💘君が人生の時…💘~Time of your life~

もっと自由でいいんだ♬ もっと自分でいいんだ❤

私の平成

2019-04-29 17:47:53 | 浜田省吾
明日、いよいよ平成最後の一日となりますね。
風邪は少し楽になっています。
私自身の平成を少し振り返ったりしようかなとちょっと思い立ちました。

昭和の終わりは母からの1本の電話でした。
朝会社へ行く準備をしている時に母から連絡があり「天皇陛下が危篤だよ」と。
慌ててテレビをつけると画面に大きく「崩御」の文字。
翌日から元号が「平成」となりました。

平成元年はまず私が昇進試験を明日に控えた土曜日の午後にアパートの階段から落ちて大怪我。
かなり痛かったのは事実ですが、大怪我とは思っていませんでした。
土曜の午後ということで救急診療の当番の病院に自分でタクシーを拾って行きました。
これが先生も久しぶりに診た酷い怪我だと言ったくらいで17針を縫う怪我。
そして膝だったこともあり、そのまま入院です。
その時母は白血病が再発していましたが、ベッドに空きがなく待機状態でした。
それで仲良くなった看護師さんと温泉旅行に行っていたんです。
でも、帰ってきてくれましたね。
母が病院に到着するまでは叔母夫婦が来てくれました。
私が心細いだろうと母が電話して頼んでくれたそうです。
翌日には私の上司もお見舞いに来てくれました。
入院は一か月くらいだったと思います。
何だかんだと母は毎日来てくれましたが、私が退院する前にベッドに空きがでて自身が入院しました。
私が退院してからは私が母の病院へ行くことになりました。
でも、状態は厳しかったです。
私の病院に来てくれていた時は比較的元気だったのですが、入院すると一気に状態が悪くなってきました。
3月には私も仕事復帰をしましたが、母の病院と会社の往復でした。
3月の終わりには医師から今のうちに会わせたい人がいたら来てもらって下さいとの言葉がありました。
私は弟と青森の叔母に連絡して来てもらいました。
他の母の兄弟姉妹たちもほぼ毎日来てくれました。
そして4月15日、もうすぐ日付が変わるという時に永眠。
色々あった母と娘でしたが、私自身ショックが本当に大きく、涙が枯れることはなかったです。
それが不思議でもありました。

母が亡くなってからは仕事に邁進する毎日でしたが、急に身体が弱くなってしまい、色々な症状が出ては検査するのですが異常はなく結局はストレスだったみたいです。
仕事は本当に好きでしたが、一緒に仕事をしている人とどうしても合わなかったのです。
結局、体調も悪くなるばかりでした。
退職を決心したのは平成4年のことでした。
このとき一緒に札幌を離れて父と暮らすという選択をしなければ仕事は辞めさせてもらえませんでした。
平成4年12月に退職。
平成5年1月には上京して父の元へ来ました。
まぁ、これが地獄の始まりだったのですが、行って3日も経たないうちに札幌に帰りたいと泣いていましたね。
それくらい父との暮らしは酷かったのです。
それが5年間続いて、結局は別々に暮らすことになります。
平成10年に今のアパートに引っ越ししてきました。
職場も変わりましたね。
そして平成12年4月14日
仕事中に突然具合が悪くなりました。
そしてこれが私の人生を大きく変えることになりましたね。
当時は今ほど私の病気は認知されておらず、父親さえ「働きたくなくて仮病を使っている」と言ってました。
それからは絶望の毎日。
仕事も出来ない、外にも出られない日々。
でも、平成19年から少しずつ良くなっていきます。
そのきっかけは浜友さんという存在。
当時はmixiが全盛期でしたからね。
そこでたくさんの浜友さんと出逢い、その年初めて開催された浜田島では実際にお逢いも出来ました。
あとは「午後7時のwild boy」のリスナーになったのも大きかったですね。
それが転機となり仕事にも復帰出来ました。
でも、私の仕事自体がもう需要が少なくなり仕事は激減します。
そしてリストラ・・。
リストラ後は「子宮体癌の疑い」で検査。
こちら結局子宮筋腫でしたが、そこからまた少し苦しい時が続きます。
しかし平成27年にまた転機が来ます。
それまでの仕事を諦め、パソコンの学校に三か月通ってその後9月には病院の事務員となります。
ここからのことはブログにもよく書いていますが、恋ありパワハラありの1年7か月を過ごし平成29年4月に退職しました。
ここからまた気持ちがぐっと下がる訳ですが、12月には今の職場に内定。
そして昨年、平成30年2月から今の職場に勤務。
とにかく頑張れた1年間に感謝です。
そして平成が終わる4月からは職員として勤務。
平成の終わりに風邪を引くというオチでしたが(笑)
今私にとっても、そして日本国民にとっても激動だった平成が明日で終わります。
たくさんの人、そして自分自身にも感謝ですが、やはり一番は「浜田省吾」さんというソングライターだと思います。
省吾さんがいなかったら私はとっくにこの世にはいないと思います。
平成の私を支えてくれた浜田省吾さん
本当にありがとうございます。
そして令和を迎えても健康第一でいて欲しいです。
お逢い出来る日を楽しみにしています。


ありがとうございました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿