第②項 第二の真理―わたしたちは、イエズスのものマリアのもの
68.イエズス・キリストとわたしたち人間との間には、どんな関係があるのでしょうか。この問題には聖パウロが明確に答えています。(コリント6・19/22・27?)すなわち、わたしたちは絶対に自分じしんのものではなく、まったくイエズス・キリストのものです。わたしたちはキリストのからだ、キリストのドレイです。しかも、キリストが、ご自分の血を全部流し尽くして、悪魔から買いもどしてくださった、無限に高価な存在です。わたしたちは、洗礼を受ける前は、悪魔のものでした。
悪魔のドレイでした。洗礼はわたしたちを、イエズス・キリストのまことのドレイにしてくれたのです。
ひとたびキリストのドレイとなったからにはわたしたちはこの神にして人でもあられるかたのために実を結び、自分のからだをもって、このかたの栄光をあらわし、自分のたましいの中で、このかたに支配させるためにのみ、生き、働き、死なねばなりません。わたしたちは、キリストの戦利品、キリストの所有とされた民、キリストの相続財産だからです。
おなじ理由によって、聖霊はわたしたちのことを、次のようになぞらえています。
① 教会の園の中、恩寵の泉のほとりに植えられた木。しかも季節がくれば実を結ばねばならない木。
② イエズス・キリストをぶどうの木とするその枝。しかも良い実を結ばねばならない枝。
③ イエズス・キリストを牧者とする羊の群れ、しかも数をふやし、乳を出さねばならない羊の群れ。
④ 神を農夫とする良い畑。しかもそこに種をまくと、それが発育成長して、三十倍、六十倍、
百倍の実を結ぶ畑。
イエズス・キリストは、実を結ばないイチジクの木をのろい、もらったタレントをふやさなかった無益なしもべを、地獄におとしておられます。
以上すべてのことからお分かりのように、イエズス・キリストは、ごくつまらないわたしたち人間からさえ、なにがしかの実、つまり良い行いを期待しておいでになるのです。良い行いは、ただキリストだけのものだからです。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエズスにあって造られたのです」。(エペソ2・10)聖霊のこれらのことばは、どんなことを示しているのですか。それは、イエズス・キリストこそ、わたしたちあらゆる良い行いの唯一の源であり、唯一の目的であらねばならないということです。したがって、わたしたちは、サラリーをもらうしもべとしてだけでなく、無料奉仕をする愛のドレイとしても、キリストに仕えねばならない、ということです。以下、それを説明しましょう。
69.この世では、他人のものとなり、他人の権威に従属するために、三種類の様式があります。すなわち、雇用制度とドレイ制度です。雇用制度によって、他人の権威に従属する者を、使用人と呼び、ドレイ制度による者をドレイと呼んでいます。
雇用制度によって人は、ある一定期間、ある一定の賃金、または報酬を受けるという契約のもとに、自分をある特定の人の権威に従属させます。
ドレイ制度によって人は、一生涯、ある特定の人の権威に全面従属します。したがって、いかなる賃金も報酬も要求できず、ひたすら主人に仕えねばなりません。だから、人間とはいうものの、まったく家畜同様で、生かそうと殺そうと、主人の勝手です。
70.ドレイには、三種類があります。すなわち、生まれつきのドレイ(第一種ドレイ)強制されてやむをえずドレイとなった(第二種ドレイ)、自分からすすんでなったドレイ(第三種ドレイ)すべての造られた物は、神の第一種ドレイです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものです。」(詩篇24・1)。
悪魔と、地獄におちた人は、第二種ドレイ。義人とか聖人が、第三種ドレイです。
自分からすすんでなったドレイが、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきします。
神は人の心をごらんになり、人の心を要求されます。だから、“心の神”すなわち、愛にもえさかる人の意志の神と呼ばれているのです。自分からすすんでなったドレイが、なぜ、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきすかというと、かれはそれが本来の義務ではないにもかかわらず、すべてのものにこえて、神と神への奉仕を選ぶからです。
71.使用人とドレイとの間には、ハッキリした区別があります。
①使用人は、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が他人をとおして、または自分で取得できるすべての物を、主人に与えません。しかし、ドレイは、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が取得できるすべての物を、例外なしに、主人に与えます。
②使用人は、自分が主人のためにした仕事のために、報酬を要求できます。しかし、ドレイは、主人のために、どんなに勤勉に、どんなに誠実に、どんなに一生けんめいに働いても、いかなる報酬も要求できません。
③使用人は、自分が希望する時、また雇用期間が切れた時、主人のもとを去ることができます。しかし、ドレイは希望しても、主人のもとを去ることはできません。
④主人は使用人に対して、生殺与奪の権利をもっていません。だから、もし主人が、まるで家畜のように、使用人を殺しでもしたら、主人は殺人罪の犯人として起訴されます。これに反して、主人は国家の法律によって、ドレイに対して、生殺与奪の権利をもっています。だから、主人はかれが望む人に、ドレイを売り飛ばすこともできるし、またはウマでも殺すように、容赦なく殺すこともできます。
⑤最後に、使用人は一定期間、主人に使われますが、ドレイは死ぬまでです。
72.一般社会の通念では、ドレイ制度にもまして、ひとりの人間を、ほかの人間に隷属させるものはありません。キリスト者の社会でも同じことです。自分からすすんで引き受ける、愛のドレイ制度にもまして、わたしたちを、イエズス・キリストおよびその母マリアに隷属させるものはほかにありません。イエズス・キリストご自身が、その良いお手本です。わたしたちを愛すればこそ、“ドレイの姿”(ピリピ2・7)を、おとりになったのです。マリアも、良いお手本です。
マリアは、ご自分のことを、“主のはしため”“主の女ドレイ”(ルカ1・38)と、呼んでおられます。
キリスト者はしばしば、聖書の中では、“キリストのドレイ”と呼ばれています。
現代訳では“キリストのしもべ”となっていますけれども、あるエライ学者の信用すべき翻訳によりますと、“しもべ(SERVUS)ということばは、当時では、“ドレイ”の意味に限定されていたのです。当時はまだ、今日のような雇用制度はなかったのですから、主人が使っていたのは、ただドレイか、または以前にドレイだった人に限られていたのです。「トリエント公会議のカトリック要理」も、わたしたちが、キリストのドレイであるという事実に、一点の疑念も残らないため、あいまいな表現をさけて、わたしたちのことをハッキリ“キリストのドレイ”(mancipia Christi)
と呼んでいます。それはさておき―
73.わたしたちは、イエズス・キリストに隷属し、イエズス・キリストにこそ仕えねばなりません―それも、サラリーをもらう使用人としてではなく、愛のドレイとして。つまり、キリストへの熱烈な愛にかられて、自分をドレイの資格でキリストに与え、キリストの手に渡さねばなりません。しかも、自分はキリストのものだ、という唯一のプライドをもって、そうせねばなりません。
洗礼を受けるまでは、わたしは悪魔のドレイでした。洗礼はめでたくわたしたちを、キリストのドレイにしてくれたのです。キリスト者は悪魔のドレイか、それともイエズス・キリストのドレイか、そのどちらかでなければなりません。
74.わたしが今さき、絶対的な表現を使って、イエズス・キリストについて述べたことは、マリアにかんしても、相対的に言えるのです。イエズス・キリストは、ご自分の生涯・ご死去・ご栄光・天国における権能・また地上における権威とそれぞれ離れることのできない伴侶として、マリアを選ばれました。だから、ご自分が本性上、もっておいてになるすべての権利、すべての特権を、恩寵によって、ご自分の稜威(みいず)が許すかぎり、マリアにもお与えになったのです。聖人たちが言っていますように、すべて神が本性上、もっておいでになるものは、マリアも、恩寵によって、もつことができるのです。
そんなわけで、イエズスもマリアもタッタ一つの同じ意思、同じ権能しかもたないのですから、おふたりは当然おなじケライ、おなじ使用人、おなじドレイしかもたないことになるのです。
栄光の聖母
75.だから、聖人たちや、その他エライ人たちの意見どおり、わたしたちは自分自身を、マリアの愛のドレイだと宣言し、それを行動にうつすことができるのです。マリアのドレイとなることによって、いっそう完全に、キリストのドレイとなるためです。
キリストは、マリアを手段に使って、わたしたちのところにおいでになりました。だから、わたしたちも当然、マリアを手段に使って、キリストのもとに行かねばならないのです。この世の被造物の中には、それに愛着すれば、わたしたちを神に近づけるよりも、むしろ神から遠ざけるものがあります。しかし、マリアはけっして、そんなかたではありません。かえって、マリアのもっとも強いお望みは、ご自分の子であるイエズス・キリストに、わたしたちを一致させることです。御子イエズスのもっとも強いお望みは、わたしたちが、御母マリアをとおして、ご自分のもとに来ることです。それが、ご自分にとっては、ほまれであり、歓びだからです。王のもっと完全なケライ、もっと忠実なドレイになるため、まず王妃のドレイになることは、どれほど王にとって誉れと歓びなのでしょう。だから、教父たちは、また聖ボナヴェントラもかれらのあとをうけて、マリアこそイエズス・キリストにいたる道だと言っているのです。
76.そればかりではありません。先に言ったとおり、マリアは天地の女王なのですから、また聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラも言っているように、「マリアも含めてすべての被造物は、神の支配に服し、神も含めてすべての被造物は、マリアの支配下にある」のだから、マリアは当然、被造物と同じ数のケライとドレイをもっているはずではないでしょうか。仕方なくドレイになった者がずいぶん多いのだから、その中には、自発的にマリアを自分の女王に選び、そのドレイ、しかも愛のドレイとなる者がいることは当然ではないでしょうか。
聖ボナベントラ
自分からすすんで、人間のドレイとなり、悪魔のドレイとなる者が多い世の中に、マリアのドレイとなる者はひとりもいないというのは、いかにも理不尽ではないでしょうか。王さまは自分の王妃が、その上に生殺与奪の権をもつドレイをもっていることは、自身の栄光だからです。すべての人の子らの中で、最も優秀な子であるイエズス・キリストは、ご自分の権能を、御母マリアにも分け与えたのに、その御母マリアが愛のドレイをもつことに腹をお立てになるのでしょうか。
イエズスが、その御母マリアに対してもっておられる尊敬と愛は、旧約時代のアッスェルス王がその王妃エステルに対し、またソロモン王がその王妃ベッサベに対して、それぞれもっていた尊敬と愛にくらべて、劣っているとでもいうのでしょうか。そんなことをだれが言えるのでしょう。だれがそんなことを考えることすらできるのでしょう。
77.これ以上、わたしに何が言えるというのですか。これほどハッキリした自明の理を、証明する必要があるのでしょうか。自分はマリアのドレイだ、と言いたくない人は、言わなくてもよろしい。自分がイエズス・キリストのドレイであれば、またそう言明していれば、それでいいのです。あなたはりっぱに、マリアのドレイとなっているのです。
イエズスはマリアのご胎の実であり、マリアの光栄だからです。わたしがこれから述べる信心を実行すれば、あなたは完全にキリストのドレイとなることができます。
78.わたしたちの行いは、たとえ最良のものではあっても、わたしたちの内奥にあるわるいモノによって、シミがつき、品質がさがります。清くすきとおった水でも、それをわるいにおいがしている容器に入れてごらんなさい。また良いぶどう酒でも、すっぱくなったぶどう酒がそこに残っているビンの中に入れてごらんなさい。たちまち、清い水も良いぶどう酒も、台なしになって、そのうえ容器のわるいにおいまでが、しみついてしまいます。同様に、原罪と自罪によって汚染された、わたしたちの霊魂の容器の中に、神がどれほどすばらしい恩寵や天の甘露、またはご自分の愛のおいしいぶどう酒をお入れになってもせっかくの賜物が、普通ですと、わたしたちのうちにかくれひそんでいる罪の残りカスであるわるい酵素や、わるい土壌のために汚染されているのです。わたしたちの行いは、たとえそれが、崇高な善徳であっても、心奥に沈潜している罪の公害にさらされているのです。だから、イエズスとの一致によってのみ、獲得できる完徳に達するためには、自分の心奥に沈潜しているわるいモノから自身を浄化することが、最大の重要性をおびてくるのです。さもなければ、無限に清らかなイエズス、霊魂の中のごく小さいシミまでも無限におきらいになるイエズスは、わたしたちをみ前から遠ざけ、絶対にわたしたちと一致してはくださらないでしょう。
79.心奥(心の奥底)のわるいモノから、自身を浄化するためのプログラム
①何はさておき、聖霊の光のもとに、わたしたちの心奥にひそんでいるわるい酵素、わるい土壌の正体を見きわめることです。わたしたちは、救霊に必要な善は何ひとつできません。あらゆる面で弱い。いつも変わりやすい。神から恩寵を受ける資格は全然ない。どこでもわるいことばかりしている。原罪という名の人祖の罰が、その子孫であるわたしたちすべてを、霊肉ともほとんど全面的に、汚染してしまったのです。ちょうど、くさったパン種が、ねり粉全体を腐らせるように。
そのうえ、わたしたち各自がおかした自罪が、一役も二役も買って出ます。それが大罪だろうが、小罪だろうが、また、たとえゆるされるものではあっても、自罪はわたしたちの邪欲、弱さ、変わりやすさ、道徳的退敗を増強し、霊魂の奥深にわるいカスを残します。わたしたちの身体は、聖霊が“罪のからだ”(ローマ6・6)とお呼びになっている、罪の公害で汚染しているのです。わたしたちのからだは、罪のうちに受胎され、罪のうちにはぐくまれたのです。だから、どんな罪でもおかすことができます。種々さまざまな病気におかされるべき宿命をせおい、日いちにちと死の腐敗が近づいていき、死んだらウジ虫にくわれ、くさり、チリに還元します。
こんなはかない身体に合わされた、わたしたちの霊魂ですが、それは聖書に“肉”と呼ばれているほど、肉の支配下にあるのです。「すべての肉が、地の上で、その道をみだした」(創世記6・12)。わたしたちの分け前としてはただ、精神の高慢と盲目、心のかたくなさ、たましいの弱さと変わりやすさ、よこしまな欲望、霊に反抗する欲情、からだの病気だけです。
わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。
80.だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)
永遠の知恵であるイエズス・キリストが、理由もなしに、そんなことをお命じになるはずはありません。わたしたちが大いに、みにあたいする者だからこそ、自分自身を憎め、とお命じになるのです。愛する値打ちのあるものはタダ神だけです。憎んでも憎み足りない者は、自分自身よりほかに、だれもいません。
81.②次に、自分自身を浄化するためには、わたしたちは毎日、自分自身に死なねばなりません。別のことばで申せば、神の恩寵からではなく、わたしたち自身のエゴから出る霊肉の活動を封じなければなりません。見ても見えず、聞いても聞こえず、この世の事物を用いても、用いないかのよう。つまり、聖パウロが言っているとおり、「わたしたちは毎日、死ななければなりません」(コリント1・15・31)
「一粒の麦がもし、地に落ちて死ななければ、それはいつまでたっても一つのままです」(ヨハネ12・24)。
もしわたしたちが、自分自身に死ななければ、わたしたちのどんなりっぱな信心でも、もしそれが自分自身への死につながらなければ、天国のためにはいかなる実も結ぶことができません。せっかくの信心も、骨折り損のクタビレもうけとなるだけ。どんなりっぱな善業を行っても、それはわたしたちの自愛心と我意に汚染されてしまうのです。この自愛心と我意こそ、わたしたちが行うことのできるどんなに偉大な犠牲行為、どんなに偉大な事業でも、それを神のみまえに憎むべきものとなすのです。そうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしたちは一かけらの善徳もクドクもなく、また純粋愛の一閃もなく、まったく素寒貧で、神のみまえに出なければならないのです。この純粋愛ですが、それは「完全に自分自身に死んでいる人、しかもそのいのちがキリストとともに、神のうちにかくされてある人」(コロサイ3・3)にしか与えられません。
82.さいごに、あらゆる種類の聖母信心のうち、いちばんりっぱで、いちばんわたしたちを聖化するものは、わたしたちを自分自身に死なせるために、いちばん都合よくできた信心なのです。こうした聖母信心を選ばねばなりません。光りかがやいているものがみな、黄金だと考えてはいけません。甘いものがみな、ハチミツとはきまっていません。いちばん多くの人が実行しやすいから、それがいちばん霊魂の聖化の信心だと思ってはなりません。
わずかな時間、わずかなカネで、やすやすと生産性の効率を高める秘けつが人間世界にあるように、恩寵の世界でも、わずかな時間で、ニコニコしながら、やすやすと、超自然的仕事をやってのける秘訣がちゃんとあるのです。その秘訣というのは、自分自身を空にすることです。自分自身に死ぬことです。こうして神に満たされ、完徳に達するのです。
わたしが、これから公開しようとしている恩寵の秘けつは、まだ大部分のキリスト信者にとって親展極秘です。少数の信心家が、ちょっぴり知っているようです。それを実行して、そのダイゴ味に舌つづみを打っているのは、ごくわずかなベテラン信心家だけです。この新しい信心法を公開する前に、先に述べた第三の真理の続きともいうべき、第四の真理に移りましょう。
第④項 第四の真理―仲介者イエズス・キリストのそばには、もう一人の仲介者が必要
83.わが身のいやしさを反省して、仲介者なしには神に近づかない―これは、わたしたちにとって、謙遜なやりかたです。だから神のみまえでも、いっそう完全なやりかたです。先に述べたとおり、わたしたちの霊魂の精ずいは、たいへん腐敗していますので、神にいたるため、もしわたしたちが、自分自身の働き、努力、準備にだけたよるなら、どんなに良い行いをしても、それはみんな罪の公害に汚染されているのです。そうした中で、どんなに良いことをしても、神のみまえではたいしたねうちもなく、したがって神との一致もできねば、神から祈りを聞きいれていただくこともできません。
神は、そんなわけで、わたしたちのことを思えばこそ、前もって、ご自分のそばに、仲介者を置いてくださるのです。神は、わたしたちの無資格と無能をごぞんじです。神は、そうしたわたしたちを、あわれんでくださいます。だからこそ、わたしたちが、ご自分のあわれみの座に近づくことができるようにと、ご自分のそばに、有力な仲介者を指名してくださるのです。当然の結果として、もしわたしたちが、これらの紹介者を無視して、だれの紹介状もなく、じかに神と接触するなら、それは思い上がりです。謙遜さが足りない証拠です。かくも偉大、かくも聖なる神への尊敬の欠如です。それは、王たちの王である神を、この世のちっぽけな王さまよりも、低く見ることです。どんなちっぽけな王さまでも、側近の紹介なしには、だれとも会わないからです。
84.わたしたちの主イエズス・キリストは、父なる神のみまえにおける、わたしたちの弁護者・仲介者です。キリストによってこそ、わたしたちは、天上・地上の全教会とともに祈らねばならないのです。キリストによってこそ、わたしたちは稜威あまねき神に近づくことができるのです。キリストのあがないのクドクに支えられ、キリストのあがないのクドクを着ないでは、絶対に父なる神のみまえに出てはならないわたしたちののです―あたかもその昔、若きヤコブが父の祝福を受けるために、子ヤギの毛皮を首と両手に着けて、父イザアクの前に出たように。
85.だが、しかし、仲介者イエズス・キリストに取り次いで頂くため、もう一人の仲介者が、わたしたちには必要ではないのでしょうか。わたしたち人間には、キリストにじかに一致できるほど、またそれが自力でできるほど純粋なのでしょうか。キリストは、万事において御父と同等な、神ご自身ではないのですか。したがって、聖の聖なる者、御父と同じ尊敬にあたいするかたではないのですか。
キリストは、わたしたちを限り無く愛すればこそ、神なる御父のみまえに、わたしたちの保証人となり、仲介者となってくださいました。御父のお怒りをやわらげ、わたしたちが御父に支払うべき負債を返してくださるためです。だからといって、キリストの無限の稜威(みいず)、無限の聖性に対して、尊敬と畏敬の念をミニ化してもいいのでしょうか。
とんでもない。聖ベルナルドにご登場ねがいましょう。かれらはこう言っています。
ーわたしたちにはどうしても、仲介者イエズス・キリストに取り次いでもらうために、もう一人の仲介者が必要です。そしてマリアこそ、この仲介者です。マリアこそ、この愛の役務を果すのに最適任者です。マリアをとおってこそ、イエズス・キリストは、わたしたちのほうにやって来られたのです。だから、わたしたちはマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストのもとに行かねばなりません。
神であるイエズス・キリストの無限の偉大さのために、またはわたしたちの卑しさ惨めさ罪深さのために、直接かれのもとに行くのが恐いのなら、勇気をふりしぼって、わたしたちの母なるマリアの助けと取り次ぎをねがいましょう。マリアは、よいかたです。マリアは、優しいかたです。マリアは近づき難いかたではなく、たのまれたことをすげなくことわるかたでもありません。お高くとまってもいず、まぶしくて顔もあげられないかたでもありません。マリアは、わたしたち人間とちっともちがわないかたです。
マリアは、太陽ではありません、その先があまり強すぎて、わたしたちの弱い眼を眩惑させる太陽ではありません。マリアは、月です。美しくやわらかい光を、おだやかに地上にそそぐ月です。マリアはキリストという名の太陽から強烈な光を受けてそれをご自分において、わたしたちの弱い眼にかなうように調整してくださる月です。マリアはたいへん、いつくしみ深いかたです。
ご自分に取り次ぎをねがう人を、だれひとり拒みません―どんなに大きな罪びとでも。聖人たちが言っているように、マリアのご保護によりすがり、辛抱強く祈った者が捨てられたことは、昔から今にいたるまでいちども聞いたことはありません。
マリアは、神のみまえに、たいへんな勢力をもっておられます。神におねがいしてことわられたことは、タダの一度もありません。御子イエズスのみまえに出るだけで、それがすなわち祈りにつながるのです。だからイエズスは、すぐにマリアのねがいにこたえ、すぐにマリアのたのみを聞いてくださるのです。御子イエズスは、ご自分がかって吸った御母マリアの乳房、ご自分がかって宿ったマリアのご胎をひと目みるだけで、いつもマリアのねがいにわざと負けてくださるのです。
86.右に言ったことはみな、聖ベルナルドと聖ボナベントラの本から取ったものです。この二人の聖人によると、わたしたちは神に達するには、三つの段階を、つぎつぎにのぼらねばなりません。
第一の段階は、わたしたちにいちばん近く、わたしたちの登はん能力にいちばん適しているもの、それは、
マリアです。
第二の段階は、イエズス・キリスト。
第三の段階が、神である御父です。
イエズスに達するには、マリアをとおらねばなりません。マリアこそ、わたしたちのことを、イエズスに取り次いでくださる仲介者です。永遠の御父に達するにはイエズスをとおらねばなりません。イエズスこそ、あがないにおけるわたしたちの仲介者です。ところで、わたしがこれから公開しようとしている信心は、この秩序を正確にふまえたものです。
第⑤項の真理―神の賜物を安全にしまっておくことはたいへんむずかしい
87.わたしたちは弱く、もろいものですから、神からいただいた恩寵や宝を、自分のうちに安全にしまっておくことは、たいへんむずかしいのです。そのわけは、こうです。 ①天地にまさる「この宝を、わたしたちは土の器の中に入れているのです。」(Ⅱコリント4・7)すなわち、腐敗すべきからだの中に、弱く不安定な、変転きわまりない霊魂の中に入れているのです。
88.②悪魔が、ウデききのスリのように、不意にわたしたちを襲って、この宝をかっぱらおうとたくらんでいます。悪魔は、夜となく昼となく、チャンスをねらっています。悪魔はまた、「ほえたけるライオンのように、わたしたちを食いつくそうと、歩きまわっています。」(Ⅰペテロ5・8)好機到来。タッタ一つの罪で、アッというまに、悪魔はわたしたちの宝を、わたしたちが何年何十年もかかってたくわえた恩寵とクドクの宝を、みごとにかっぱらってしまうのです。
悪魔(蛇)を踏みつける聖母像
なんという不幸なのでしょう。悪魔のずるがしこさ、その長年の経験、そのたくみな手腕、そのウンカのような頭数―それを考えれば、どうしてこの不幸を恐れないでいられましょうか。いわんや、わたしたちよりも、もっと恩寵においてもっと卓絶していた人びとが、不幸にも悪魔の強盗に襲われて、何もかもはぎとられてしまったのです。ああ、どれほど多くのレバノンの大杉が、どれほど多くの大空の巨星が、一瞬のうちに、地にたおれ、地において、その見上げるほどの聖性の高さと、かがやきを失ったことでしょう。
このサンタンたる不幸は、どこから来たのでしょうか。神の恩寵が足りなかったのでしょうか。いいえ。神の恩寵はだれにも不足していません。この不幸は、かれらの謙遜さの不足から生じたのです。かれらは自分の力を過信したのです。自分の宝は自力でまもれる、と信じ込んでいたのです。あまりにも自分自身にたよっていたのです。自信過剰だったのです。自分の家は十分戸じまりがしてあるから、自分の金庫にはちゃんとカギがかけてあるから、神からいただいた恩寵の貴重品は大丈夫だ、と安心しきっていたのです。意識の深層にひそかにかくれひそんでいたこの自己満足、このウヌボレのためにこそ、神は罰として、かれらを自身の力だけに打ちまかせ、こうしてかれらが盗難に会うことをおゆるしになったのです。ああ、もしかれらが、わたしがこれから公開しようとしている信心を知っていたら、きっと自分の宝を、力づよく正直なマリアさまに、あずけたでしょうに。マリアさまはあずかった宝はご自分の宝のように保管されたはずです。―しかも、そうすることが、ご自分の重い義務でもあるかのように。
89.③世の中が道義的にたいへん腐敗していますので、教えをまもりとおすことが困難になってまいりました。このごろ、社会のモラルが地におちましたので、信心家でさえまるで必然の運命でもあるかのように、心がドロにではないが少なくともチリにまみれています。こうした中で、激流におしながされず、あらしの吹きすさぶ大海にも難破せず、また海賊の難にも会わず、風俗びん乱の公害にもめげず、毅然として信仰をまもりとおすことは、なんといっても奇跡です。
だれが、この奇跡を行ってくださるのでしょうか、まだ一度もヘビにかまれたことのない“忠実なおとめ”
マリアこそ。マリアは、ご自分を優しく愛する人々に対して、こうした奇跡を行ってくださるのです。
(第五巻につづく)
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68.イエズス・キリストとわたしたち人間との間には、どんな関係があるのでしょうか。この問題には聖パウロが明確に答えています。(コリント6・19/22・27?)すなわち、わたしたちは絶対に自分じしんのものではなく、まったくイエズス・キリストのものです。わたしたちはキリストのからだ、キリストのドレイです。しかも、キリストが、ご自分の血を全部流し尽くして、悪魔から買いもどしてくださった、無限に高価な存在です。わたしたちは、洗礼を受ける前は、悪魔のものでした。
悪魔のドレイでした。洗礼はわたしたちを、イエズス・キリストのまことのドレイにしてくれたのです。
ひとたびキリストのドレイとなったからにはわたしたちはこの神にして人でもあられるかたのために実を結び、自分のからだをもって、このかたの栄光をあらわし、自分のたましいの中で、このかたに支配させるためにのみ、生き、働き、死なねばなりません。わたしたちは、キリストの戦利品、キリストの所有とされた民、キリストの相続財産だからです。
おなじ理由によって、聖霊はわたしたちのことを、次のようになぞらえています。
① 教会の園の中、恩寵の泉のほとりに植えられた木。しかも季節がくれば実を結ばねばならない木。
② イエズス・キリストをぶどうの木とするその枝。しかも良い実を結ばねばならない枝。
③ イエズス・キリストを牧者とする羊の群れ、しかも数をふやし、乳を出さねばならない羊の群れ。
④ 神を農夫とする良い畑。しかもそこに種をまくと、それが発育成長して、三十倍、六十倍、
百倍の実を結ぶ畑。
イエズス・キリストは、実を結ばないイチジクの木をのろい、もらったタレントをふやさなかった無益なしもべを、地獄におとしておられます。
以上すべてのことからお分かりのように、イエズス・キリストは、ごくつまらないわたしたち人間からさえ、なにがしかの実、つまり良い行いを期待しておいでになるのです。良い行いは、ただキリストだけのものだからです。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエズスにあって造られたのです」。(エペソ2・10)聖霊のこれらのことばは、どんなことを示しているのですか。それは、イエズス・キリストこそ、わたしたちあらゆる良い行いの唯一の源であり、唯一の目的であらねばならないということです。したがって、わたしたちは、サラリーをもらうしもべとしてだけでなく、無料奉仕をする愛のドレイとしても、キリストに仕えねばならない、ということです。以下、それを説明しましょう。
69.この世では、他人のものとなり、他人の権威に従属するために、三種類の様式があります。すなわち、雇用制度とドレイ制度です。雇用制度によって、他人の権威に従属する者を、使用人と呼び、ドレイ制度による者をドレイと呼んでいます。
雇用制度によって人は、ある一定期間、ある一定の賃金、または報酬を受けるという契約のもとに、自分をある特定の人の権威に従属させます。
ドレイ制度によって人は、一生涯、ある特定の人の権威に全面従属します。したがって、いかなる賃金も報酬も要求できず、ひたすら主人に仕えねばなりません。だから、人間とはいうものの、まったく家畜同様で、生かそうと殺そうと、主人の勝手です。
70.ドレイには、三種類があります。すなわち、生まれつきのドレイ(第一種ドレイ)強制されてやむをえずドレイとなった(第二種ドレイ)、自分からすすんでなったドレイ(第三種ドレイ)すべての造られた物は、神の第一種ドレイです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものです。」(詩篇24・1)。
悪魔と、地獄におちた人は、第二種ドレイ。義人とか聖人が、第三種ドレイです。
自分からすすんでなったドレイが、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきします。
神は人の心をごらんになり、人の心を要求されます。だから、“心の神”すなわち、愛にもえさかる人の意志の神と呼ばれているのです。自分からすすんでなったドレイが、なぜ、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきすかというと、かれはそれが本来の義務ではないにもかかわらず、すべてのものにこえて、神と神への奉仕を選ぶからです。
71.使用人とドレイとの間には、ハッキリした区別があります。
①使用人は、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が他人をとおして、または自分で取得できるすべての物を、主人に与えません。しかし、ドレイは、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が取得できるすべての物を、例外なしに、主人に与えます。
②使用人は、自分が主人のためにした仕事のために、報酬を要求できます。しかし、ドレイは、主人のために、どんなに勤勉に、どんなに誠実に、どんなに一生けんめいに働いても、いかなる報酬も要求できません。
③使用人は、自分が希望する時、また雇用期間が切れた時、主人のもとを去ることができます。しかし、ドレイは希望しても、主人のもとを去ることはできません。
④主人は使用人に対して、生殺与奪の権利をもっていません。だから、もし主人が、まるで家畜のように、使用人を殺しでもしたら、主人は殺人罪の犯人として起訴されます。これに反して、主人は国家の法律によって、ドレイに対して、生殺与奪の権利をもっています。だから、主人はかれが望む人に、ドレイを売り飛ばすこともできるし、またはウマでも殺すように、容赦なく殺すこともできます。
⑤最後に、使用人は一定期間、主人に使われますが、ドレイは死ぬまでです。
72.一般社会の通念では、ドレイ制度にもまして、ひとりの人間を、ほかの人間に隷属させるものはありません。キリスト者の社会でも同じことです。自分からすすんで引き受ける、愛のドレイ制度にもまして、わたしたちを、イエズス・キリストおよびその母マリアに隷属させるものはほかにありません。イエズス・キリストご自身が、その良いお手本です。わたしたちを愛すればこそ、“ドレイの姿”(ピリピ2・7)を、おとりになったのです。マリアも、良いお手本です。
マリアは、ご自分のことを、“主のはしため”“主の女ドレイ”(ルカ1・38)と、呼んでおられます。
キリスト者はしばしば、聖書の中では、“キリストのドレイ”と呼ばれています。
現代訳では“キリストのしもべ”となっていますけれども、あるエライ学者の信用すべき翻訳によりますと、“しもべ(SERVUS)ということばは、当時では、“ドレイ”の意味に限定されていたのです。当時はまだ、今日のような雇用制度はなかったのですから、主人が使っていたのは、ただドレイか、または以前にドレイだった人に限られていたのです。「トリエント公会議のカトリック要理」も、わたしたちが、キリストのドレイであるという事実に、一点の疑念も残らないため、あいまいな表現をさけて、わたしたちのことをハッキリ“キリストのドレイ”(mancipia Christi)
と呼んでいます。それはさておき―
73.わたしたちは、イエズス・キリストに隷属し、イエズス・キリストにこそ仕えねばなりません―それも、サラリーをもらう使用人としてではなく、愛のドレイとして。つまり、キリストへの熱烈な愛にかられて、自分をドレイの資格でキリストに与え、キリストの手に渡さねばなりません。しかも、自分はキリストのものだ、という唯一のプライドをもって、そうせねばなりません。
洗礼を受けるまでは、わたしは悪魔のドレイでした。洗礼はめでたくわたしたちを、キリストのドレイにしてくれたのです。キリスト者は悪魔のドレイか、それともイエズス・キリストのドレイか、そのどちらかでなければなりません。
74.わたしが今さき、絶対的な表現を使って、イエズス・キリストについて述べたことは、マリアにかんしても、相対的に言えるのです。イエズス・キリストは、ご自分の生涯・ご死去・ご栄光・天国における権能・また地上における権威とそれぞれ離れることのできない伴侶として、マリアを選ばれました。だから、ご自分が本性上、もっておいてになるすべての権利、すべての特権を、恩寵によって、ご自分の稜威(みいず)が許すかぎり、マリアにもお与えになったのです。聖人たちが言っていますように、すべて神が本性上、もっておいでになるものは、マリアも、恩寵によって、もつことができるのです。
そんなわけで、イエズスもマリアもタッタ一つの同じ意思、同じ権能しかもたないのですから、おふたりは当然おなじケライ、おなじ使用人、おなじドレイしかもたないことになるのです。
栄光の聖母
75.だから、聖人たちや、その他エライ人たちの意見どおり、わたしたちは自分自身を、マリアの愛のドレイだと宣言し、それを行動にうつすことができるのです。マリアのドレイとなることによって、いっそう完全に、キリストのドレイとなるためです。
キリストは、マリアを手段に使って、わたしたちのところにおいでになりました。だから、わたしたちも当然、マリアを手段に使って、キリストのもとに行かねばならないのです。この世の被造物の中には、それに愛着すれば、わたしたちを神に近づけるよりも、むしろ神から遠ざけるものがあります。しかし、マリアはけっして、そんなかたではありません。かえって、マリアのもっとも強いお望みは、ご自分の子であるイエズス・キリストに、わたしたちを一致させることです。御子イエズスのもっとも強いお望みは、わたしたちが、御母マリアをとおして、ご自分のもとに来ることです。それが、ご自分にとっては、ほまれであり、歓びだからです。王のもっと完全なケライ、もっと忠実なドレイになるため、まず王妃のドレイになることは、どれほど王にとって誉れと歓びなのでしょう。だから、教父たちは、また聖ボナヴェントラもかれらのあとをうけて、マリアこそイエズス・キリストにいたる道だと言っているのです。
76.そればかりではありません。先に言ったとおり、マリアは天地の女王なのですから、また聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラも言っているように、「マリアも含めてすべての被造物は、神の支配に服し、神も含めてすべての被造物は、マリアの支配下にある」のだから、マリアは当然、被造物と同じ数のケライとドレイをもっているはずではないでしょうか。仕方なくドレイになった者がずいぶん多いのだから、その中には、自発的にマリアを自分の女王に選び、そのドレイ、しかも愛のドレイとなる者がいることは当然ではないでしょうか。
聖ボナベントラ
自分からすすんで、人間のドレイとなり、悪魔のドレイとなる者が多い世の中に、マリアのドレイとなる者はひとりもいないというのは、いかにも理不尽ではないでしょうか。王さまは自分の王妃が、その上に生殺与奪の権をもつドレイをもっていることは、自身の栄光だからです。すべての人の子らの中で、最も優秀な子であるイエズス・キリストは、ご自分の権能を、御母マリアにも分け与えたのに、その御母マリアが愛のドレイをもつことに腹をお立てになるのでしょうか。
イエズスが、その御母マリアに対してもっておられる尊敬と愛は、旧約時代のアッスェルス王がその王妃エステルに対し、またソロモン王がその王妃ベッサベに対して、それぞれもっていた尊敬と愛にくらべて、劣っているとでもいうのでしょうか。そんなことをだれが言えるのでしょう。だれがそんなことを考えることすらできるのでしょう。
77.これ以上、わたしに何が言えるというのですか。これほどハッキリした自明の理を、証明する必要があるのでしょうか。自分はマリアのドレイだ、と言いたくない人は、言わなくてもよろしい。自分がイエズス・キリストのドレイであれば、またそう言明していれば、それでいいのです。あなたはりっぱに、マリアのドレイとなっているのです。
イエズスはマリアのご胎の実であり、マリアの光栄だからです。わたしがこれから述べる信心を実行すれば、あなたは完全にキリストのドレイとなることができます。
78.わたしたちの行いは、たとえ最良のものではあっても、わたしたちの内奥にあるわるいモノによって、シミがつき、品質がさがります。清くすきとおった水でも、それをわるいにおいがしている容器に入れてごらんなさい。また良いぶどう酒でも、すっぱくなったぶどう酒がそこに残っているビンの中に入れてごらんなさい。たちまち、清い水も良いぶどう酒も、台なしになって、そのうえ容器のわるいにおいまでが、しみついてしまいます。同様に、原罪と自罪によって汚染された、わたしたちの霊魂の容器の中に、神がどれほどすばらしい恩寵や天の甘露、またはご自分の愛のおいしいぶどう酒をお入れになってもせっかくの賜物が、普通ですと、わたしたちのうちにかくれひそんでいる罪の残りカスであるわるい酵素や、わるい土壌のために汚染されているのです。わたしたちの行いは、たとえそれが、崇高な善徳であっても、心奥に沈潜している罪の公害にさらされているのです。だから、イエズスとの一致によってのみ、獲得できる完徳に達するためには、自分の心奥に沈潜しているわるいモノから自身を浄化することが、最大の重要性をおびてくるのです。さもなければ、無限に清らかなイエズス、霊魂の中のごく小さいシミまでも無限におきらいになるイエズスは、わたしたちをみ前から遠ざけ、絶対にわたしたちと一致してはくださらないでしょう。
79.心奥(心の奥底)のわるいモノから、自身を浄化するためのプログラム
①何はさておき、聖霊の光のもとに、わたしたちの心奥にひそんでいるわるい酵素、わるい土壌の正体を見きわめることです。わたしたちは、救霊に必要な善は何ひとつできません。あらゆる面で弱い。いつも変わりやすい。神から恩寵を受ける資格は全然ない。どこでもわるいことばかりしている。原罪という名の人祖の罰が、その子孫であるわたしたちすべてを、霊肉ともほとんど全面的に、汚染してしまったのです。ちょうど、くさったパン種が、ねり粉全体を腐らせるように。
そのうえ、わたしたち各自がおかした自罪が、一役も二役も買って出ます。それが大罪だろうが、小罪だろうが、また、たとえゆるされるものではあっても、自罪はわたしたちの邪欲、弱さ、変わりやすさ、道徳的退敗を増強し、霊魂の奥深にわるいカスを残します。わたしたちの身体は、聖霊が“罪のからだ”(ローマ6・6)とお呼びになっている、罪の公害で汚染しているのです。わたしたちのからだは、罪のうちに受胎され、罪のうちにはぐくまれたのです。だから、どんな罪でもおかすことができます。種々さまざまな病気におかされるべき宿命をせおい、日いちにちと死の腐敗が近づいていき、死んだらウジ虫にくわれ、くさり、チリに還元します。
こんなはかない身体に合わされた、わたしたちの霊魂ですが、それは聖書に“肉”と呼ばれているほど、肉の支配下にあるのです。「すべての肉が、地の上で、その道をみだした」(創世記6・12)。わたしたちの分け前としてはただ、精神の高慢と盲目、心のかたくなさ、たましいの弱さと変わりやすさ、よこしまな欲望、霊に反抗する欲情、からだの病気だけです。
わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。
80.だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)
永遠の知恵であるイエズス・キリストが、理由もなしに、そんなことをお命じになるはずはありません。わたしたちが大いに、みにあたいする者だからこそ、自分自身を憎め、とお命じになるのです。愛する値打ちのあるものはタダ神だけです。憎んでも憎み足りない者は、自分自身よりほかに、だれもいません。
81.②次に、自分自身を浄化するためには、わたしたちは毎日、自分自身に死なねばなりません。別のことばで申せば、神の恩寵からではなく、わたしたち自身のエゴから出る霊肉の活動を封じなければなりません。見ても見えず、聞いても聞こえず、この世の事物を用いても、用いないかのよう。つまり、聖パウロが言っているとおり、「わたしたちは毎日、死ななければなりません」(コリント1・15・31)
「一粒の麦がもし、地に落ちて死ななければ、それはいつまでたっても一つのままです」(ヨハネ12・24)。
もしわたしたちが、自分自身に死ななければ、わたしたちのどんなりっぱな信心でも、もしそれが自分自身への死につながらなければ、天国のためにはいかなる実も結ぶことができません。せっかくの信心も、骨折り損のクタビレもうけとなるだけ。どんなりっぱな善業を行っても、それはわたしたちの自愛心と我意に汚染されてしまうのです。この自愛心と我意こそ、わたしたちが行うことのできるどんなに偉大な犠牲行為、どんなに偉大な事業でも、それを神のみまえに憎むべきものとなすのです。そうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしたちは一かけらの善徳もクドクもなく、また純粋愛の一閃もなく、まったく素寒貧で、神のみまえに出なければならないのです。この純粋愛ですが、それは「完全に自分自身に死んでいる人、しかもそのいのちがキリストとともに、神のうちにかくされてある人」(コロサイ3・3)にしか与えられません。
82.さいごに、あらゆる種類の聖母信心のうち、いちばんりっぱで、いちばんわたしたちを聖化するものは、わたしたちを自分自身に死なせるために、いちばん都合よくできた信心なのです。こうした聖母信心を選ばねばなりません。光りかがやいているものがみな、黄金だと考えてはいけません。甘いものがみな、ハチミツとはきまっていません。いちばん多くの人が実行しやすいから、それがいちばん霊魂の聖化の信心だと思ってはなりません。
わずかな時間、わずかなカネで、やすやすと生産性の効率を高める秘けつが人間世界にあるように、恩寵の世界でも、わずかな時間で、ニコニコしながら、やすやすと、超自然的仕事をやってのける秘訣がちゃんとあるのです。その秘訣というのは、自分自身を空にすることです。自分自身に死ぬことです。こうして神に満たされ、完徳に達するのです。
わたしが、これから公開しようとしている恩寵の秘けつは、まだ大部分のキリスト信者にとって親展極秘です。少数の信心家が、ちょっぴり知っているようです。それを実行して、そのダイゴ味に舌つづみを打っているのは、ごくわずかなベテラン信心家だけです。この新しい信心法を公開する前に、先に述べた第三の真理の続きともいうべき、第四の真理に移りましょう。
第④項 第四の真理―仲介者イエズス・キリストのそばには、もう一人の仲介者が必要
83.わが身のいやしさを反省して、仲介者なしには神に近づかない―これは、わたしたちにとって、謙遜なやりかたです。だから神のみまえでも、いっそう完全なやりかたです。先に述べたとおり、わたしたちの霊魂の精ずいは、たいへん腐敗していますので、神にいたるため、もしわたしたちが、自分自身の働き、努力、準備にだけたよるなら、どんなに良い行いをしても、それはみんな罪の公害に汚染されているのです。そうした中で、どんなに良いことをしても、神のみまえではたいしたねうちもなく、したがって神との一致もできねば、神から祈りを聞きいれていただくこともできません。
神は、そんなわけで、わたしたちのことを思えばこそ、前もって、ご自分のそばに、仲介者を置いてくださるのです。神は、わたしたちの無資格と無能をごぞんじです。神は、そうしたわたしたちを、あわれんでくださいます。だからこそ、わたしたちが、ご自分のあわれみの座に近づくことができるようにと、ご自分のそばに、有力な仲介者を指名してくださるのです。当然の結果として、もしわたしたちが、これらの紹介者を無視して、だれの紹介状もなく、じかに神と接触するなら、それは思い上がりです。謙遜さが足りない証拠です。かくも偉大、かくも聖なる神への尊敬の欠如です。それは、王たちの王である神を、この世のちっぽけな王さまよりも、低く見ることです。どんなちっぽけな王さまでも、側近の紹介なしには、だれとも会わないからです。
84.わたしたちの主イエズス・キリストは、父なる神のみまえにおける、わたしたちの弁護者・仲介者です。キリストによってこそ、わたしたちは、天上・地上の全教会とともに祈らねばならないのです。キリストによってこそ、わたしたちは稜威あまねき神に近づくことができるのです。キリストのあがないのクドクに支えられ、キリストのあがないのクドクを着ないでは、絶対に父なる神のみまえに出てはならないわたしたちののです―あたかもその昔、若きヤコブが父の祝福を受けるために、子ヤギの毛皮を首と両手に着けて、父イザアクの前に出たように。
85.だが、しかし、仲介者イエズス・キリストに取り次いで頂くため、もう一人の仲介者が、わたしたちには必要ではないのでしょうか。わたしたち人間には、キリストにじかに一致できるほど、またそれが自力でできるほど純粋なのでしょうか。キリストは、万事において御父と同等な、神ご自身ではないのですか。したがって、聖の聖なる者、御父と同じ尊敬にあたいするかたではないのですか。
キリストは、わたしたちを限り無く愛すればこそ、神なる御父のみまえに、わたしたちの保証人となり、仲介者となってくださいました。御父のお怒りをやわらげ、わたしたちが御父に支払うべき負債を返してくださるためです。だからといって、キリストの無限の稜威(みいず)、無限の聖性に対して、尊敬と畏敬の念をミニ化してもいいのでしょうか。
とんでもない。聖ベルナルドにご登場ねがいましょう。かれらはこう言っています。
ーわたしたちにはどうしても、仲介者イエズス・キリストに取り次いでもらうために、もう一人の仲介者が必要です。そしてマリアこそ、この仲介者です。マリアこそ、この愛の役務を果すのに最適任者です。マリアをとおってこそ、イエズス・キリストは、わたしたちのほうにやって来られたのです。だから、わたしたちはマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストのもとに行かねばなりません。
神であるイエズス・キリストの無限の偉大さのために、またはわたしたちの卑しさ惨めさ罪深さのために、直接かれのもとに行くのが恐いのなら、勇気をふりしぼって、わたしたちの母なるマリアの助けと取り次ぎをねがいましょう。マリアは、よいかたです。マリアは、優しいかたです。マリアは近づき難いかたではなく、たのまれたことをすげなくことわるかたでもありません。お高くとまってもいず、まぶしくて顔もあげられないかたでもありません。マリアは、わたしたち人間とちっともちがわないかたです。
マリアは、太陽ではありません、その先があまり強すぎて、わたしたちの弱い眼を眩惑させる太陽ではありません。マリアは、月です。美しくやわらかい光を、おだやかに地上にそそぐ月です。マリアはキリストという名の太陽から強烈な光を受けてそれをご自分において、わたしたちの弱い眼にかなうように調整してくださる月です。マリアはたいへん、いつくしみ深いかたです。
ご自分に取り次ぎをねがう人を、だれひとり拒みません―どんなに大きな罪びとでも。聖人たちが言っているように、マリアのご保護によりすがり、辛抱強く祈った者が捨てられたことは、昔から今にいたるまでいちども聞いたことはありません。
マリアは、神のみまえに、たいへんな勢力をもっておられます。神におねがいしてことわられたことは、タダの一度もありません。御子イエズスのみまえに出るだけで、それがすなわち祈りにつながるのです。だからイエズスは、すぐにマリアのねがいにこたえ、すぐにマリアのたのみを聞いてくださるのです。御子イエズスは、ご自分がかって吸った御母マリアの乳房、ご自分がかって宿ったマリアのご胎をひと目みるだけで、いつもマリアのねがいにわざと負けてくださるのです。
86.右に言ったことはみな、聖ベルナルドと聖ボナベントラの本から取ったものです。この二人の聖人によると、わたしたちは神に達するには、三つの段階を、つぎつぎにのぼらねばなりません。
第一の段階は、わたしたちにいちばん近く、わたしたちの登はん能力にいちばん適しているもの、それは、
マリアです。
第二の段階は、イエズス・キリスト。
第三の段階が、神である御父です。
イエズスに達するには、マリアをとおらねばなりません。マリアこそ、わたしたちのことを、イエズスに取り次いでくださる仲介者です。永遠の御父に達するにはイエズスをとおらねばなりません。イエズスこそ、あがないにおけるわたしたちの仲介者です。ところで、わたしがこれから公開しようとしている信心は、この秩序を正確にふまえたものです。
第⑤項の真理―神の賜物を安全にしまっておくことはたいへんむずかしい
87.わたしたちは弱く、もろいものですから、神からいただいた恩寵や宝を、自分のうちに安全にしまっておくことは、たいへんむずかしいのです。そのわけは、こうです。 ①天地にまさる「この宝を、わたしたちは土の器の中に入れているのです。」(Ⅱコリント4・7)すなわち、腐敗すべきからだの中に、弱く不安定な、変転きわまりない霊魂の中に入れているのです。
88.②悪魔が、ウデききのスリのように、不意にわたしたちを襲って、この宝をかっぱらおうとたくらんでいます。悪魔は、夜となく昼となく、チャンスをねらっています。悪魔はまた、「ほえたけるライオンのように、わたしたちを食いつくそうと、歩きまわっています。」(Ⅰペテロ5・8)好機到来。タッタ一つの罪で、アッというまに、悪魔はわたしたちの宝を、わたしたちが何年何十年もかかってたくわえた恩寵とクドクの宝を、みごとにかっぱらってしまうのです。
悪魔(蛇)を踏みつける聖母像
なんという不幸なのでしょう。悪魔のずるがしこさ、その長年の経験、そのたくみな手腕、そのウンカのような頭数―それを考えれば、どうしてこの不幸を恐れないでいられましょうか。いわんや、わたしたちよりも、もっと恩寵においてもっと卓絶していた人びとが、不幸にも悪魔の強盗に襲われて、何もかもはぎとられてしまったのです。ああ、どれほど多くのレバノンの大杉が、どれほど多くの大空の巨星が、一瞬のうちに、地にたおれ、地において、その見上げるほどの聖性の高さと、かがやきを失ったことでしょう。
このサンタンたる不幸は、どこから来たのでしょうか。神の恩寵が足りなかったのでしょうか。いいえ。神の恩寵はだれにも不足していません。この不幸は、かれらの謙遜さの不足から生じたのです。かれらは自分の力を過信したのです。自分の宝は自力でまもれる、と信じ込んでいたのです。あまりにも自分自身にたよっていたのです。自信過剰だったのです。自分の家は十分戸じまりがしてあるから、自分の金庫にはちゃんとカギがかけてあるから、神からいただいた恩寵の貴重品は大丈夫だ、と安心しきっていたのです。意識の深層にひそかにかくれひそんでいたこの自己満足、このウヌボレのためにこそ、神は罰として、かれらを自身の力だけに打ちまかせ、こうしてかれらが盗難に会うことをおゆるしになったのです。ああ、もしかれらが、わたしがこれから公開しようとしている信心を知っていたら、きっと自分の宝を、力づよく正直なマリアさまに、あずけたでしょうに。マリアさまはあずかった宝はご自分の宝のように保管されたはずです。―しかも、そうすることが、ご自分の重い義務でもあるかのように。
89.③世の中が道義的にたいへん腐敗していますので、教えをまもりとおすことが困難になってまいりました。このごろ、社会のモラルが地におちましたので、信心家でさえまるで必然の運命でもあるかのように、心がドロにではないが少なくともチリにまみれています。こうした中で、激流におしながされず、あらしの吹きすさぶ大海にも難破せず、また海賊の難にも会わず、風俗びん乱の公害にもめげず、毅然として信仰をまもりとおすことは、なんといっても奇跡です。
だれが、この奇跡を行ってくださるのでしょうか、まだ一度もヘビにかまれたことのない“忠実なおとめ”
マリアこそ。マリアは、ご自分を優しく愛する人々に対して、こうした奇跡を行ってくださるのです。
(第五巻につづく)
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