晴で、この季節にしては驚くような暖かさである。トルコの天候も市長に対して敬意を払ってくれたのだろう。ここでアンカラの病院から帰ってくる市長をみんなで出迎える。

《亡き市長を乗せた霊柩車を迎える》

やがて1台の霊柩車らしき車を先頭に長蛇の車列がやってきた。先導する霊柩車は日本の様な作りではなく、普通のトラックを改造したものである。この霊柩車を先導にみんなが車に乗り込み、カマンを目指した。 

《霊柩車を先頭に、カマンを目指す。》

バスなどはフロントに喪章として黒い布を掲げている。草原の道を何十台もの車が列を成す。こんなに多くの車が列を成すことはカマンではまず無いであろう。

カマンに到着し、唯一の病院へと棺は向かう。近くにあるジャーミー(イスラムの教会)でみんなが集まり始めた。ここでお通夜が執り行われるのだろうか? 我々は翌日の葬儀に参加するということで、この日は市役所に戻った。

葬儀当日、参列する人々がすべて市長の顔写真を喪章として胸に掲げる。そして、市長の棺が安置されている病院まで、1km程度の道を市民が歩いて出迎えに行く。病院から市長の遺影を先頭に霊柩車が出てきた。人々が続々と集まって、その霊柩車に続く。

《亡き市長の写真を胸に掲げる》

《トルコ国旗と市長の遺影を先頭に参列者が続く》

ジャーミー(イスラムの教会)の近くで霊柩車から市長の棺が降ろされた。おそらく市長の遺族であろう女性たちが棺に泣きすがる。一人の若い女性が最後まで棺を放れようとしない。市長の孫娘さんであろうか・・・? 

《霊柩車から棺を降ろす》

ここで人々が棺を肩に担ぎ、市役所まで行進する。棺を担いでいない人々は互いに腕を組み合っている。担ぎ手を交代しながら、市役所まで全員で進んだ。

《みんなで交代しながら棺を担ぐ》

私もどうしても棺を担ぎたい衝動に駆られ、少しの間だったが、棺を担がせてもらった。行進する人々がどんどん膨れ上がり、市役所の前で待つ人々の元に到着した。多数の花輪が飾れている中に棺が安置され、ここで葬儀が執り行われた。

《我々カマン3人組の花輪もある》

《女性は後ろの方でじっと見つめている》

《多数の市民が集まった》

棺の傍らでは、市の警護に当たっている警護員が身じろぎせずに、敬礼をし続ける。いかにも平静を保つその表情の奥からは明らかに悲しそうな感情が読み取れる。棺の上にはカーネーションの花々が置かれた。悲しそうな顔をしたおじいさんが棺のそばから離れようとしない。

《役所の警備員がずっと棺の横で敬礼を続ける》

《悲しそうなおじいさん》

ジャーミーでイスラムの祈りが済んだ昼過ぎから本格的な葬儀が執り行われた。少し広い場所に棺を移動し、我々のデスクがある学校の先生が葬儀の司会を担当する。

まず、市長と共に仕事をしていて、先日配置換えになったカイマカン(カマン郡長)が日本でいう弔辞を述べる。そして新任のカイマカン、他の人々が弔辞を述べた。最後にイスラムの僧侶と共に、葬儀に参列した人々が祈りを捧げる。無事に葬儀が終了し、市長の遺体は市長の故郷であるオメールハジュルの墓地へと向かって行った。

《イスラム教の僧侶が祈りを捧げる》

長が倒れてからも、また元気な姿を我々の前に見せてくれると心から信じていた。市の公園計画など、私の業務にも市長が深く関わっていた。おそらく私の仕事においても、今後は支障が生じることと思う。しかし、新市長の元、少しでもカマンのために役立てる様に頑張って生きたいと考えている。それが我々に常に暖かい態度で接してくれた市長に対する、せめてもの恩返しである。

思い起こせば、寒い冬の日の帰り道、我々の前で止まってくれた1台の車があった。市長の車だった。“家まで送っていくから乗っていけ。”と人懐っこい笑顔で言ってくれた。会う度に、“時間が出来たら君たちをカッパドキアに招待するからね。”と言ってくれていた。暫く私たちが市役所に行かない( もう一つの職場である学校の方で作業をしていたので)と、 “君たちの姿が見えないから、私はずっと泣いていたよ。”と、冗談を言って、私たちを笑わせてくれた・・・。

赴任早々、私がカメラの撮影中にクルシェヒルの警察に捕まった時も、これからは捕まっても大丈夫な様に、市長の名詞に、“この人は大切な日本からのボランティアです。何かあった時には私が保証します。”と裏書してくれた。今でも私の財布にはこの名詞が大切に閉まってある。今となっては私の大切な宝物になってしまった。いつまでも大切なお守りとして財布の中にあり続けるだろう。

トゥルグット・アスラン市長のご冥福を心からお祈り申し上げます。

翌週末はカイセリに日本庭園を見に行きました。私が仕事を終える時に、“あとは自分たちに任せておけ。”とはメルクガジ市役所は言っていたのだが、おそらく日本庭園とは程遠い状態であろうとは覚悟していた。

夕方にカイセリに着き、とりあえず現場視察に訪れた。庭園灯が綺麗に灯っていて、一見するとなかなか雰囲気の良い庭園である。しかし、雪見灯篭が設計では1基だけなのに、なんと5基も配置してある。私は1基しか作らせていないのに、現場に持ち込まれた灯篭が5基もあるのは不審に思っていたのだが、他の公園等で使うためのものだと考えていた。

その中の一つはエルジェス山をイメージした枯山水庭園のメインの景石の上にも置いてある。日本庭園のイメージもぶち壊しである。灯篭が多くあるので、トルコ人から見れば日本風だと思ったのだろうが。設置する場所が間違っているので、日本人から見れば笑いものだ。

翌日にメルクガジ市役所を訪れ、公園長のムスタファ・トルクメンに、設計に入れている灯篭以外はすべて外すように指示した。彼はせっかく据えたのにと、怪訝そうな表情であったが・・・。私がこれだけは絶対に譲れないと言ったので、仕方なく撤去するだろう。

しかし、その他は設計通りには行っていない部分もあったが、芝生も綺麗に生え揃い、樹木も植えて、一応庭園らしくなっていた。まだ手水鉢と織部灯篭が入っていなかった(これもずっと前から催促してきていたのだが)ので、来年の春までには必ず入れてほしいと要求した。

《芝生が奇麗に生え揃った》

《枯れ池とトルコで作った雪見灯籠》

《あずまやと園路》

それらが入ったら、最終的な手直しに行こうと考えている。まあ、トルコ人だけでそれなりに仕上げてくれたので、とにかく格好はついた感じである。手付かずの心配もしていたので、これでも感謝しなくてはいけないだろう。

メルクガジ市役所に文句を言うのは雪見灯篭だけにしておく。公園長の話ではこの庭園の評判が非常に良いので、カイセリで一番大きなブユックシェヒル市役所でも真似をして、韓国庭園をこしらえたそうだ。しかし、こんなに立派な庭園ではないということでちょっと安心。 

日本庭園の本当の完成は来春まで待つとしよう。


メルハバ通信その11(2006年11月)

2012年05月21日 | メルハバ通信

メルハバ通信その11

ここトルコにやって来てから、ちょうど1年が経った。最初の1ヶ月は異常にゆっくりと感じられたが、それ以降はあっという間に過ぎ去った。残された任期はあと1年、悔いの残らないよう、気持ちを再起動させてボランティア業務を遂行していきたいと考えている。

さて、アンカラの家族のもとに行っていた11月2日の夜、とうとうトルコで初雪が降り始めた。ちょうど家族と共に世界的にも有名なアナトリア文明博物館を訪れている時であった。

自宅のアパートを出る時に外があまりにも寒いので、家族と冗談半分で “雪が降ってもおかしくないな” と話していた。しかし、まさか本当にこんなに早く降るとは・・・。昨年は11月下旬か12月に降ったように記憶している。

博物館を出たあたりから、雪は夜中ずっと降り続き、翌朝は一面の雪景色となった。12階のアパートから見る雪景色に娘のmilima(美里麻)も大感激。

翌日、私が夕方6時半の最終バスでアンカラからカマンに帰る時、降り積もった雪のためにカマンの自宅に辿り着けるか、心配していた。しかし、運転手の腕前は誠に見事なもので、安心していて乗っていられた。

でも、翌日のカマン行きバスが雪で横転したことを聞かされた。1ヶ月ほど前にもコンヤという街で日本人旅行者を乗せた観光バスが、雨で出来た水溜りでスリップして横転し、乗客が1人死亡したことを思うとバスに乗る時はある程度の覚悟が必要である。

しかし、日が暮れて満月の光に照らされたバスから見た道中の雪原はなんとも言えない美しさであった。春以来しばらく忘れかけていた雪景色の素晴らしさと共にトルコに来れた感動が心の中から湧き出てくる。ここ最近はあまり感じなかった登山意欲も頭をもたげてくる。やはり雪のトルコ、特にここカマンの雪景色は素晴らしい・・・。

翌日、日本庭園に行って、またまたその雪景色を堪能することができた。雪面がキラキラと眩しいばかりに輝き渡り、誰も歩いていない雪の上を思う存分歩き回り、一人で写真を撮った。昨年は春まで日本庭園の剪定作業は休んでいた(トルコにまだ慣れていなかったのと、非常に寒かったため)ので、この素晴らしい日本庭園の雪景色を見ることができなかった。

《紅葉と雪景色》

《すっぽりと雪に埋まった》

《十三重塔》

《雪見灯籠》

今から考えると実にもったいないことをしたもんだなあと思う。今年の冬は天気の良い日を選んで日本庭園での現場作業を続けよう。しかし、いくら冬山装備を身につけている私でも-20℃以下での作業はさすがに遠慮させてもらいたいが・・・(昨年の冬は−30℃を記録した)。

《一足早いクリスマスツリー》

《一面の雪景色》

《冬の間はこの水槽に日本庭園の鯉を集める》

《研究所と日本庭園の名物犬たちも雪にびっくり》

先月も少し書いたが、トルコのラマザン(断食月)についての続編を書きたいと思う。9月23日に始まったラマザンは10月22日に無事に終わった。

私も1日くらいは断食を経験しようとは思っていたのだが、初日に寝過ごして肝心の朝飯を食べることができず、あまりの空腹で夕食まで待てずに結局未経験に終わってしまった。ちょっと残念であるが、来年もう一度機会がある。オロチ(断食)は来年に持越しである。

アンカラでは街に出ると、閉めている(営業していない)レストランもあるのだが、営業しているレストランでは多くの人々が何事も無いかのように食事をしている。ところがカマンに帰ると、利用しているレストランが軒並みに閉まっている。目立つ所には営業している店が見当たらない。ようやく探し当てたピデ(トルコのピザ)屋さんでクイマール(ひき肉)ピデとペイニール(チーズ)ピデを注文したが、店内で食べている人は誰もいない。アパートに持ち帰って、こっそり食べた。

何日か後で、この店の隅っこで食べている人を見つけたので、勇気を出して一緒に食べた。しかし、パンやピデを買いに来ている客にじろじろと見られて、食事している相手に対してする挨拶、“アフェイトースン”と言われた。その口調は明らかにいつもとは違うものであった。非難の口調である。

人前でラマザン中に食べ物を口にするのは勇気が必要だ。欧米化されているアンカラと違って、それだけカマンはまだまだ敬虔なイスラム教徒が多いといえるのだろう。

仕事場の日本庭園でも殆どの作業人たちがオロチ(断食)をしていて、休憩中にチャイを飲んだりパンを食べるのは、私とジェンギンズの二人だけであった。しかし、ジェンギンズが全く悪びれた様子も無く、私に “自分は今は仏教徒だ。” などと冗談を言って場を和ませ、他の作業人たちの目をあまり気にしないで食べることができている。日本庭園で作業するにはエネルギー補給が必要であるから・・・。

私が樹木を剪定していると、断食している作業人が疲れてフラフラになり、“あなたも休め。ちょっと働きすぎだ。”などと、付き合いで作業を中断させられることも多くある。

断食をする意味は、貧しくて食べ物もろくに食べられない人の気持ちを知ることにあると聞いた。しかし、働いている者にとって、作業効率は確かに悪い。ラマザンがイスラム国家の生産性に大きく関わってくることもあるようだ。

昼間は確かに宗教心を持って頑張っているとは感じられる。でも、日が暮れると普段以上に食料を馬鹿食いしているという噂もあり、胃袋にも負担をかける。果たしてこんなんでいいのかなと疑問を感じてしまう。

とにかく、やっとそのラマザンも終わり、生贄祭のクルバンバイラムと並んでトルコの2大祝日であるラマザンバイラム(シェケルバイラム=砂糖祭り)が23日から25日まであった。

アンカラでは子供たちが家に飴やチョコレートをもらいに来るので、用意しておくようにと言われていた。果たして日本人の元にも来るのだろうかと半信半疑でいた。

朝10時頃、ピンポーンというベルが鳴り、ドアを開けると、いかにも貧しそうな子供が二人立っていた。陰に隠れてお母さんらしき人が・・・。とにかく飴とチョコレートを差し出すと、片方の子はこぼれんばかりに掴んだが、もう一人は遠慮している。こちらから“ブユルン(どうぞ)”と掴んで渡した。これでちょっとはラマザン中に断食していない罪滅ぼしになっただろう。

その後、2組がやって来た。一人は高校生くらいの男の子で、チョコレートを掴みとった後に、怪訝そうな顔でパラ(お金)を催促する。子供なら1リラ(80円ほど)渡せば良いと聞いていたが、どうもうさんくさそうだ。“パラヨク(お金は無いよ)”と答え、知らん振りした。礼も言わずに帰っていった。

カマンでは誰もアパートにやって来る者もいなくて、ちょっと拍子抜けしてしまった。とにもかくにも、トルコでのラマザン初体験は終わったのである。

10月29日はトルコ共和国宣言記念日であった。28日にカマン市役所の前にあるアタチュルク(トルコ建国の父と慕われており、公の場所では今でもアタチュルクの像や顔を掲げる。)広場で花輪が掲げられた。何か催しがある度にこの広場で花輪が掲げられる。様々な団体の代表者が次々に花輪を置いていく。最後に広場に整列した全員での国家を斉唱で催しが終わった。

《アタチュルク広場にて》

《カマン市長》

《市長や郡長、警察署長など、お偉いさんが参列》

1時間足らずの催しだったが、本番の29日はサッカー競技場で本格的な式典があった。いったいどんな式典だろうかと大いに期待していた。

朝9時頃から笛や太鼓、ラッパの音が響き渡る。道路を学校の旗を先頭に生徒たちが行進する。さあ、会場であるサッカー競技場へと私達家族もみんなと一緒に向かった。

カマンは小さな町なので、競技場までは歩いても10分程度。クラクションを鳴らす車が目の前で止まったので、誰かなと覗くと副市長だった。彼の車に乗せてもらい、既に街の人々が大勢集まっている会場へと到着する。

あいにく真冬のような寒さだ。雪でも降ってくるのではと思える。会場に集まった人々もみんな震えている。

寒さに負けないで、民族衣装を着た女の子たちのダンスとサズ(トルコギター)の演奏で式典は始まった。バシカン(市長)やカイマカン(郡長)の挨拶があり、各学校の生徒たちによるパレード。 ブラスバンドでは職場のデスクがある学校で顔見知りのヨンジャが小さな体で小太鼓を演奏している。

《サズの奏者、役所の同僚ムラットの晴れ舞台》

《トルコの民族衣装を身に着けて踊る》

次々と知り合いの子供たちが目の前を通り過ぎる。私と目が合ってニヤッとはにかんだり、手を振る者もいれば、一心不乱に行進するものもいる。

日頃やんちゃな子供たちも実に真剣な表情だ。子供たちの中にはまだ私たちの顔を知らない子もいて、“わあ、日本人だ”と、驚いている者もいた。みんなの行進が済んで、盛大な式典も終了した。寒さで体はガクガク震えていた。

ところで、この式典の時にも私たちに、人懐っこい笑顔を向けてくれていたカマン市長が、1週間ほど前に心臓発作で倒れて意識不明になってしまった。式典の寒さが応えたのだろうか? 式典の間中、ずっとスタジアムで起立していたから・・・。市民からも慕われていて、気の良い尊敬できる市長だ。この時は元気そうだったのに、ビックリしてしまった。

まだ生死は五分五分の状態だが、何とか元気になって私たちにその笑顔を見せてほしいものだ。心から祈っている。

 


メルハバ通信その10(2006年9月)

2012年05月20日 | メルハバ通信

メルハバ通信その10

ここカマンでは早くも冬の訪れを感じる。夏から今まで4,5日間隔で暑い日と冷え込む日が繰り返している。辺りの風景や吹く風も昨年11月にカマンへやって来た時の様相を呈してきた。このまま、この短い秋からどんどん冬に向かって行きそうな勢いだ。

《日本から持ってきたカエデの紅葉》

《上部にある滝組》

《池とクルシェヒル方面の山々を望む》

 ちょっと前までは日本庭園の桜やカイス(すもも)、ツタ類の紅葉が目立っていた。しかし、その紅葉も早くも散り始めてきている。逆に夏の暑さで参っていた芝生の緑は元気を取り戻した。秋の手入れの行き届いた?庭を見ていると非常に気持ちがいいものだ。

《藤棚付近のツタの紅葉》

《最上部の紅葉》

《池と流れ》

私の目ではカマンの日本庭園は春よりも秋の方がより綺麗に感じられる。アンカラのテレビ局も日本庭園の撮影に来た。私も日本からの植木職人として紹介された。ひょっとするとアンカラではちょっとした有名人になっているかも・・・?

《テレビ局の取材》

《園路も秋の風情である》

さて、9月中旬に隣町のカレケチリでお祭りがあり、アンカラからやって来た妻と娘、同期のSさんとで出かけた。カマンからカラケチリまで40kmほどの距離である。

アンカラ行きのオトブス(長距離バス)に乗り、途中で降ろしてもらう。たくさんのテントが張ってあり、賑やかそうな場所がすぐに目に入った。一目で祭りの場所が解った。

アスファルトの道が迂回しているので、祭り会場らしき所にめがけて一直線に小道を進んだ。だんだん道らしき物がなくなり、一軒の家の庭先にやって来てしまった。どうもこの家に入っていく道だったようだ。ちょうど5,6人の住人らしき人々が庭先でチャイ( 紅茶 ) を飲もうとしているところであった。とりあえず彼らに挨拶をすると、決まったように“ようこそ。チャイを飲んで行け”である。

祭りの時間も心配だったが、人の敷地に黙って入り込んで、誘いを断るのもたいそう失礼になる。いつものようにチャイを頂く。チャイの後はメロンの接待。皮付きの小さな瓜のようなメロンであった。どうして食べるのかと思ったら、なんとおばさんは皮のままボリボリと音をさせてかぶりつく。我々も皮のまま食べようとしたのだが、これはちと堅い。やっぱり皮を残してしまった。他の住人はこの姿に大笑い。皮のまま食べるのはこのおばさんだけだった。

“夕食もここで食べて行け”と言われたが、あまり長居は禁物なので、祭り会場に向かう。この家のお兄さんが我々を祭り会場まで案内してくれた。最初はステージの遠くで見物していたが、日本人だと解ると最前列の席に招待された。市長らしき人や市のお偉いさん達と握手する。民族衣装を着て踊りを踊っている子供たちが、娘のmilima(美里麻)を見るとこちらにやってきた。milimaが引っ張られるようにその子供たちと踊らされる。なかなかの人気者になって、ひっぱりだこである。主催者もあまりの混雑ぶりに、とうとう子供たちに注意をする始末。

《milimaも参加して踊る》

歌手やサズ(トルコのギター)の演奏を堪能して帰途に着いた。帰りもチャイをご馳走になった家のお兄さんがバス停まで送ってくれた。“バスはもうやって来ないよ。うちに泊まったら?”と言ってくれたが、アンカラからのオトブスを8時に予約していたので、ちゃんと乗れて無事にカマンのアパートに帰ることができた。妻も娘もここカマンが二人が住んでいる首都のアンカラより楽しいとたいそう喜んでいた。

9月23日から1ヶ月間、トルコ(イスラム圏)ではラマザンといって、断食月である。太陽の出ている間は食事はおろか、タバコや水も飲めない。

10月初めにエコロジーという雑誌の編集者で、我々と友達になったサブリさんがクルシェヒルからカマンにやってきた。カマンにある彼の親戚の家で夕暮れのイフタルという食事があり、我々(Sさんと私の家族)が招待された。

《イフタルの食事を頂く》

昼間に食事ができない代わりに日が暮れてからたらふく食べる。レンズ豆のスープから始まって、なぜかカイセリマントゥ(カイセリ以外でも客をもてなすのにカイセリマントゥをご馳走するのだ。)、鶏のピラフ、チョバン(羊飼い)サラダ等々。旨いトルコ料理でお腹一杯になって、またまたみんなが大満足した。帰りにトルコのピクルスのような漬物をたくさんもらったのだが、強烈な臭いで部屋の中には置けず、ベランダで眠っている。さすがの私も未だに食べる勇気も出ず、さてどうしたものか? 何とか食してみないことには話のネタにならないし・・・。思い切って挑戦しなくてはと思っている。

さて、10月16日で日本庭園に関わる作業人たちは仕事納めであった。みんなで写真を撮ってくれと言われて、整列したり踊っているところを撮影した。みんなが急に居なくなると、これから日本庭園は私一人、非常に寂しくなりそうだ。また研究所の犬たちが私の唯一の話し相手になるのであろう。

《みんなで踊る》

ところで、研究所の犬ではないが、カマンでの犬事情について述べたいと思う。春にオメールハジュルに自転車で行く際に、チョバン犬(羊の番犬)に噛まれた話は前に書いたが、最近、またまたチョバン犬に襲われた。この秋になってから日本庭園に行く途中、犬を見かけることが多くなっていた。小麦などの刈込が終わって、羊や牛たちを畑で放牧させていることが多くなったためだろう。

《羊を護る犬とロバ》

しかし、こちらに向かって吠えるだけで、かかって来る様子はなかったので安心していたのだが、その日はあの恐ろしいチョバン犬がゆっくりと吠えながらこちらに近づいてきた。

素早く遠ざかろうと自転車を早めると犬も急に走り出し、その犬が私に近づくや否やもう2匹のチョバン犬が吠えながらすごい勢いでこちらに向かってきた。1匹であれば格闘になっても何とかなると思っている私でも、さすがに一度に3匹は逃げるしかない・・・。

全力で自転車を漕ぐが、今にも追いつかれて、オメールハジュルでのように噛まれそうになった。自転車の左右後方から1匹ずつ、もう1匹は畑から追ってくる。このままでは駄目だと思い、右側の犬の方へ急ハンドルを切ってフェイントを入れた。これには犬も一瞬ひるんでスピードを緩める。“これはいけるぞ!!” 追いつかれそうになると、時々フェイントを入れながら、とうとう犬たちの追撃を振り切った。犬を振り切るのがもう少し遅かったら、これから登り坂だったので犬に追いつかれていただろう。今から考えてもぞっとする。

この事件を日本庭園の作業人たちに話すと、“犬は危険だから、カマンで拳銃を購入しろ!”と言われた。と言ってもおもちゃの拳銃であるが・・・。次のパザール(青空市)で玉の出るやつを購入したが、“こんなもんでは犬が怖がらない。玉は出なくてもいいから、火薬を使った大きな音がするのが必要だ。”と言われて、カマン中を探し回ってやっと手に入れた。。子供が遊ぶプラスチック製の小さな拳銃なので、日本庭園に行く時はズボンのポケットにいつも忍ばせている。

そして、先日、早くもそれが役立つことになった。チョバン犬に襲われてから近道の畑沿いの道は通らないでいた。この日はアスファルトのチャウルカン村に行く手前の道を入った。角に家があり、前日に自動車でこの家の前を通る時、犬が私たちの前に 突進して来るのを見ていたので、ちょっと嫌な予感がしていた。

念のため、引き金がすぐ引けるよう拳銃をポケットから取り出し、手に持って素早く通り過ぎようとした。例によって犬の吠える声がするが、いつものごとく庭にいるようだ。ところが、この家の角を曲がると別の2匹の犬が突然自転車に襲い掛かってきた。すぐさまその犬めがけて引き金を引く。パーン!!。ものすごい銃声が・・・。

すぐ近くまで来ていた犬は慌てて逃げて行く。3,4m離れた所にいたもう1匹の犬は何が起こったのか解らず、きょとんとした表情でこちらを見ている。しかし、拳銃の音にびっくりしたのか吠えるのもやめて、私に対して危害を加える様子もなさそうだ。そのまま犬を睨んで通り過ぎた。

拳銃の効果に大満足ではあったが、その見返りに私の耳も暫くはツーンと痺れたままだった。人間の何倍も耳のいい犬にとってはこれはかなりな脅威となったであろう。“犬どもめ、ざまあみろ!人間様の恐ろしさが解ったか・・・ ” しかし、それからは遠回りの安全な道(だと思う)を通っている。音だけの拳銃にも犬に慣れられてしまうかもしれないので・・・。

《この気球でカレホユック遺跡の全景を撮影する》

とにかくここトルコでは犬に遭わないのが一番である。


メルハバ通信その9(2006年8月)

2012年05月19日 | メルハバ通信

メルハバ通信その9 <カイセリ日本庭園奮闘記2>

今年は格別に暑かったトルコの夏もようやく峠を過ぎた。朝夕は肌寒いくらいに感じるこの頃である。チャウルカン村の日本庭園での作業も随分楽に感じられるようになってきた。

さて、8月に妻と娘がトルコで暮らすためにやってきた。娘がアンカラの学校に通う(ここカマンではインターナショナルスクールが無いため)ので、アンカラのチーデンマハレシでアパートを探し、トルコでの生活を始めた。長男も夏休みを利用してトルコに来て、久しぶりに家族で外国?(トルコ国内であるが)旅行をした。

《トルコ人に成りすましたmilima(美里麻)》

《カッパドキアにて》

さあ、それでは気分も新たに、カイセリ日本庭園奮闘記の続編を送らせてもらう。

3月に市役所との打ち合わせを終えて、4月から工事に入った。作業は主に週末の金曜、土曜、日曜日の3日間である。木曜日、カマンでの仕事を終え、夕方のバスでカイセリに向かう。そして、日曜日の夕方にまたカマンに戻る。宿舎は市役所が提供してくれた宿泊施設である。市役所で建築を担当しているギョクハン が英語も話せるので、彼が通訳がわり。また、役所内の造園工事等のプランも彼が担当している。今回の日本庭園も彼が責任者といったところだ。

まず、一緒に庭園で用いる景石を探しにカイセリ近郊の山に出かけた。日本のように石材屋があって、そこで適当な石を探すのではなく、自然の山から探し出す。いろいろな場所に出かけるが、なかなか良さそうな所が見当たらない。ちょっと良さそうな石が見つかっても半分以上は土に埋まっているため、形もなかなか把握できない。また、どのような方法で運び出すのかも解らない。

ギョクハンと共に何箇所か回って、ようやく苔が付いて日本庭園に適する石が多く存在する場所を見つけた。石の選定にちょっと時間が掛かるからと彼にはひとまず役所に帰ってもらい、私一人で選定し始めた。

すると村の子供たちが珍しそうに話しかけてきて、私にずっと付いて来る。一緒に探すことにした。 彼らは“ヨシ、こっちにいい石があるぞ。ヨシ、これはどうだ、使えるか。”と熱心に探してくれた。

使えそうな石に目印のガムテープを貼り付けていく。だんだん彼らの仲間が集まってきた。10人ほどが集まり、その中にはヤギの子供もいる。賑やかな石探しになった。やがて夕暮れも迫り子供たちも家に帰り、ギョクハンが私を迎えにやってきた。

《ヤギを従えて、日本庭園の石探し》

ところが、次の日にはギョクハンが他にもっといい場所があると言う。それならどうして最初に言わないのだと不審に思ったが、行って見ると確かにこちらの方が運びやすそうだ。彼はどんな場所でも石は運び出せると言うのだが、道が無い山の奥や急な斜面にある石など、どのようにして運び出すのか不思議であった。とりあえず、彼の言うことを半分程度信用することにして、出来るだけ運び出させそうな石に目印をつける。この週は景石の選別で費やし、翌週に運び出すことになった。

そして翌週、市役所で作業人たちを待つ。3人の作業人がやって来た。ちょっと強面の作業人が握手を求めてきた。彼も公園課長(ムスタファ・トルクメン)と同じ名前のムスタファであった。昔ボクシングをやっていたそうで、そういえばあのマイク・タイソンに似ている。彼に“マイク・タイソンに似ている”と言うと非常に喜んで、みんなにその事を自慢し始めた。彼のことを公園課長と区別するため、ムスタファ・タイソンと呼ぶことにした。彼は非常に私を気に入ってくれて、何度も自宅での食事に招いてくれた。彼の子供たちともすぐに仲良くなった。息子の名前はアリ。しかし、彼が途中で配置換えになり、日本庭園の現場には来なくなってしまった。非常に残念だ。

《ムスタファ・タイソン》

《タイソンのお母さんと子供達》

さて、作業人たちと石を取る現場に向かった。どんな機械で運び出すのかと思っていると、穴を掘るバックホウが後ろに付いたブルドーザの登場。キャタピラーの代わりに大きなタイヤが付いている。こちらの言葉でケプチェと言う。

運転手に“どの石を取るのだ?”と聞かれたので、選定した石を指差したが、 “ここにはケプチェが入れない。”と言う。そんなバカな、ギョクハンは“どこでも取れる”と言ったのに・・・。想像はしていたが、やっぱりなという感じである。取りあえず下の方にある石だけでも取ってくれと頼んだ。

運転手が渋々斜面を登ろうとするのだが、今にもひっくり返りそうだ。運転手も怖くなって、早々に諦めてしまった。道路脇の取り易い所でもう一度石を選定し直すとしよう。 新しい場所を探し始めると、私に断りも無しにケプチェが帰ってしまった。おいおい、どうなっているんだ・・・。

途方にくれていると作業人たちが“タマム、タマム”と私に言う。トルコ語でタマムはノープロブレムの意味である。トルコでは少々の問題は殆どこの言葉ですまされる。まさしくここはタマム(ノープロブレム)の国である。

しばらくすると、古ぼけたケプチェ(ブルドーザー)が猛スピードでこちらにやって来た。作業人たちは“この運転手はカイセリで一番のケプチェの使い手だ。”と言う。

ちょっと渋い運転手が“どの石を取るのだ?”と私に尋ねる。“この石を取ってくれ!”と言うとバックで登り始め、いとも簡単に取ってしまった。それならこっちの石はどうかと尋ねると、またまた簡単に取る。しかし、斜面から転がり落とすので、石が傷ついたり、途中で割れてしまう。でも仕方ない。ここはタマム(ノープロブレム)の国だから・・・。

《バックで急斜面を登るケプチェ(ブルドーザー)》

一度大きな石が斜面で停まり切らずに、道路まで転がり落ちた。下に車があればぺちゃんこである。この時はさすがに肝を冷やした。どんどん上部の石を取ってくれとお願いすると、彼はことごとく取ってくれた。見事な運転である。最初にやって来た運転手は一体何だったのか・・・? 石が大分貯まったので、落とした石を大きなダンプカーに載せて日本庭園の現場に運び込んだ。

翌日はさっそくエルジェス山をイメージした景石据えに取り掛かった。しかし、日本のようにチェーンブロックやレッカーを使うのではなく、またまたケプチェ(ブルドーザー)を使って巧みに据えていく。この日のケプチェの運転手は昨日のダンプカーの運転手とは違っていたが、彼もなかなかの腕前であった。

《ケプチェの運転手》

しかし、中心になる一番大きな石をなかなか据えることが出来ない。ロープで吊ろうとしても直ぐに石の重量のため、切れてしまう。私がワイヤーロープを買ってきても、直ぐに切れてしまった。諦めてケプチェで気長に据えることにした。

なんとか夕暮れまでに3石だけを据えることができた。しかし、翌日に行って見ると、どうも位置が端により過ぎているのが気掛かりになってきた。運転手に非常に気の毒だったが、今回はタマムと妥協せずに、やり直すことにした。彼もさすがに気を悪くしているようであったが、昨日より要領を覚えてきて、短時間で移動することが出来た。その後の作業も非常に効率的に捗り、半日程でエルジェス山の石組みを終える事が出来た。最後は運転手と私との間で阿吽の呼吸が生まれたように思う。彼も石庭の出来上がりに非常に満足していた。

後日作業した回遊式庭園の方も殆ど彼との共同作業で石を据えた。もし、彼がいなかったら今回の仕事はもっと時間が掛かり、相当困難なものになっていたように感じる。良い運転手に巡り会えて良かった。

しかし、他の作業人たちはあまり仕事熱心とは言えず、一つの仕事が終われば私に“次は何をすればいいのだ?” “今お前は何をやっているのだ?” “何のためにやっているのだ?” 等々、うるさいばかりに聞いてくる。その上、直ぐに“さあチャイの時間だ。休憩しよう”と言って作業が捗らない。

日本庭園に必要な微妙な曲線や地盤の起伏なども彼らが理解できるはずも無く、結局私一人で作業する時間が多くなった。時々、話の解る作業人も居たが、ころころと人が変わる。その度に一から説明しなければならない。そんな中で、水道課から手伝いに来てくれたアフメットは熱心に仕事をしてくれた。他の水道課の仲間にも私を紹介してくれて、公園で一緒にチャイを飲んだり昼食を採ったり、彼らと楽しい時間を持つことが出来た。彼が公園課の人間だったら仕事はもっと捗っていたのだが・・・。またまた残念だ。

《水道課の仲間達とピデ(トルコのピザ)で昼食》

さて、回遊式庭園の方は石張りの部分が多く、職人次第で庭の出来上がりが左右される。基礎工事のコンクリート職人はひどい作業であった。私がいない間にやっておくから心配は要らないということでカマンに帰り、翌週にカイセリの現場へ行って見ると、せっかく据えた石にコンクリートは付けるは、適当に切り石を立てたりで、全く呆れ果てた。

しかし、石張り職人のラマザンはなかなかの腕前だった。日本でもやっていけそうな感じだった。私の言うこともある程度は理解してくれ、何とか庭の格好は付いてきた。細かい部分に不満は一杯ではあるが・・・。ここはタマムの国、諦めというか妥協が肝心だ。

《石張り職人のラマザンと助手》

灯篭も日本から輸入するのでは無く、今後のためにもこちらで製作させた。時々石屋の製作現場に行っては指導していたのだが、出来上がってみると、やっぱり日本のようにはいかなかった。まあ、日本の雰囲気が少しでも出ているなら、これもタマムとしてもらおう。 

《一応骨格が出来上がり、庭の格好が付いてきた。中央にトルコで作った雪見灯籠》

8月に日本から家族が来るので、7月中に作業を完了したいと、ムスタファ・トルクメンには伝えていた。彼もタマム、タマムと答えてはいたが、資材の納入もままならず、思っていた通り完成までには至らなかった。後はラマザンとギョクハンが我々に任せてもらえればタマムと言うことで、任せることにした。

《メルクガジ市役所》

私も時間が出来れば、もう一度か二度はカイセリに出かけて、後の指導や手直しをするつもりである。庭の骨格はだいたい出来上がった。植栽が残っているが、図面を基本に工事してもらえるだろう。後はタマム、タマムでご勘弁願おう。

《カイセリでのいつもの朝食、ひよこ豆のスープとパン食べ放題で250円程度》

《ちょっと豪勢に、美人姉妹のレストランで》

現場の近くで店の家具屋さん、床屋さん、そして美容室を営む人達に非常に世話になった。入れ替わり立ち代わり、私に話しかけてくれて、お茶やジュース、果物等差し入れてくれた。真夏の作業時の冷たい差し入れは何物にも変え難い思いであった。

また、作業していると、近所の子供達や通り掛かりの知らない人達までもが、“コライゲルスン(ご苦労様)”と、必ずと言っていいほど暖かい励ましの声を掛けてくれる。一人で辛い作業をしている時など、本当に嬉しく感じた。日本ではあまり見かけられない光景である。

《現場で友達になった可愛い子供達》

現場隣の有名な〈イスケンデル・レストラン〉では私が植木を手入れしたお礼に本場のイスケンデルケバブや本格的な中華料理をご馳走になった。また、いつも私が食事していたクルド人経営のレストランでは看板の美人姉妹始め、従業員のみんなが暖かくもてなしてくれた。今思い出してもジーンと胸がこみ上げてくる。

《行きつけのレストランの美人姉妹》

花粉症が悪化して病院へ通ったり、暑くて作業も辛い時もあったが、様々な心暖かい人達と知り合い、助けを得られた。みんな私の大切な友人である。ここでの活動がほんとに良い経験になった。カイセリでの日本庭園製作でお世話になった人々に心から感謝したいと思う。

《私のお気に入り、カイセリ名物パスツルマ(生肉と香辛料で作ったソーセージ)の店》

ところで、日本の家族がトルコにやって来て、カッパドキア、イスタンブールを旅行した。例に違わず珍道中であったが、機会があればお伝えしたいと思う。


メルハバ通信その8(2006年7月)

2012年05月18日 | メルハバ通信

メルハバ通信その8 <カイセリ日本庭園奮闘記1>

ここカマンや週末に日本庭園を作りに行っているカイセリではヒマワリの花々が満開になってきた。日本では余り見られない景色にいつも感動している。

《ひまわり畑とおじさん、背後はカマンの街》

“お待たせしました。”と言っても誰も待っていないかもしれないが・・・。今回と次回の2回に別けて、カイセリ日本庭園奮闘記を書かせて頂く。自分で奮闘記と言うのもおこがましいが、ここまでくるには多くの困難もあり、自分でも良くやっているなと感じている。まずはその前編の始まりである。

3月にカイセリのエルジェス大学で日本語教師をしているシニアボランティア同期のS女史から、“カイセリ市役所が日本庭園を作って欲しいと言っているが、可能か?”と言う問いかけがあった。

日本庭園を外国で作ることが私の夢であった。まだトルコの状況も良く飲み込めていなかったが、この際やってやろうと後先も考えずに二つ返事でOKしてしまった。これが自分を窮地に追い込むことになろうとは夢にも思っていなかった。

すぐにカイセリに飛んで、市役所との打ち合わせ。カイセリには3つの市役所(ブユックシェヒル、メルクガジ、コジャシナン)があり、私が日本庭園を依頼されたのはメルクガジ市役所であった。

メルクガジ市役所 で、まず 公園課長と話をする。S女史とエルジェス大学のアイハン先生、日本語学科の学生たちも一緒の和やかな話し合いであった。公園課長のムスタファ・トゥルクメンは日本庭園に対して非常に乗り気で、また実に日本びいきな人であった。デスクの背後の壁には日本庭園のポスターが飾ってある。

庭園の材料や私の経費等はすべて市役所で用意するので、是非ともお願いしたいとのこと。候補予定地も2ヵ所あり、さっそく一緒に視察する。どちらでも私の好きな方を選んで良いと言う。一つはジャーミーに隣接しており、雰囲気も日本的でなく広すぎる。こじんまりとした、もう1ヶ所の場所に決定した。既存の大きなユーカリの木が10本程度あり、風情もある。これらの木を残して作庭することにした。

《日本庭園の用地》

カマンに戻ってからさっそく設計を開始。自分でもびっくりするほどスムーズにデザインが進む。仕事の遅い私にしてはまさしく神がかり的である。

小さなスペースにはエルジェス山をイメージした石組み。大きな方は枯れ池と石張りが中心の回遊式庭園。

日本のように大判のプリンターが無いので、コンピュータは使わず、久しぶりに手描きで図面を製作する。デザインは直ぐに浮かんだが、すべて手描きの為、仕上げにはやはり時間が掛かる。毎日学校に居残りだ。先生方も私が遅くまで仕事をしているので興味津々である。みんなが図面を見に来ては“チョック・ギュゼル!(とても素晴らしい)”の連発。

次の週末にはさっそく、出来上がった図面をメルクガジ市役所に提出した。この週は公園課に引き続いて、会計の責任者とも話をした。ところが、彼には公園課長から話が伝わっていないのか、まるで私がカイセリで日本庭園を作らせて欲しいとでも言っているような感じである。費用もこちらが負担しなければならないかとも思えるような態度。数々の要求にも実に渋い表情。市役所が庭に掛かるすべての費用を出してくれるのか不安になった。

《公園課長のムスタファ・トゥルクメンと私の書いた図面》

このままでは埒が明きそうに無いので、私は“市長と話をさせて欲しい”と言った。翌日に会ってくれることでなんとか話がつき、次の日に市役所に向かう。ところが面会は市長に用事があるとかで急にキャンセルされてしまった。来週には必ず会うということだが・・・。

面会をキャンセルされて、どうしたものかと思ったが、転んでもただでは起きないのが私である。1日ぽっかりと時間が空いた。この際、一人でエルジェス山の偵察に行ってやれ!と名案が浮かぶ。市役所との通訳をしてくれているヤーシンさんにエルジェス山行きのバス停まで運んでもらい、ミニバスに乗り込む。登山口のバス停まではなんと1リラ(80円ほど)。

《私の登山目標の山、エルジェス山》

バスを降りるとすぐにスキー場である。見晴らしの良いレストランで腹ごしらえをして、さっそくリフトに乗り込んだ。終点で降りると、トルコ人らしき人がエルジェス山の写真を撮っている。私と同じ山岳写真家だろうか?トルコで有名な山岳写真家かもしれないな・・・。妙に親近感を覚えて、メルハバと大きな声で挨拶する。しかし、相手側の挨拶は無しで、ただこちらを向いて笑っているだけ。失礼な奴だと思ったので、彼に構わず上に向かう。

まさかこんなところへ来るとは思っていなかったので、私の足下は登山靴ではなく、昨日ヒルトンホテルの下にあるアルメールという大きなスーパーで購入したばかりの新品の革靴だ。ああ、せっかく新調した靴が・・・。

でも山の頂を見ると勝手に身体が上へ上へと登ってしまう。哀しい登山家の性だろうか? 雪がだんだん深くなり、もうここらで引き返そうと雪のエルジェス山、最後の撮影をする。

《最高到達地点よりエルジェス山の頂を見る》

景色を十分堪能した後、さあ下りである。やはり登山靴でないのでつるつる滑る。慎重に下って行くと、先程出逢った人がにっこり笑ってやってきた。もう一度メルハバと挨拶したが、やはり返事は無し。こいつはちょっとおかしいぞ、トルコ人ではないのかなと英語で“どこから来たのか?”と尋ねた。

なんと、彼はフランス人であった。なーんだ、それならそうともっと早く言え、とでも言いたかったのだが、私の流暢に話せるフランス語はボンジュール、サバ?、ジュブドュレ・モンテ・ル・モンブラン(モンブランに登りたい)ぐらいだ。これらを駆使して挨拶した。そして、一緒にリフト乗り場まで下る。アルプスの本場フランスからもエルジェス山の撮影に来ているのかと妙に感心した次第である。

さて、リフトで下る時に素敵なカフェテラスらしき場所を見つけた。エルジェス山を眺めるのに格好の場所だ。リフトを降りて、そこへ行くと誰も居ない。ディカット(トルコ語で注意−この時はまだ意味が解らなかった)と書いてある看板と守衛らしき建物があったが、そのまま中に入った。

いかにもボーイらしき人が出てきた。やはりカフェテラスだったのだと安心。“コーヒーはありますか?”と尋ねると、ニコニコ笑って“ある”と彼は答えた。一番眺めのいい席に座ると、ボーイさんが3人ほど出てきて、私と一緒に座る。客とボーイが一緒に座るのもなんか変だなと思ったが、客も私一人だし、まあ日本人が珍しいのだなと納得してみんなと話をする。でもなんか様子が変だ。

《コーヒーを頂いて談笑する》

ディカットの看板と共に入り口に書いてあったアスケリと言う単語を急に思い出した。アスケリは軍隊である。ここはなんと軍の施設だったのだ。私は軍隊の保養施設に乗り込んで、コーヒーを注文し飲んでいたのであった。またまた知らないうちに素晴らしい体験ができてしまった。

調子に乗って、一番眺めのいいところでエルジェス山の写真を撮る。すると、“誰だ、こんなところで写真を撮っている奴は?”と背後からとても怖そうな声がした。振り返ると彼らの上官らしき人がスキーを終えて帰ってきたようだ。ボーイが上官に私のことを説明する。これはヤバいことになるかも・・・。クルシェヒルでの逮捕事件を思い出した。

しかし、彼らの説明が終わるとその上官は私の前に座り、“ようこそ”と握手を求めてきた。この人は1年間アメリカで生活していたそうで、英語も堪能。綺麗な奥さんと可愛い娘さんもいて、2杯目のコーヒーをいただきながら、和やかなひと時を過ごすことができた。

《上官の奥さんと可愛い娘さん》

翌日は、帰りのバスの時間(午後2時)までエルジェス大学日本語学科の女学生のヌルセンさんがタラスという古い町並みを案内してくれた。最初、友達と二人で来ると言っていたが、友達は用事があり、私と彼女の二人だけであった。タラスは彼女も非常にお気に入りの街である。

《タラスの古びた教会》

《タラスの街並》

《洒落た彫刻》

二人で歩いていると知らないおじいさんから“こちらに来い”と声を掛けられた。彼は昔はガーデナーだったそうで、私が“カイセリに日本庭園を作る。”と言うと“自分も手伝わせて欲しい。”と話が弾んだ。とは言っても殆どヌルセンさんの通訳であったが・・・。ここでチャイのみならず、昼食までご馳走になった。タラスの上にある眺めの良い洒落たカフェテラスでは建造中の洞窟を案内してもらい、ヌルセンさんとのデート?を楽しんだ。

《チャイと昼食を頂く》

翌週はやっと市長に会えると思ったのだが、会えたのは副市長であった。彼も最初はどうしてここに日本庭園なのかと怪訝そうな表情。これでは話にならない。図面のコピーを持ってきてくれと会計の責任者に言ったが、先週頼んでおいた図面コピーがまだできていないと持ってこない。図面が無ければ副市長も説得できない。“コピーが無ければ預けていた図面を今すぐ持ってきてくれ!”と私は非常に怒った振りをして会計の責任者を怒鳴りつけた。私の態度にみんなびっくり。図面の原本を副市長が見ると、急に彼の態度が変わった。

図面には自信があったのだが、ここトルコで手描きの設計図面に対する評価が高いのには驚いた。技術者はCADで図面作成しているので、手描きでの作成はできない者が多いようだ。メルクガジ市役所が費用を持つので是非日本庭園を作って欲しいと、改めて副市長から要請された。

この週はカイセリで生まれて初めての皆既日食を見て、カマンに喜び勇んで帰った。ところが、私がついていたのもここまで・・・。これから思わぬ窮地に追い込まれることとなる。

さて、カマンでカイセリでの仕事を具体的にどのように進めるかを同期のMさん、Sさんと話し合った。カマンでの仕事が最優先なので、休日等を利用しての仕事が賢明だという事で、私も一旦は納得した。しかし、カイセリ側のことを考えると工事は一気にやってしまわないと困るだろう。そして、5月18日のカイセリ市民祭りまでに完成したいとの思惑もあった。

一体どうしたものかと途方にくれる毎日が続いた。人の意見は様々で、いっそカマンでの仕事(まだ気温が低くチャウルカン村での日本庭園は作業できる状態ではなかった)を一時中断してカイセリの日本庭園を完成してしまおうと思ったが、カマンでの仕事をやるために私は派遣されている。ここでの仕事に支障が出ると色々な所に問題が起こってくる。日本庭園の製作を安請け合いした私に問題があるのだが、できなかった時の責任問題が私だけでなくJICAや他の人にも掛かる恐れも出てきた。

苦渋の決断だったが、カイセリでの日本庭園の仕事は断わることにした。着工前だったら、私一人が 市役所や係わった人々に対して謝れば済むことだ。意を決して市役所に向かった。

まず、色々な面でお世話になり、通訳もしてくれていたアイハン先生に心から謝る。しかし、彼は“福田さんは謝る必要は無い。今まであなたが日本庭園を作るためにどれだけ一生懸命やってきたかを私は知っている。カイセリのために素晴らしい図面も描いてくれた。この図面だけでもう十分だ。市役所がもしあなたに対して怒るのなら、この私が謝ります。あなたは私の傍にいるだけでいい。謝らないで欲しい・・・。”そう言われて私は涙を押さえられなかった。

そして、公園課長のムスタファに会い、“私がすべて至らないために、今回の日本庭園建設はお断りします。”と言った。すると彼は“一体どんな問題があるのか?”と逆に私に質問する。私は正直にすべてを彼に話した。すると彼は怒るどころか、“こんなに詳細な図面があれば、私たちの市役所はたとえあなたが居なくても立派な日本庭園を作ることができる。しかし、私はあなたにどうしてもこの仕事に関わって欲しい。あなたの要求はすべて市役所で叶えるので、問題は無い。どうかお願いだからカイセリに来てください。”と頼まれた。またまた涙があふれ出て来た。やはり歳をとると涙腺が弱くなるようだ。

仕事を断りに言ったのに、結局引き受けることになってしまった。仕事はカマンの活動に支障を来さないよう土曜、日曜中心。完成はいつになるか解らないという条件で・・・。

《カイセリ城で》

しかし、トルコに来てからまだ日も浅く、トルコ語も片言しか解らない。こんな私の前には、まだまだ多くの困難が待ち構えていた。

後編でその奮闘振り?を披露する。


メルハバ通信その7(2006年6月)

2012年05月17日 | メルハバ通信

メルハバ通信その7

ここカマンや日本庭園を作りに行っているカイセリでも30度を越す日が増えてきた。トルコでは日本の様に梅雨が無いので、春から夏に一気に突入といったところだ。花々も夏の花が増えてきた。

《かすみ草》

《ひまわりを栽培している》

《麦と赤いポピー》

《フヨウの花》

 

《アザミをよく見ると小さな蜘蛛が・・・》

《トルコブルー?の花》

《一面のひまわりと麦畑》

《農作業をする親子》

5月頃に猛烈に暑い日があった。すぐさま扇風機が要るなと思い、町中を探したが、ここカマンではなかなか見つからない。あっても、タイマーが付いていない。タイマーが付いてないと寝る時に困るのだ。いつ頃入荷するのか聞いても要領を得ない返事。店にきちんとした入荷計画が無いのだろう。月曜日に入荷すると聞いて店に行くが、やっぱり入荷していない。まあ、これがトルコだろう。

今のところ、暑さは少しましだ。しかし、7月,8月は40度を越す日もあるそうだ。天気予報を見ていると、すでにトルコの他の地域では40度を越す場所も出てきている。

《とげとげの植物》

《草原と夏を思わせる雲》

《草原に立つ家》

《ポプラと麦畑》

6月は私たちのデスクがある英才教育の学校で、一年間の成果を発表する催しがあった。その発表会について簡単に書きたいと思う。

カイセリから帰ってくると同期のSさんから市役所のホールで学校の催しがあるらしいと聞かされた。前に予行演習を見ていた、私たちが待ち望んでいた卒業式かもしれないと、日本庭園に行く前に久しぶりに学校へ行ってみた。

校長先生から催しを書いた綺麗なパンフレットを手渡される。日本庭園に行って、研究所での昼食の時(カレホユック遺跡の発掘作業が始まったので、昼食は研究者達と一緒に頂いている)に考古学者のMドクターに見せると、卒業式では無くて1年間の発表会みたいなものだと聞かされた。

Mドクターも誘って、カマン3人組全員で参加することにした。ちょっとためらったが、久しぶりにスーツを着る。こんな時でもない限りスーツを着ることも無い。 学校のホールに行くと参加者はみんな結構いい格好をしていた。先生方も全員スーツ姿。スーツを着ていて良かった。

先生に招かれて“ブユルン(どうぞ)”と前方の席に座らされた。隣の席に座った5歳くらいの子供が私に非常なる興味を示した。私が挨拶をすると、私の手にキスをして自分のおでこに私の手をあてる、トルコの尊敬の仕草で挨拶を返す。それからも繰り返し私の方へやってきては握手を求める。いい加減にしろとお父さんに叱られていた。愛嬌のある賢そうな子供だった。きっとこの英才教育の学校にも入学できるに違いない。

さて、肝心の発表会だが、全員起立して、最初にトルコ国歌の斉唱。その後、女の子による詩の朗読。壇上で日ごろの練習の成果を発表した。 そして、三人の男の子による漫才(と思う)。トルコ語がきちんと解ればもっと面白いと思うのだが、時々解るトルコ語と三人の仕草、そしてみんなの笑いにつられてこちらも大笑い。次に男の子が登場して、また詩の朗読。

 

《男の子の漫才》

そして、予行演習の時に見ていた例の女の子が登場した。以前は女優のようなしぐさと声の張りで非常に感動したが、今回も時折涙を浮かべ、実に素晴らしい朗読であった。

《ヨンジャと仲良しの女の子の朗読》

しばらく舞台が閉じ、次に開くと全員によるコーラス。いつも部屋にやってくる生意気な男の子が最前列で真剣な表情で歌っている。お前もなかなかやるじゃんと感心した。

《全員での見事なコーラス》

我々とSさんのアイドルであるヨンジャ(トルコ語で三つ葉)という女の子が列の中ほどから舞台の前に出てきて独唱する。我が子を見る親の気持ちで、“頑張れよ”と心の中で励ます。ヨンジャは期待に違わず、実に立派に歌いきった。

数々のコーラスや楽器演奏の後、最後は先生によるパソコンを使った朗読があった。いつもは面白い仕草や言葉等で私たちを笑わせるトルコ語(国語)の先生がこのときはまじめに、そして感情豊かに朗読した。

催しが無事に終わって外に出ると、みんながそれぞれ記念撮影をしている。みんなが私たちのもとに寄ってきて、一緒に記念撮影の催促。なかなか楽しく実のある発表会であった。