キュリー夫人を語る6
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
人と比べるな くよくよするな 最後に勝てばいい
他国の支配下での少女時代
ここで、留学に至るまでのマリー・キュリーの歩みをたどっておきたいと思います。
マリーがポーランドのワルシャワに生まれたのは、1867年11月でした。日本では、江戸幕府の終焉となる大政奉還が行われた、明治維新の時代です。
ともに優れた教育者であった父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生しました。生まれた時の名前はマリア・スクウォドフスカ。3人の姉と一人の兄がおり、「マーニャ」との愛称で呼ばれていました。
このワルシャワの生家のすぐそばには、ポーランドSGI(創価学会インタナショナル)のマルケピッチ婦人部長のお宅があります。
このお宅では、いつも明るく、地域の座談会が開かれ、平和と革福への実りある語らいが広がっております。
マーニャが生まれた当時、愛する祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。ポーランド語の看板を通りに掲げることも許されない。ポーランドの歴史や言葉を教えることも厳禁。人々は不自由と屈辱の生活を強いられていたのです。
マーニャが通っていた学校にも、視学官が頻繁にやってきては、教育内容を厳しく監視していました。
もしも、自国のポーランド語で話したりすれば、自分だけでなく、両親にまで危険が及んでしまう。そんなひどい状況だったのです。
しかし、そうした環境であったにもかかわらず、マーニャの心が卑屈になることはありませんでした。
それは、思いやりにあふれた、温かな家族の絆があったからです。
お父さんは大変な勉強家で、人に教えることが大好きな人物でした。最新の科学に通じているとともに、何カ国語も話すことができました。
お母さんも、20代で女学校の校長を務めるなど、まことに教養ある女性でした。マーニャは、この父母を、心から愛してやまなかったのです。
世の中は暗い。つらいことも、たくさんある。けれども、家に帰れば、安心できる。何があっても家族で励まし合い、守り合っていける。
そうした和楽の家庭をつくっていくことが、社会の最も大切な基盤であり、平和の原点となるでしょう。
そして、何といっても、娘である皆さんの聡明さと、明るい笑顔は、家族を照らす陽光であり、和楽を築く大きな力です。
「家族のものが互いに結び合っているということは、ほんとうにこの世での唯一の幸福なのですよ」(エーヴ・キュリー著・川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、マリー・キュリーはのちに、姉への手紙に綴っています。
家族の結合は、ともに人生の試練に立ち向かっていくなかで、深まり、強まり、そして永遠性の次元にまで高められていくものです。