土曜日
団塊一句:今を詠む♪・・・
「創立の松下を けがすな・よごすな 塾生達よ!」
「政治と金 またゾロゾロと 菅内閣」
Wikipedia歴史を振り返る
「1861年6月19日 - ホセ・リサール、フィリピン独立の英雄1896年12月30日):生涯、希望 の炎を燃やし続けた勇敢なる青年詩人。フィリピンの人々に訴えたことは何か。それ は、。「賢くなれ!賢くなれ!」ということであります」「輝き」より。
Wikipedia歴史を振り返る
「1909年にアメリカ・ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に父の日礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。ドット夫人が、父親の墓前に白いバラを供える」
撰時抄269p
されば日本国に法相宗のはやりたりしを
伝教大師責めさせ給いしには
羅什三蔵は舌焼けず
玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば
桓武天王は道理とをぼして
天台法華宗へはうつらせ給いしなり、
涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば
我が仏法は月支より他国へわたらん時、
多くの謬誤出来して
衆生の得道うすかるべしととかれて候、
されば妙楽大師は
「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて候へ、
今の人人いかに経のままに後世をねがうとも
あやまれる経経のままにねがはば
得道もあるべからず、
しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、
仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをく
これこそ第一の大事にては候らめ。
キュリー夫人を語る7
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
愛する家族の死を越えて
マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。 最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。 じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。 相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。 「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。 創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。 深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」 その通りに、彼は、わが母校を"母"とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。 そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。
団塊一句:今を詠む♪・・・
「創立の松下を けがすな・よごすな 塾生達よ!」
「政治と金 またゾロゾロと 菅内閣」
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「1861年6月19日 - ホセ・リサール、フィリピン独立の英雄1896年12月30日):生涯、希望 の炎を燃やし続けた勇敢なる青年詩人。フィリピンの人々に訴えたことは何か。それ は、。「賢くなれ!賢くなれ!」ということであります」「輝き」より。
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「1909年にアメリカ・ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に父の日礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。ドット夫人が、父親の墓前に白いバラを供える」
撰時抄269p
されば日本国に法相宗のはやりたりしを
伝教大師責めさせ給いしには
羅什三蔵は舌焼けず
玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば
桓武天王は道理とをぼして
天台法華宗へはうつらせ給いしなり、
涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば
我が仏法は月支より他国へわたらん時、
多くの謬誤出来して
衆生の得道うすかるべしととかれて候、
されば妙楽大師は
「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて候へ、
今の人人いかに経のままに後世をねがうとも
あやまれる経経のままにねがはば
得道もあるべからず、
しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、
仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをく
これこそ第一の大事にては候らめ。
キュリー夫人を語る7
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
愛する家族の死を越えて
マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。 最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。 じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。 相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。 「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。 創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。 深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」 その通りに、彼は、わが母校を"母"とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。 そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。