11月になりましたが、10月のことを色々ご報告しますね。
仕事を頑張れば頑張るほど激しくなる女子職員のパワハラ的発言。
それにとうとう私も我慢の限界がきてしまいました。
主治医とも相談して、退職ではなく異動を願い出ることにしました。
課長もその話しは人事の課長と相談して決めると言ってくれました。
ところが!
その課長が急に福島の郡山の本院に戻ることが決まり10月いっぱいとなりました。
新しい課長は来ず、今いる男性陣で何とかするということになり、これがまた大変なことに…。
引継ぎする時間もろくになく、二人の主任の負担が増えることとなり、私が書いている主任ではなく
もう一人の主任は大激怒の毎日。
それはもうすごかったです。
なので10月の後半はもう本当に気が休まる日がありませんでした。
そして私は10月29日から31日まで三連休。
29日と30日はさいたまスーパーアリーナに行くことになっていました。
29日はチケットは無かったのですが、たくさんの浜友さんが来るということで会いに行くつもりでした。
そして30日はライブに参加する予定だったのです。
でも…
28日仕事を終えて家に戻ると留守電が。
札幌の叔父からでした。
94歳の祖母が危篤だという知らせ。
すぐに折り返し電話を掛けたらあと2~3日だろうと…。
祖母の命と省吾さんのライブ。
本当にどうしたらいいかわからなくなりました。
でも、私は自分が病気をしてから札幌にはずっと帰省もしていませんでした。
祖母に手紙を書いたり、電話をしたりはしていましたが、最近は仕事の忙しさもあり、それも出来ずにいたんです。
ただ、祖母はいつまでも元気でいてくれると思っていたんです。
叔父の「生きている間に逢いにきて欲しい」という一言で省吾さんのライブを諦め札幌に帰ることを決めました。
飛行機のチケットの手配も何とか出来て、29日に札幌に行きました。
札幌に着いてそのまま病院へ向かいました。
祖母は意識が無く呼びかけても答えてはくれませんでした。
私の記憶の中ではいつも元気な祖母でしたから目の前の祖母の姿を受け容れるの時間が掛かりました。
30日は少し変化がありました。
もちろん言葉にはなっていませんし、意識もないのですが声を出すのです。
それでも容態は変わらないのかなと思っていました。
31日、私は月初は私だけしか出来ない仕事があるのでやはり東京に戻ることにしていました。
時間いっぱいは祖母の傍にいようと、ベッドで祖母の手をさすったり、顔を撫でたり、声を掛けたり。
そしたら、ほんの数秒のことでしたが祖母が目を開けてくれました。
そのあとドクターが来て「山は越えました、身体の機能も戻ってきましたよ」と。
これには私より叔父が驚いていました。
叔父もずっと張り詰めた気持ちで過ごしていたのだと思うし、そういう言葉が聞けるとは思っていなかったようです。
私も嬉しくて泣きました。
もちろん、全てクリアになってもう何も心配のいらない状態ではないです。
意識もまだ戻ってはいませんしね。
ただ、94歳の祖母の生命力のすごさに私は感謝しました。
病院を後にして叔父に札幌駅まで車で送ってもらいましたが、叔父も本当に嬉しそうでした。
考えてみると叔父は伴侶を亡くし、同じ年に父を亡くし、近年では一人息子までも亡くなったのです。
祖母と二人で生きてきたのですから、その辛さは想像をはるかに超えるものだと思います。
体格の良かった叔父が本当に小さくなっていてそのことにも私は驚きましたから。
東京の自宅に戻ったのがもう日付が変わる頃でした。
荷物もそのままに眠りました。
1日は無理なら少し遅れるか休むかくらい疲れいましたが、普通に出勤しました。
そしたら私が休んでいる間に異動の話しが一人歩きしている感じで。
私自身は何も聞いてないのにどこに異動になるかまで知っている人もいました。
ただ、1日も昨日も私は忙しく、人事課長と面談する時間もなくて、この話しは正式ではありません。
今日は祝日ということで休みでした。
朝、山のような洗濯物を片付けてから一日寝ていました。
やっと疲れがとれたような気がします。
省吾さんのライブは残念でしたが、主任と行くはずだった20日の横浜は浜友さんと行くことにしました。
19日も浜友さんがチケットを取ってくれていたので両日参加します。
お逢いする約束をしていたのに逢うことが出来なかった皆さん、ごめんなさい。
せっかくチケットを取ってくれた浜友さんにも申し訳なかったです。
ただ、札幌に帰ったことで私の中で少し胸のつかえがとれたような気がしています。
祖母を心配して下さった皆さんもありがとうございました。
ありがとうございました。
仕事を頑張れば頑張るほど激しくなる女子職員のパワハラ的発言。
それにとうとう私も我慢の限界がきてしまいました。
主治医とも相談して、退職ではなく異動を願い出ることにしました。
課長もその話しは人事の課長と相談して決めると言ってくれました。
ところが!
その課長が急に福島の郡山の本院に戻ることが決まり10月いっぱいとなりました。
新しい課長は来ず、今いる男性陣で何とかするということになり、これがまた大変なことに…。
引継ぎする時間もろくになく、二人の主任の負担が増えることとなり、私が書いている主任ではなく
もう一人の主任は大激怒の毎日。
それはもうすごかったです。
なので10月の後半はもう本当に気が休まる日がありませんでした。
そして私は10月29日から31日まで三連休。
29日と30日はさいたまスーパーアリーナに行くことになっていました。
29日はチケットは無かったのですが、たくさんの浜友さんが来るということで会いに行くつもりでした。
そして30日はライブに参加する予定だったのです。
でも…
28日仕事を終えて家に戻ると留守電が。
札幌の叔父からでした。
94歳の祖母が危篤だという知らせ。
すぐに折り返し電話を掛けたらあと2~3日だろうと…。
祖母の命と省吾さんのライブ。
本当にどうしたらいいかわからなくなりました。
でも、私は自分が病気をしてから札幌にはずっと帰省もしていませんでした。
祖母に手紙を書いたり、電話をしたりはしていましたが、最近は仕事の忙しさもあり、それも出来ずにいたんです。
ただ、祖母はいつまでも元気でいてくれると思っていたんです。
叔父の「生きている間に逢いにきて欲しい」という一言で省吾さんのライブを諦め札幌に帰ることを決めました。
飛行機のチケットの手配も何とか出来て、29日に札幌に行きました。
札幌に着いてそのまま病院へ向かいました。
祖母は意識が無く呼びかけても答えてはくれませんでした。
私の記憶の中ではいつも元気な祖母でしたから目の前の祖母の姿を受け容れるの時間が掛かりました。
30日は少し変化がありました。
もちろん言葉にはなっていませんし、意識もないのですが声を出すのです。
それでも容態は変わらないのかなと思っていました。
31日、私は月初は私だけしか出来ない仕事があるのでやはり東京に戻ることにしていました。
時間いっぱいは祖母の傍にいようと、ベッドで祖母の手をさすったり、顔を撫でたり、声を掛けたり。
そしたら、ほんの数秒のことでしたが祖母が目を開けてくれました。
そのあとドクターが来て「山は越えました、身体の機能も戻ってきましたよ」と。
これには私より叔父が驚いていました。
叔父もずっと張り詰めた気持ちで過ごしていたのだと思うし、そういう言葉が聞けるとは思っていなかったようです。
私も嬉しくて泣きました。
もちろん、全てクリアになってもう何も心配のいらない状態ではないです。
意識もまだ戻ってはいませんしね。
ただ、94歳の祖母の生命力のすごさに私は感謝しました。
病院を後にして叔父に札幌駅まで車で送ってもらいましたが、叔父も本当に嬉しそうでした。
考えてみると叔父は伴侶を亡くし、同じ年に父を亡くし、近年では一人息子までも亡くなったのです。
祖母と二人で生きてきたのですから、その辛さは想像をはるかに超えるものだと思います。
体格の良かった叔父が本当に小さくなっていてそのことにも私は驚きましたから。
東京の自宅に戻ったのがもう日付が変わる頃でした。
荷物もそのままに眠りました。
1日は無理なら少し遅れるか休むかくらい疲れいましたが、普通に出勤しました。
そしたら私が休んでいる間に異動の話しが一人歩きしている感じで。
私自身は何も聞いてないのにどこに異動になるかまで知っている人もいました。
ただ、1日も昨日も私は忙しく、人事課長と面談する時間もなくて、この話しは正式ではありません。
今日は祝日ということで休みでした。
朝、山のような洗濯物を片付けてから一日寝ていました。
やっと疲れがとれたような気がします。
省吾さんのライブは残念でしたが、主任と行くはずだった20日の横浜は浜友さんと行くことにしました。
19日も浜友さんがチケットを取ってくれていたので両日参加します。
お逢いする約束をしていたのに逢うことが出来なかった皆さん、ごめんなさい。
せっかくチケットを取ってくれた浜友さんにも申し訳なかったです。
ただ、札幌に帰ったことで私の中で少し胸のつかえがとれたような気がしています。
祖母を心配して下さった皆さんもありがとうございました。
ありがとうございました。
元気ですかー?
色々と大変でしたね。
お仕事もかなり忙しそうですね。
とっ言うコトは、明日の横アリがミルキーさんの初戦になるのかな?
素敵な2daysになるとイイね(^_^)
コメントありがとうございます(*^ー^)ノ♪
レスが遅くなりました
横浜、最高でしたよ。
省吾さんはとても素敵でした。
それにとてもお元気でしたよ。
私も沢山のパワーをもらいました。