母は一人っ子だった。
家は洋服の仕立て屋をしていたので、戦後とかも食べ物に困るとかの苦労はなかったようだ。
父は8人兄弟の次男だったので、中学卒業したら、働いて、妹たちの学費とか払っていたらしい。
後に、国鉄職員になり、お見合い結婚で母の所に養子に入った。
その頃、母の父はもう亡くなっていて、母には母(祖母)だけがいた。
祖母は91歳で亡くなったのだが、いつからか呆けていた。
母は働いていたので、昼間は祖母は1人で寝ていた。
ポータブルトイレとか置いてたけど、失敗やそこら辺にしたりしていた。
妄想で父の悪口とかも言っていた
自分から老人ホームに入っては出るを何回か繰り返していた。
祖母も呆けてたし、母も認知症。。。遺伝があるとすれば、私も。。。???
えーーー!!! いやだーーー!!! 呆けて子供の世話にはなりたくない
私は、父が大好きだった。
昭和2年生まれなのに、料理も買い物もするし、畑を作ったり、魚釣りをしたり、
毎朝5時過ぎには起きて犬の散歩をかかさない。
笑顔がすてきでおもしろい人だった。
一番尊敬していたのは、父の口から他人の悪口を聞いたことがなかったことだ。
(母からは、かわいいとか、抱きしめられたとかの記憶があまり無いんです。。。
長女は初めての子供で。。下は男の子でかわいい。。?
そして、私は、手のかからない子だったと言われてた)
父は、頭は亡くなるまでしっかりしていたけど、若い頃から糖尿病だった。
晩年は、肺がんや大腸がんになり、幸いにも転移などはなく、手術で切除するだけで良かった。
しかし、透析をしていたから、リスクは大きかったと思う。
平成21年5月に体調を悪くして、入院したとき、誤嚥して、心肺停止になり、
蘇生を受けながら、救急病院に運ばれた。
そこで、気管切開して、ICUで生死を彷徨い、なんとか一命を取り留めた。
気管切開をしなければ、命はおとしていただろうが。。。気管切開で声を失った
少しずつ、意識はしっかりなってきたのに、食べることも、水を飲むことも出来なかった。
のちには、胃ろうになった。
酸素吸入の管をさわるから、手はベットの柵にくくられていたので、面会に行って、私が横に付
いている時は外していた。
その状態で8ヶ月も生きていた
面会に行った時、何回も「お茶」と身振りでせがまれたが、飲ませることができなかった。
「家に帰らなければ、妻が1人だから帰ります。」とも紙に書いて訴えていた。
病院から連れ出すことは 死を覚悟しなければならないことだから、できなかった。
でも、連れて帰ってあげたかった。。。
晩年は母の認知症と付き合い、昔から苦労もいっぱいしてきた父なのになんで死ぬ前まで
こんな生き地獄みたいな思いをしなければならないのだろうと思っていた。
なんかの修行か??
面会に行ったときも そんな状態なのによく笑顔をみせてくれ、こっちが元気をもらっていた。
(私が死んだら、また、会いたいよーー)
でも、その頃も母のことで大変だったから、父が亡くなった余韻に浸る暇もなかったな。。
死ぬ間際まで、母のことを心配していたから、がんばって看てますよ。
だから、出来るだけ 楽に 長く 介護できるように見守っててね。
長くておもい話になってしまいました。
いつもありがとうございます。良かったら、ポチッとお願いします
家は洋服の仕立て屋をしていたので、戦後とかも食べ物に困るとかの苦労はなかったようだ。
父は8人兄弟の次男だったので、中学卒業したら、働いて、妹たちの学費とか払っていたらしい。
後に、国鉄職員になり、お見合い結婚で母の所に養子に入った。
その頃、母の父はもう亡くなっていて、母には母(祖母)だけがいた。
祖母は91歳で亡くなったのだが、いつからか呆けていた。
母は働いていたので、昼間は祖母は1人で寝ていた。
ポータブルトイレとか置いてたけど、失敗やそこら辺にしたりしていた。
妄想で父の悪口とかも言っていた
自分から老人ホームに入っては出るを何回か繰り返していた。
祖母も呆けてたし、母も認知症。。。遺伝があるとすれば、私も。。。???
えーーー!!! いやだーーー!!! 呆けて子供の世話にはなりたくない
私は、父が大好きだった。
昭和2年生まれなのに、料理も買い物もするし、畑を作ったり、魚釣りをしたり、
毎朝5時過ぎには起きて犬の散歩をかかさない。
笑顔がすてきでおもしろい人だった。
一番尊敬していたのは、父の口から他人の悪口を聞いたことがなかったことだ。
(母からは、かわいいとか、抱きしめられたとかの記憶があまり無いんです。。。
長女は初めての子供で。。下は男の子でかわいい。。?
そして、私は、手のかからない子だったと言われてた)
父は、頭は亡くなるまでしっかりしていたけど、若い頃から糖尿病だった。
晩年は、肺がんや大腸がんになり、幸いにも転移などはなく、手術で切除するだけで良かった。
しかし、透析をしていたから、リスクは大きかったと思う。
平成21年5月に体調を悪くして、入院したとき、誤嚥して、心肺停止になり、
蘇生を受けながら、救急病院に運ばれた。
そこで、気管切開して、ICUで生死を彷徨い、なんとか一命を取り留めた。
気管切開をしなければ、命はおとしていただろうが。。。気管切開で声を失った
少しずつ、意識はしっかりなってきたのに、食べることも、水を飲むことも出来なかった。
のちには、胃ろうになった。
酸素吸入の管をさわるから、手はベットの柵にくくられていたので、面会に行って、私が横に付
いている時は外していた。
その状態で8ヶ月も生きていた
面会に行った時、何回も「お茶」と身振りでせがまれたが、飲ませることができなかった。
「家に帰らなければ、妻が1人だから帰ります。」とも紙に書いて訴えていた。
病院から連れ出すことは 死を覚悟しなければならないことだから、できなかった。
でも、連れて帰ってあげたかった。。。
晩年は母の認知症と付き合い、昔から苦労もいっぱいしてきた父なのになんで死ぬ前まで
こんな生き地獄みたいな思いをしなければならないのだろうと思っていた。
なんかの修行か??
面会に行ったときも そんな状態なのによく笑顔をみせてくれ、こっちが元気をもらっていた。
(私が死んだら、また、会いたいよーー)
でも、その頃も母のことで大変だったから、父が亡くなった余韻に浸る暇もなかったな。。
死ぬ間際まで、母のことを心配していたから、がんばって看てますよ。
だから、出来るだけ 楽に 長く 介護できるように見守っててね。
長くておもい話になってしまいました。
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