キュリー夫人を語る3
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
波潤万丈の生涯
一、それは、今から36年前(1972年)の4月30日の朝のことです。
20世紀最大の歴史家トインビー博士と、私が対談を開始する5日前のことでありました。
私と妻はフランスの友人とともに、パリ郊外のソーにある、マリー・キュリーの家を訪ねました。
3階建ての赤い屋根の家。そこには銘板が設置されており、1907年から1912年の間、マリー・キュリーが暮らしたことが刻まれていました。
この家で暮らした期間は、マリーにとって、最愛にして不二の学究の同志である夫ピエールを亡くした直後に当たります。
そしてまた理不尽な迫害など、幾多の試練を乗り越えていった時期でもあります。
さらに、1910年、「金属ラジウムの単離」に成功し、翌年、ノーベル化学賞の栄誉が贈られたのも、この家で過ごした時代のことでした。
私は家の門の前に、しばし、たたずみ、マリー・キュリーの波瀾万丈の生涯に思いをはせました。
──生まれた時は、すでに外国の圧制下にあった、祖国ポーランドでの少女時代。
幼くして、最愛の母や姉と、相次いで死別した悲しみ。
好きな勉強がしたくても、許されず、不遇な環境で、じつと耐え続けながら学んだ青春時代。
親元を離れ、大都会で、貧苦のなか、猛勉強に明け暮れた留学の一日また一日。
女性に対する差別もあった。卑劣な嫉妬や、外国人であるゆえの圧迫もあった。
さらに、愛する夫との突然の別れ。そして戦争、病気......。
絶望のあまり、生きる意欲さえ失いそうになることもあった。
けれども、彼女は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
断じて屈しなかった。絶対に負けなかった。
順風満帆の人生などない。むしろ困難ばかりです。
マリー・キュリーの偉大さは「悲哀に負けない強さ」にある。
そして、苦難を押し返していったのです。
私は、妻と一緒に並んで歩いていた、フランスの清々しい創価の乙女に語りかけました。
「私は、マリー・キュリーの偉大さは、二つのノーベル賞を取ったということより、『悲哀に負けない強さ』にこそあると思う。
順風満帆の人生など、ありえない。むしろ困難ばかりです。
それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれるからです」
あの時、瞳を輝かせ、深くうなずいていた彼女も、気高い使命の人生を、鋼鉄の信念の夫とともに、希望に燃えて歩み抜いてこられました。
今では、3人のお子さん方も、その父と母の使命の道を受け継いで、立派に社会で活躍しております。