僕は夜道を歩いていて月が綺麗だと思う。幼少期を夜でも明るい都会で過ごした僕にとっては今いる札幌から見る月でもとても明るく輝いて見えるのである。そしてスマホのカメラで写真を撮ろうとするのである。しかし、スマホのカメラ程度の解像度では美しい月もただの白い塊にしか映らない。月のみならず、冬に雪で真っ白に染まった木々たち、夏に生命力を感じるぐらい生い茂った草たち、秋に数週間だけ、このために存在しているんだと言わんばかりに人々を魅了させ、そして燃え尽きたかのように散っていく銀杏並木たちのような自然の作り出す風景は僕のめったに動かない心を動かせてくれるぐらい素晴らしいものである。
自然が作り出す美を見ると、僕はこの美をありのままに、綺麗に表現できるぐらいカメラの性能がよければ、自分が今見て感じた美を他の人々にも見せることができるのに…と思ってしまうことがよくある。今後はより性能の良いカメラをスマホに搭載して月や風景などのような自然の織りなす美しさを手軽にすぐに記録として残せるようにしてほしいと携帯会社に言いたくなる。でもそれで本当に良いのだろうか…?と同時に僕は思うのである。もし仮にスマホのカメラの性能がよくなり、美しい風景すらもまるで生で見ているように表現でき、ついには三次元表現でまるでそこに自分がそこにいるぐらいの感動を与えられる機能を持ったカメラがスマホに搭載されると(もうすでに可能なのかもしれないが)、僕が感動している自然の美しさはありふれたものとなり、人々にとっては何の感動も引き起こさないものになるのではないだろうかと危惧してしまうことがある。(もちろんそんなことはないと主張する人はいると思うし、そういう人たちが大多数であってほしいと思うが、どこか不安に感じるところが僕にはある)
このようなことが風景とカメラという関係以外にも感じることがある。戦後焼け野原から這い上がってきた日本人たちは、昔は食べることにすら苦労していたのに戦後75年以上が経った今となっては食を大量廃棄する時代へと変わっていってしまった。飲食店が溢れ、徒歩数分で24時間開いているコンビニに行けばいつでも食べ物を手に入れることができる。そんな食べ物がありふれた時代に食のありがたみを忘れかけているのではないだろうかと思ってしまうことがある。
人間の生活を豊かにしたのは科学や科学技術であるが、その科学技術は生活を豊かにして、人々の生活における“当たり前”の水準を上げていくが、心を満たしているわけではない様に感じる。当たり前の水準が上がれば人々はさらに欲望の赴くままに物を欲する。今あるものへの感謝を忘れて、あって当然と思い、他の物を貪るようになる。これはむしろ心が貧しくなっていっているのではないだろうか。科学は人々の物質的豊かさを上昇させるかもしれないが心の豊かさを上昇させるものには必ずしもならないのである。
これは極論かもしれないが、例えばiPS細胞による臓器移植が一般的になり、低価格で誰でも治療を受けることができるようになれば「病気になってもiPSで治せるじゃん」と言い自身の体を大切にせず不摂生をするような人が出てくるかもしれない。果たしてそれは本来の人間のあるべき姿なのであろうか?人間の未来がそのような姿であるのならばその先の未来はよいものになるのだろうか?
科学や科学技術の発達とともに我々人間の精神的成熟も必要なのであると僕は思う。精神的な成熟がなされていなければ科学や科学技術は誤った使い方をしてしまう。そして誤った使い方は人々を良い方向に導くのではなく、間違った方向に導き、時には幸福ではなく不幸をもたらす。
将来科学者になろうとしている(変わるかもしれないけど)人間として思うことは、科学の発展を進めると同時にその科学や科学技術を使用する我々の心も同時に成熟させ、正しい使用法を啓蒙していく必要があるということ。そうしないと科学はすべてを無に帰する要因になってしまうかもしれない。そんなことを考えていた日でした。