キュリー夫人を語る 5

2010年06月17日 20時36分04秒 | 日記

                

木曜日

キュリー夫人を語る5

◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8

 


短大は創価三代の夢の結実

「女性の世紀」のリーダーに!

 

 また、短大を受験してくださった皆さんは、全員が、一生涯、短大姉妹です。

 試験だから、どうしても合格・不合格はある。しかし、短大という場に来て戦ったこと自体は、厳然と生命に残る。それは、生涯、消えない。

 ですから、何があっても、朗らかに、生命の王女としての誇りを持って、堂々と「誉れの青春」を生き抜いてほしいのです。

 私ども夫婦は、創価女子短大を受けてくださった皆さん全員の勝利と幸福の人生を、真剣に祈っています。

 一、マリー・キュリーは、19世紀から20世紀への転換期を、あの像の姿のごとく、毅然と頭を上げて、胸を張って生き抜きました。

 皆さん方もまた、学び勝ちゆく晴れ姿で、20世紀から21世紀への転換期を生き抜き、不滅の歴史を創り残していただきたい。

 皆さん方こそ、人類の希望と光る「女性の世紀」の旭日のリーダーだからです。

 

 向学の乙女が花の都・パリへ 

 一、フランスと北東ヨーロッパを結ぶ交通の要衝が、花の都のパリ北駅です。

 私も、このパリ北駅から急行列車に乗って、5時間かけて、オランダの首都アムステルダムへと旅した思い出があります。25年前の1983年6月25日のことです。

 私たちが乗る「北極星号」は夕刻に出発し、途中、停車したベルギーのブリュッセルでは、わざわざ待ってくれていた同志とともに、ホームで記念撮影をしました。

 次のアントワープ駅でも、わずか1分の停車時間でしたが、同志と窓越しに心を通わせあったことが、今も胸から離れません。


 ──時代は19世紀の終わりに遡ります。

 1891年の11月の早朝、パリ北駅のプラットホームに列車が到着しました。

 長旅に疲れた多くの乗客とともに、一人の若い女性が、荷物を抱えて降り立ちました。

 ポーランドのワルシャワから、3日間、ずっと4等車で揺られてきたの

ですから、くたびれていないわけがありません。身なりも質素そのものでした。

 初めての大都会。まったく見知らぬ人々。不安がないと言えば嘘になるでしょう。

 しかし、その心には、熱い熱い向学の魂が燃え盛っていました。

 この乙女こそ、若き日のマリー・キュリーなのです。

 私の胸には、その誇り高き「第一歩」の足音が、寮生をはじめ、親元を離れて私の創立したキャンパスに集ってくださった学生の皆さん、そして留学生の皆さん方の決意の足どりと重なり合って、響いてくるのです。

 この時、彼女は23歳。女学校を卒業してから、すでに8年が経っていました。今であれば、大学を卒業している年頃です。一家全体の家計と学費の問題など、留学できるように環境を整えるまで、それだけの年月が必要であったのです。

 学生生活にあっては、いわゆる浪人や留年、休学など、さまざまな事情で、人より年数がかかる場合もある。

 しかし、人と比べて、くよくよすることはない。人生の戦いは長い。途中の姿で一喜一憂することはありません。

 最後に勝っていけば、よいからです。青春の生命に失望などない。

 もちろん、お父さんやお母さんには、よけいな心配をかけないように、努力を重ね、賢明な選択をすること。そして、必ず喜んでもらえる自分自身になって、親孝行をしていくこと。

 この一点は、絶対に忘れてはなりません。

 

 


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