初回は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」についてお話しします。
まず、南無阿弥陀仏は"南無"と"阿弥陀仏"とに意味を分けることができます。
南無※は「信じる」という意味で、阿弥陀仏は仏様です。
浄土真宗では、阿弥陀仏が我々を救ってくださるという考えの教えです。
南無阿弥陀仏とは、要するに「私は阿弥陀仏を信じます」とうい意味なんですね。
南無についてもう少し深掘りしたいと思います。
「帰命(きみょう)」とか「帰依(きえ)」という言葉でも表されますが、
帰命・・・命を投げ出して仏の教えに従うこと
帰依・・・優れたものに心身を捧げて信順すること
と出てきます。
いきなりですが、
ちょっと想像してみてください。
あなたの前に大きな太い木があります。
その木に目を瞑ってから後ろに倒れかかってみてください。
もちろんその木は頑丈なので、どしっと身体を支えてくれますね。目を瞑っていても安心して寄りかかれます。
もし木が無ければ地面に倒れて怪我をしてしまいます。
では、その木を人に置き換えてみましょう。
どなたでもいいですが、もう一度目を瞑って後ろに倒れるのをイメージしてみて下さい。
さて、無事に支えてもらえたでしょうか?
あなたは誰を想像しましたか?
ちなみに私は妻が絶対に支えてくれると信じています。しかし、、、例えばケンカしている際中だったらどうでしょう?
日頃の鬱憤を晴らされるのでは、、!?
とか、
あぁ昨日食器洗いやっておけば良かった、、、。
と思うかもしれません。
心の底から信頼して寄りかかれる存在ってなかなかいないですよね。
帰命・帰依は、このように身を委ねて寄りかかるようなものだと思って下さい。
少しイメージが湧いたでしょうか?
今の話で言うと、浄土真宗では阿弥陀様が支えて下さる存在なんですね。
阿弥陀様はお念仏を唱えた者は必ず救うというお誓いを立てられました。
私たちは厳しい修行をして自力で浄土往生することが難しいため、他力(阿弥陀様のお誓い)に頼るしかないのです。(他力本願※)
私たちは修行ができない身というだけではありません。生きていくために、動物などを殺生して命を頂いています。また、普段生活していても、好き・嫌い、あれが欲しい・これが欲しい、という欲(煩悩)がどうしても出てきてしまう存在です。(凡夫※)
そんな私たち凡夫の為に阿弥陀様が救いの手を常に私たちに差し伸べて下さっているのです。
私たちはただそこに身を委ねて寄りかかるだけなのです。
仏様を信じて南無阿弥陀仏と唱えたらば、既に私たちは救われる身となる。
その有り難さにまた自然と手を合わせて南無阿弥陀仏と唱える。
常に私たちには阿弥陀様、お念仏があるのだと感謝の気持ちで日々生きていきたいと思います。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
[参考リンク]
念仏について
※南無とは
※仏教用語はこういった音写が多く、漢字自体の意味は関係ないことがあります。
※四十八願について
※第十八願
※他力本願
※凡夫
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