川俣事件
川俣事件関連史跡地図
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明和町ホームページ内の「川俣事件」の記念碑の写真をフォトチャンネルにUPしました。
「川俣事件」は、日本公害史の原点と言われる足尾鉱毒の被害農民と警官隊とが衝突した公害闘争。
明和町の「川俣事件記念碑を建てる町民の会」では2000年2月13日、事件発生から100年を機に寄附を募り、記念碑を建立しています。
記念碑の碑文の概要は次のとおりです。
【碑文】
川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である。明治の中頃、渡良瀬川上流の足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた。
生活を脅かされた農民たちは、銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京し3回の請願を決行したが成果は少なかった。
1898(明治31)年9月、大暴風雨による洪水で銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑に深刻な被害。耐えかねた被害民が足尾銅山の鉱業停止を求めて三度上京し請願を決行。参加者は一万人あまりで薄着姿の老人もいたとされます。
当時栃木県選出の田中正造衆議院議員は緊急に上京途中の被害民に会い、多くの犠牲者を出さないため総代を残して帰村するよう説得。その演説は被害民を動かし警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えた。
この後田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し、議会でも政府を追求したが、政府答弁は終始あいまい終わった。
1900(明治33)年2月13日、被害民たちは決死の覚悟で4回目の上京・請願を決行。
前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500人あまりの被害民は翌朝9時頃同寺を出発。
警官隊と小競りあいを繰り返しながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着。
利根川に向かい手前の同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた300人あまりの警官隊に阻まれ、多くの犠牲者を出して四散。
これが川俣事件である。
この事件で負傷し 現場及び付近で捕縛された被害民15人は近くの真如院(お寺)に連行(翌日以降の捜査で総数100人あまりが逮捕され、うち51人が兇徒聚衆罪等で起訴された)された。
この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長ら有志は村医を呼び負傷者に応急手当を施し、炊き出しも行うなど被害民の救援に尽力。
政府の対応に失望した田中正造は衆議院議員を辞職し天皇に直訴。以後谷中村遊水池化反対闘争へとたたかいを続ける。
川俣事件発生から100年が経過し、足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び、環境問題にも強く訴え続けている。
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