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かぐや姫

2023-03-31 01:33:00 | 日記
3月31日
明日で年度が変わる節目の日ですね。
別れと出会いの季節が訪れます。

昔話の「かぐや姫」(竹取物語)も出会いと別れのお話であると言えます。
竹の中から生まれたかぐや姫は、両親に大事に育てられ、才色兼備で皆に愛される存在でしたが、本来居なければならない場所は月であると悟り、月へ帰るというお話しです。

私は、ふと思いました。

なぜ、かぐや姫はこちら(地球)へやって来たのか。


なぜでしょうか。

宇宙人説?
偶然説?
神様のいたずら説?
スパイ説?
なぜ来たのか、どうやって来たのか、アナザーストーリーを考え出したら意外と面白いかもしれません。

本当のところは分かりませんが、かぐや姫は地球に来る何か「意味」を持っていたのではないかと私は思います。

出会いがあれば別れもあります。
そして別れは辛いことがしばしばあります。
しかし、そこに何か「意味」があれば、救われます。前を向けそうです。

なぜこの年度末に「かぐや姫」の話なのか。
私の職場でも、今日で退職される方が1人おります。
彼女は才能に溢れているだけではなく、気品もあり、皆に愛される存在でした。
惜しまれつつも退職されますが、思う存分才能を発揮できる場所がまだまだある方です。
才色兼備という部分もそうですが、本来の場所へ行く、もしくは、更に輝ける場所へ行く、という点で、まさに「かぐや姫」的存在だと、ふと思ったのです。

別れの挨拶の中で、彼女は「ここで幸せな時間を過ごすことができて本当に良かったです。ありがとうございました。」と言っていました。
私はそれを聞いて、彼女も何か「意味」を持ってここに来てくれたんだな、と感じました。

この時期に限らず、皆さんにも別れる人もいれば、出会う人もいますね。
その時、その場所、その人、それぞれに何か「意味」があるのかもしれません。

仏教の根本的な考え方として「縁起」というものがあります。
この世のあらゆるは時間も超越した相互に関係し合う存在(因果関係)であり、単独で存在しているものはない、という考え方です。

最初に話していた「意味」は、仏教でいうと「縁起」という言葉に置き換えられるかもしれません。

「縁起」とは、今ある自分は、自分だけで存在しているものではなく、周りの人、はたまた過去・未来の人にも(因果)関係があるというのです。
(1つの例としては今の自分があるのは代々のご先祖様がいるからこそですよね。)

私はなぜ生まれたのか
私はなぜここにいるのか

ついつい自分のことばかりに目を向けがちですが、自分という存在は、目には見えない多くの命の関わり合いの中で支えられて生きているのです。
当たり前のことも、実はいろんな関わり合いの中で生まれていると思うと有り難いですよね。
この話を聞いてくださっているのも何かの縁なのでしょう。ありがとうございます。

いろんな巡り合わせ、周りの支えがあってこそ今の自分があるのだと感謝して私も日々過ごしてまいります。


















南無阿弥陀仏とは

2022-12-26 23:41:00 | 日記
初回は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」についてお話しします。
まず、南無阿弥陀仏は"南無"と"阿弥陀仏"とに意味を分けることができます。
南無※は「信じる」という意味で、阿弥陀仏は仏様です。
浄土真宗では、阿弥陀仏が我々を救ってくださるという考えの教えです。
南無阿弥陀仏とは、要するに「私は阿弥陀仏を信じます」とうい意味なんですね。

南無についてもう少し深掘りしたいと思います。
「帰命(きみょう)」とか「帰依(きえ)」という言葉でも表されますが、
帰命・・・命を投げ出して仏の教えに従うこと
帰依・・・優れたものに心身を捧げて信順すること
と出てきます。

いきなりですが、
ちょっと想像してみてください。
あなたの前に大きな太い木があります。
その木に目を瞑ってから後ろに倒れかかってみてください。
もちろんその木は頑丈なので、どしっと身体を支えてくれますね。目を瞑っていても安心して寄りかかれます。
もし木が無ければ地面に倒れて怪我をしてしまいます。
では、その木を人に置き換えてみましょう。
どなたでもいいですが、もう一度目を瞑って後ろに倒れるのをイメージしてみて下さい。

さて、無事に支えてもらえたでしょうか?
あなたは誰を想像しましたか?

ちなみに私は妻が絶対に支えてくれると信じています。しかし、、、例えばケンカしている際中だったらどうでしょう?
日頃の鬱憤を晴らされるのでは、、!?
とか、
あぁ昨日食器洗いやっておけば良かった、、、。
と思うかもしれません。

心の底から信頼して寄りかかれる存在ってなかなかいないですよね。
帰命・帰依は、このように身を委ねて寄りかかるようなものだと思って下さい。
少しイメージが湧いたでしょうか?

今の話で言うと、浄土真宗では阿弥陀様が支えて下さる存在なんですね。
阿弥陀様はお念仏を唱えた者は必ず救うというお誓いを立てられました。
私たちは厳しい修行をして自力で浄土往生することが難しいため、他力(阿弥陀様のお誓い)に頼るしかないのです。(他力本願※)

私たちは修行ができない身というだけではありません。生きていくために、動物などを殺生して命を頂いています。また、普段生活していても、好き・嫌い、あれが欲しい・これが欲しい、という欲(煩悩)がどうしても出てきてしまう存在です。(凡夫※)

そんな私たち凡夫の為に阿弥陀様が救いの手を常に私たちに差し伸べて下さっているのです。
私たちはただそこに身を委ねて寄りかかるだけなのです。

仏様を信じて南無阿弥陀仏と唱えたらば、既に私たちは救われる身となる。
その有り難さにまた自然と手を合わせて南無阿弥陀仏と唱える。
常に私たちには阿弥陀様、お念仏があるのだと感謝の気持ちで日々生きていきたいと思います。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。



[参考リンク]
念仏について

お墓参りで唱えるのは、南無阿弥陀仏?それとも南無妙法蓮華経? | お墓きわめびとの会

お墓参りで唱えるのは、南無阿弥陀仏?それとも南無妙法蓮華経? | お墓きわめびとの会

「念仏」「お題目」と呼ばれる言葉の意味や違いについて解説いたします。間違ったものを唱えてしまうと、故人やお寺に失礼ですし、ご親戚の前で恥をかいてしまう可能性もあ...

お墓きわめびとの会

 


※南無とは
南無(なむ、なも)とは、敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の間投詞「ナモ(नम namo)」を音写した漢訳仏教語であり「那謨」とも音写される。
※仏教用語はこういった音写が多く、漢字自体の意味は関係ないことがあります。

※四十八願について
※第十八願
※他力本願
※凡夫


自己紹介

2022-12-26 23:11:49 | 日記
はじめまして!
Tomohito と申します。

このブログは日記をメインに書きたいと思い始めました。

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