私の大好きな番組「水曜どうでしょう」のHPに
『本日の日記』というコーナーがありまして
ディレクター2人どちらかが、ほぼ毎日?書いてくれるのですが
うれしー(嬉野D)が書く文章がすきなんですよね
長いんですけどね…
お暇があれば、読んでみてください
水曜どうでしょう
2008年5月31日(土)
土曜の夜にお邪魔をいたします。
嬉野でございます。
去年の秋。
日記に掲載しようと思って書きながら、
そのままにしてしまっていた書きかけの文章がありました。
秋の栗拾いの話から始まるので、今の季節に合わず、
今年、そのうちまた秋が来たら知らんぷりして載っけてみっかと思っておりましたが、
未だ夏も来ぬ晩春のこの今、秋などという季節は先過ぎてね、
でもあの時書こうとしていたことが、この頃、思っていることと近いので、
今年の秋まで待ちきれず、
やっぱり掲っけることにいたしましたのよ、奥さん。
こんな話です。
「ねぇ奥さん。
この時期、山道を歩いていると道端にたくさん栗が落ちてるでしょう。
あぁ、そうか。
山近いとこに住んでない奥さん方は、
あんまし山道を頻繁に歩く事は確かにないね。
そうね。それはそう。
でも奥さん。秋だしね。山道歩いた気になりなさいよ。
ねぇ。なりました?
なりました。はいはい。
そうするとね、栗が落ちてるでしょ。
落ちてるのよ。山道にはこの時期。
でも、栗のいがいがは尖ってて固いから、
いがいがが刺さると、とっても痛い。
知ってます?
いがいが青いからって、けして柔らかくはないのよ。
不用意に、いがいがつかむと血ぃ出るよ。
栗拾いは、秋の風情。
そうだよね、奥さん。
でも、拾ってきても栗は皮を剥くのが手間なのさ。
栗の皮は固い固い。
とても手でなんか剥けやしない。
皮むいたあとの渋皮だって、ぺらぺらめくれてくれはしないでしょ。
ぼくらは、天津甘栗という気持ちよく皮を剥ける栗を人生で経験してるから、余計に普通の栗が剥きにくいと
「天津甘栗に出来て、どうして普通の栗にできねぇんだ!」と
思ってしまう。
そうに違いない。
だから栗を拾うのは好いけれど、栗を剥くのは、えらい手間。
手間。
そういえば「手間」という言葉があったね。
でも、知らないうちに手間の掛かることをしてくれるのは他人。
ぼくらは、手間をかけずに消費するだけの人ということになってしまった。
でも、手間は、掛けるのがあたり前と思えば、
誰だってやるのにね。
子供が学校から帰ってきたら手伝わせて母子で剥くのにね。
人間は、一緒に居なければならない理由があって初めて、
一緒にいることができるんだよね。
そして面倒なことは簡単には片付かないから、どうしても長い時間一緒にいることになるわけでさ。
栗は面倒な思いをしてむかなければいけないから、
栗の皮がきれいに向けるまで、母子は一緒にいることになるでしょ。したらそのうちきっと話し始めるんだよ。
「おかあさん、今日わたしね、先生に褒められたんだよ」
「あらそう、凄いわねぇ。なんて褒められたの?」
「あのね…」
親子で栗の皮むきしてたら、そのうち楽しくなることもあるのに。
それなのに誰かが面倒な手間を省いてくれるから、
なんでもかんでも便利な時代にしてくれるから、
ぼくらは、手間なことをする経験から、
ずんずん遠く引き離されている。
そうして、誰かと一緒に居られるかもしれない時間をどんどん失っている。
そんな気がする。
それが便利な時代の見失われている一面じゃないのかな。
手間なことを、誰かが代わりにやってくれるから、ぼくらは栗をむいたり、栗おこわを作ったりしていた面倒な時間を他の事に費やせるようになったんだ。
それは、ぼくやあなたの可能性を広げることになるはずだった。
でも、本当にそうなのかなぁ?
ぼくはむしろ逆だったのじゃなかったろうかと、
この頃になって思うのです。
誰かが面倒な手間を肩代わりしてくれて、結局ぼくらの手に残されたものは、その栗おこわが美味いか美味くないか、品評することくらい。消費者と呼ばれるぼくらは、一体、何様になったのだろう。
人と人とのコミュニケーションって、愛情って、どんな時に生まれるのか、そんなことも、ぼくらはもう忘れたのかもしれない。
栗の皮をむくのは手間が掛る。
けどあたり前じゃん、しょうがないもん。
それが常識。
そして、手間が掛るのはあたり前じゃん、でも、しょうがないじゃん、という常識を、
過剰なサービスとか過剰な便利が、ぼくらから奪っていく。
「だってあんた、栗おこわが、こんなに安くて売ってんのよぉ。だったら、自分で皮剥いて栗おこわ作るのバカバカしくなるわよ、ねぇ。それに美味しいしさぁ、ねぇ」
栗おこわの話だけじゃなく、みんなそう。全部そう。
面倒なことはみんな、誰かが代わりにやってくれる。
誰かが代わりにやってくれるから、ぼくらはとても楽ちん。
便利な時代は、面倒な手間をぼくらから奪ってくれた。
でも、奪われていたのは、面倒な手間だけじゃなくてね。
もっと大事な情緒を育む状況と、その状況がが作り出していた大事だった時間までも、奪っていたんじゃなかろうか。
そんなことにこの頃、気がついたような気がしたんです。
違うんでしょうかね、奥さん。
思い過ごしかな。
あぁ、考えすぎか。
だって、最近、身の回りに出来た、トイレに入ったらさ、
暗かったトイレにいきなりに電気がついて、
小が済んだら勝手に流れて、
蛇口に手を伸ばしたら勝手にお湯が出て、
手を離したら勝手にお湯が止まって、
トイレから出たら勝手に電気が消えて暗くなったんだもの。
この方が、節電だし、節水になるって言われてもさ、
いくら言われてもさ、
なんだかとにかく気持ちが悪くって、違和感だらけで、
考えすぎにもなるわけよ奥さん。
ぼくらは何のためにいるのよって、思ってしまうわけなのよ。
と、いうことでね。
夜更けに、いらん話で、すんませんでした。
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水曜どうでしょう 本日の日記より転載