キュリー夫人を語る26(最終回)

2010年08月16日 17時27分59秒 | 日記
月曜日


キュリー夫人を語る26(最終回)
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8


 娘もノーベル賞

 一、イレーヌは、マリー・キュリーと同じ放射能研究の道に進みました。母と娘は、科学の発展に身を捧げる同志となったのです。
 イレーヌは、人工放射能の研究で、夫のフレデリック・ジョリオ=キュリーとともに、ノーベル化学賞を受賞しています。
 その受賞理由となった「人工放射能の発見」は、マリー・キュリーの亡くなる半年前のことでした。苦心の末の発見に驚き、喜んだ二人は、母のマリー・キュリーを呼んで、確認してもらっています。
 「あのときのキュリー夫人の、強烈な喜びようといったら、わたしは一生忘れることはないでしょう。おそらく、彼女の生涯で最後の、大きな喜びだったと言えるでしょう」
(ノエル・ロリオ著、伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジョリオ=キュリー』共同通信社)とは、イレーヌの夫フレデリックの感慨です。

 放射能の研究に生涯をかけたマリー。

 人生の総仕上げの時期に、後継の子どもたちが、科学の新たな時代の扉を開くのを見届けることができたのは、どれほど嬉しかったことでしょうか。
 一、1922年、フランスの医学学士院は、マリー・キュリーを同学士院初の女性会員に選びました。その11年前、彼女を会員にすることを拒んだ科学学士院に対する非難決議とともに、です。
 そして1923年、フランス議会は、ラジウム発見25周年を記念し、マリーの功労に深い感謝を表しました。
 マリー・キュリーは勝ったのです!
 何に? あらゆる苦難に。残酷な運命に。そして、自分自身に。
 すべてに打ち勝って、マリーは、自分自身の使命を完壁に全うしたのです。

 すぐれた激励者

 一、晩年のマリーの健康状態は、決して良好ではありませんでした。いつも、しつこい疲れに悩まされていましたし、白内障で失明の危機にもさらされました。
 過酷な研究活動による疲労の蓄積と、長年の放射線による被ばくが、彼女の健康を、いちじるしく害していたのです。
 彼女の手は、ラジウムによるやけどの跡が残っており、固く、たこができていたといいます。

 「この道はあらゆる生活の安易さを断念することを意味しました。しかしかれは決然として、じぶんの思想も欲望も、この理想に服従させました」
(キュリー夫人著、渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
 彼女は、真理の探究者として茨の道を歩んだ夫ピエールについて、こう書きましたが、それは、そのまま自分自身の生き方でもあったでしょう。
 マリーは晩年、ピエールと自分が創始した学問をさらに発展させるため、研究所の充実と、後継者の育成に力を注ぎました。
 研究所では、誰とも分け隔てなく接し、多くの若き学究者が、常に彼女の周りを取り囲んでいた。
 彼女自身、若い人々と過ごすのが楽しかったといいます。

 「この孤独の女学者は、生来の心理学者的、人間的天分によって、すぐれた激励者としての資格ができていた」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、二女のエーヴは指摘しています。

キュリー夫人
 戦争それ自体を憎む 軍事費が国富を吸いとり有用な活動を阻害する

未来を見つめよ!
大切なのは 何がなされたか、ではなく何をなさねばならないか

 荘厳な臨終
 一、マリーは60歳を過ぎても、朝早くから、夜遅くまで、研究所で仕事をしていました。
 研究所の上に住んでいたある住人は、「彼女がよく研究所に朝一番に来て、最後に帰っていった」ことを証言しております
(前掲、田中京子択『マリー・キュリー2』)。

 62歳のマリーは、友人にこう書き送りました。
 「いつも考えているのは、何をなさねばならないかであって、何がなされたか、ではありません」(同)
 マリーの目は、最後の最後まで、未来に向けられていました。死の直前にも、本の執筆をはじめ、さまざまな計画を抱えていました。

 愛娘のエーヴは、こう綴っています。
 「母はずっと、私がこの世に生まれでるはるか前の、夢を追う貧しい学生、マリア・スクウォドフスカ(=故郷ポーランドにいた頃のマリーの名前)としての心のままで、生きていたように思われる」
(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 どんな立場になっても、母になっても、年老いても、彼女の魂は、理想に燃える女子学生のときと変わらずに、赤々と燃え続けていた。
 マリーは、「永遠の女子学生」だったのです。

 彼女は、昇りゆく朝日とともに、荘厳な臨終を迎えました。
 「夜が明け、太陽が山々をバラ色に染め、澄みきった空にのぽり始めたとき、輝かしい朝の光が部屋の中にあふれ、ベッドをひたし、くぼんだほおと、死のためにガラスのように無表情になった灰色の目にさしこんだとき、ついに心臓がとまった」(前掲、川口篤ほか訳)

 「白衣を着、しらがを上げて広い額をあらわに見せ、騎士のように荘重でりりしくて平和な顔をした彼女は、いまやこの地上でもっとも美しく、もっともけだかい存在だった」(同)
 1934年7月4日、娘に見守られて、マリー・キュリーは、その崇高な生涯を閉じました。66歳でした。

 逆境の時こそ本当の底力が

 一、「わたしは、人はどの時代にも興味のある有用な生を営むことができると思います。
 要は、この生をむだにしないで、《わたしは自分にできることをやった》とみずから言うことができるようにすることです」(同)
 マリーの叫びです。
 どんな人でも、どんな時代に生きても、その人には、その人にしかできない使命があります。
 特別な人間になる必要はない。有名になったり、華やかな脚光を浴びる必要もない。
 平凡であっていい。「自分らしく」輝くのです。
 大切なのは、「私は自分にできることをやりきった!」と言えるかどうかです。
 順境のなかでは、人間の真の力は発揮できない。
 逆境に真正面から立ち向かっていくとき、本当の底力がわいてくる。逆境と闘うから、大いなる理想を実現することができるのです。

学び求むるわが母校 誉れの青春光あれ

 父娘(ふし)の絆は永遠ならむ

桜花を見つめ
     歩みゆく
 知性の乙女は 美しく
 学び求むる わが母校
 誉れの喜春 光あれ

 希望は広がる わが心
 友情と学ばむ
     晴れの日々
 幸福博士は 胸をはり
 おお白鳥の 幸の道

 くる日くる日も
     わが歴史
 父娘の絆は
     永遠ならむ
 翼を広げよ 白鳥は
 誓いの空をば
     世界まで

 うれしいことに、2年前の1月に誕生した短大歌「誉れの青春」の歌碑が、このほど卒業生(短大白鳥会)より寄贈され、まもなく除幕されます。これは、短大開学20同年(2005年)、短大白鳥会結成20周年(2007年)を記念して、真心から贈ってくださったものです。
 ここに歌われた通り、気高き誓いを陶に、今春で8000人を超える卒業生が、世界各地で素晴らしき翼を広げて活躍してくれております。創立者として、これほど誇らしいことはありません。
 大教育者クマナン博士の尽力で関学したインドの「創価池田女子大学」では、この1月30日、第5回の卒業式が行われま
した。皆さん方と人間教育の理念を共有する、最優秀の女性たちが、社会へ巣立っております。

 牧口先生が先進的な「女性教育」に携わられてより、1世紀──。
 本格的な「創価女性教育の第2幕」がいよいよ開幕したのです。

 今いる所で光れ

 「若き乙女たちが、理想を抱いて行き交う、短大の「文学の庭」。
 キュリー像は、今日も静かに、そして真剣勝負の姿で立っています。
 この像は、無言でありながら、無限の励ましを贈ってくれます。
 ──私は戦いました。たくさん、つらいことがありました。けれども、負けませんでした!
 あなたも負けないで!
 私は勝ちました!
 あなたは、どう生きるのですか? 今、あなたの胸にある「誓い」は何ですか?──
 一人一人の女性が、今いる、その場所で、この像のごとく、毅然と立ち上がることです。
 そして、それぞれの使命に燃えて、全生命を光り輝かせていくとき、時代は変わり、歴史は動いていきます。
 
あのワルシャワの移動大学で、若きマリーたちが声高らかに朗読した詩があります。
 「真理の明るい光をさがせ
 まだ見ぬ新たな道をさがせ」

 「……どの時代にもそれぞれの夢があり きのうの夢想は打ち捨てていく
 さあ、知識のたいまつを掲げ 過去の成果に新たな仕事を積みあげて未来の宮殿を築くのだ」
(前掲、河野万里子訳)

 わが創価の貴女たちよ、「永遠に学び勝ちゆく女性」として、未来に輝く平和と正義と幸福の大宮殿を築いてくれたまえと、深く深く祈りつつ、記念の講座とさせていただきます。

 世界一  わが短大は   花盛り  学びと幸の   女王の笑顔に

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。