浮游社の『崎戸』本・Ⅰ・Ⅱ & 浮游庵通信 

炭鉱に生きた人々を、国家が遺棄した時代を記録し、記憶する。
1968年、「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」

浮游庵通信 5 私の反権力、反戦、護憲の源は、「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」です。

2022年08月06日 17時26分42秒 | 記録
浮游庵通信 5   WEB版 Communication & Journalism 
2022年8月1日発行発行・浮游社 発行人・響トオル tohru@able.ocn.ne.jp
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( 2022・7・24 福岡反戦集会で講演した原稿に加筆したもの )

私の反戦、反権力、護憲の源は、「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」です。
中西 徹(浮游庵通信・編集人)

 私は、文章を書いたり、編集したり、印刷物やWEBサイトで通信を出したり、年に1,2冊、人から依頼されたり、私自身が企画して小さな本を編集・発行して、反戦・反権力・護憲・の立場を明確にしているだけですから、今日話をお聞きいただく皆さんには、私がごく狭い領域でお話しすることを予めご承知くださるようにお願いします。
 その領域とは、〈「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」〉で、明治以来の約150年と、長崎県という狭いエリアです。かつて長崎県の主要な特産物は、石炭と鰯でした。現在、石炭を掘り出していた海底炭鉱は、すべて潮をかぶって死に絶えています。鰯(カタクチイワシ)も西彼杵半島から野母半島に至る海域からどこかに移住して去り、いりこ屋さんは軒並み廃業、過疎化が進む長崎です。
 長崎新幹線は走っても、批判の多い土建県政が人権尊重の県政に変わらねば、過疎化と、本日のテーマの一つ「戦場化」は止まりません。

 崎戸へ、伊藤ルイさんの足跡をたどる。

 今日の本筋である〈「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」〉についてお話しする前に、私の故郷でもある崎戸について、ある女性の足跡を紹介します。
 ある女性とは、当地(福岡市)で在韓国の朝鮮人被爆者・孫振斗さんの裁判の支援をはじめ様々な市民運動の中心で活躍した伊藤ルイさん(1922・6~1996・6)です。伊藤ルイさんの著書『必然の出会い』(1991・9 発行・記録社/発売・影書房)の『再会』(214~215頁)で、以下のように書いています。
 ~漠然と九州の西岸を歩いてみたいと思い、佐世保行きの列車に乗り、その(田添福市さんという西彼杵郡西海町の農協理事長の)向かい側の席に腰をおろしたことに始まる。何度も何度も地図を出したり入れたりしている私に(田添さんが)「あなた、どこへ行かるるとですか」と声をかけられたのがはじめだった~、と前置きして、田添さんの問いに以下のように答えて、田添さんから崎戸への行程を案内してもらったのでした。
 ~目的といってはないのですが九州の西の海岸を歩いてみたくて、と答えた。そのうち、国民宿舎の標しのある崎戸島に今夜は泊まりたいです、と言うと、それなら私といっしょに船でいくとよか、と言われて佐世保から船に乗り、田添さんは大島の一つ手前(面高)で降りられ私は次の大島で降り、バスで崎戸に行った。~と、書いています。
 残念ながら、崎戸の印象記はありません。崎戸町(当時)は、蛎浦島と崎戸島が橋で繋がり、五島灘に浮かぶ江ノ島、平島を町域にし、炭鉱があったのは蛎浦島で、他の三島は漁村で、北緯33度でほぼ横一線に並んでいます。
崎戸炭鉱は、主力の一坑が1964年(昭39)、二坑(浅浦)が1968年(昭43)3月に閉山しました。
 私の家族は閉山に先立ち、1968年1月19日、原子力空母エンタープライズが佐藤栄作政権の承認を得て佐世保に入港し、国家権力が反対運動を弾圧して騒乱状態となった市中を催涙ガスにむせびながら、暴力団も顔負けの警官・機動隊に追いたてられるように、佐世保駅に向かったのでした。
 
 伊藤ルイさんが宿泊した国民宿舎は「御床島荘」という名で、崎戸炭鉱労組の委員長だった石川數夫町長が、閉山で島を追われた人々が望郷で訪れる際の宿泊施設として1972年(昭47・3)の開業し、2002年1月に閉店しました。だから、伊藤ルイさんが崎戸に行き、国民宿舎・御床島荘に宿泊したのは、1972年の春以降~1973年夏頃かな? と推測。
 御床島は崎戸島の北側の、大潮の日は潮が引くと地続きになる小さな無人島で、筆者が幼少の頃には、アワビ、サザエ、ウニ、ナマコなどが海を埋め尽す豊穣の磯場でした。

 伊藤ルイさん、なぜ九州西海岸へ?

 ここで、大きな疑問。伊藤ルイさんは、なぜ「九州の西の海岸を歩いてみたく」なったのでしょうか。九州の西の海岸とはどこ? 佐世保駅で降りると、目の前は西彼杵半島です。
 西彼杵半島の西側に点在する島の炭鉱を舞台にした二つの映画が伊藤ルイさんの心に作用したのではないだろうか、と私は推測するのです。
 一つは、1970年1月公開の映画「地の群れ」(原作は崎戸に縁の深い井上光晴さん)です。
 映画は崎戸にロケしたり、原作にはないエンプラの抗議行動もドキュメントしていました。新聞スクラップ80頁を作ったほどの伊藤ルイさんですから、崎戸の残像が伊藤ルイさんの心に投影したのではないでしょうか。
 もう一つは、1970年10月に公開された山田洋次監督の『家族』です。
 長崎港外の、閉山前の伊王島炭鉱から北海道を目指す炭鉱離職者家族が主人公です。炭鉱離職者の不安と外見は豊かそうな都市生活者、万博や公害の工場などをドキュメントして、炭鉱離職者という遺棄されるものと見せかけの豊かさや経済成長を対比させ、閉山という容赦のない国策で石炭と労働者の家族を遺棄した時代を浮き彫りにしています。国策閉山で棄てられた炭鉱離職者とその家族が再生を勝ち取るまでの感動的な映画でした。当時28,9歳の倍賞千恵子さんがとてもすてきでした。

西彼杵半島西側の海域に点在する島々

 佐世保湾口は、北側が佐世保市域の高後崎で、南側が西海町(現西海市)域の寄船鼻で、湾口は2km余り。先の戦争中は、この湾口にはアメリカ軍の潜水艦の侵入を防ぐために広大な鉄のカーテンが降りていたそうです。もちろん、佐世保港と離島の間を通う定期船は通過させません。北側の相浦港に迂回させられました。
 伊藤ルイさんは、1990年9月の佐世保訪問の際に、車で案内されて、奥深い佐世保湾に日米の軍事力がひしめく実態を見ています。
 佐世保湾口で向い合う西彼杵半島(現在、ほぼ全体が西海市域)の西側を南へ、長崎・野母半島までの海域(角力灘)には島が点在し、その島には炭鉱がありました。
 崎戸、大島、松島、池島、伊王島、香焼島、高島、端島など、これらの島の炭鉱のほとんどが1970年代の閉山です。
 
       

 伊藤ルイさんは、西彼杵半島の西岸(国道202号線)を歩きながらから海を眺め、点在する島々を遠望し、島の炭鉱で暮らしていた人々を思い描いてみようと考えて、ふらりと旅に出たのでしょう。私は、そのように想像します。ほぼ当たっていると思います。

  国道202号線

 少し話の筋道を逸れます。国道202号線は福岡市に端を発し、唐津・伊万里・佐世保を経て、西彼杵半島の西側から長崎市に至ります。
 202号線は、福岡市内では明治通りに重なり、天神、西新、室見(近場に姪浜炭鉱/早良炭鉱とも)、姪浜、下山門、今宿を経て、唐津、伊万里、佐世保など、周辺に点在した中小零細の無数の炭鉱の風景を通過して、西海橋を渡り、西彼杵半島を横断して、半島の西側を南下し、西方に広がる海を眺めます。
 伊藤ルイさんが当時住んでいた福岡市早良区内野から西鉄バスで西新に出ると、明治通り/国道202号線、地下鉄は西新、藤崎、室見、姪浜(からJR筑肥線)、下山門、今宿・・・唐津へ。このように国道202号線が並走して、西彼杵半島に至る道はいつも日常にあったのです。想像をたくましくして、気が付いたら西彼杵半島の西側を歩いているような、憧憬のような空想旅行をいつもしていたのかと、私は想像するのです。
 現実と空想がが符合するような崎戸泊・西彼杵半島へのぶらり旅に、私は驚き、心ときめきます。
 なぜなら、「浮遊庵」も早良区、202号線のすぐ近くなのですから。
 私は、体が動くうちに、このルートを折り畳み自転車とともに、行程を刻むようにたどろうと思案しています。

 前川雅夫さんとの出会い

 伊藤ルイさんが、1990年9月に佐世保を訪れた目的は、1972~3年頃(筆者が推測した時期)、「漠然と九州の西岸を歩いてみたい」と思って乗った列車の中で出会った、西海町(現西海市)の田添福市さん(大日本帝国が進めた満蒙開拓団を拒否した人)と再会することでもありました。
 この時の案内同行者の一人に『炭坑誌』を上梓した炭坑研究の第一人者である前川雅夫さんがいました。伊藤ルイさんが『必然の出会い』の「再会」(216~217頁)で書いています。
~「私の田添福市さん訪問の話をきいて同行下さることになった人の中に、佐世保市早岐の前川雅夫氏がおられた。この人は1990年1月に20年がかりの『炭坑誌―長崎県石炭史年表』(葦書房)800ページを出された方」という人物紹介に続いて、「新聞記事や綿密な聞き書きの中に、炭坑そのものの盛衰はあっても炭坑の坑内で働く人とその家族には陽の目があたらなかったことが感じられ、閉山とともに四散していく人びとへの著者の想いが伝わってくる」と、著作『炭坑誌』についてふれています。

 余談ですが、前川さんと私(筆者)とのことで一言だけPRさせてください。私は、前川さんの「炭坑誌」に感動して、続編の提案をしたり、『崎戸』本・Ⅰの「うち、おい達の『崎戸』という時代」の跋文を前川さんに依頼し、頂戴しました。『崎戸』本・Ⅱの「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」では、寄稿いただいた方々の一人です。現在、『炭坑誌』の続編の出版は進行中です。昨年の刊行予定でしたが、前川さんが抱える構想と一次資料の整理は膨大で、熟考に熟考が重なり、出版の進行が遅れています。乞うご期待です。

 「今さら」炭鉱ではなく、「今だから」炭鉱!

 本題の石炭に戻ってお話しします。
 2006年に公開されたドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」の監督である熊谷博子さんの『むかし原発 いま炭鉱』という本があります。2012年3月の発行です。2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故の翌年の出版ですから、原発事故発生の頃は、最終稿の頃でしょうか、
この本の冒頭で熊谷博子さんは、原発事故に直面して「むかし石炭、いま原発」と書いています。しかし、熊谷さんは考えを進めて、末尾では「むかし原発、いま炭鉱」と逆転させました。「むかし石炭」が「むかし原発」に、なぜ変化したのでしょうか。
 理由は、原発事故に至るこの国の近・現代史に目を向け、明治からの150年余を正しく見つめると、原子力以前の、「富国強兵・殖産興業」のエネルギーであり、敗戦後復興を支えた石炭、その石炭を地底、海底の奥深い所から採掘して運び出した炭鉱・労働者家族の実相に向き合うことになるからです。
 だから、「今さら」炭鉱ではなく、「今だから」炭鉱なのだ、になったのだと思います。
 私も体験的に、今だからこそ明治以来の石炭史、とりわけ支配と被支配の実態や、なぜ炭鉱王と名の付く経営者が何人も出現したのか、その炭鉱王と称される財閥の長が、労働者をいかに使い捨てにしたのか、炭鉱王の利益のために何千何万の労働者が傷つき死んだか、財閥が国の権力者や役人と癒着し、植民地や占領地から人々を連行し苛酷な差別的な労働を強いたか、その事実を記憶し、継承することが今を生きる日本人として大切だと考えています。あえて申し上げるなら、そのことが私の反権力・反戦です。

 石炭は、「富国強兵・殖産興業」の原動力

 石炭は、江戸期においては製塩に使われたくらいで、本格的に活躍するのは、石炭で稼働する蒸気機関が輸入された明治・大日本帝国になってからです。
 石炭は、明治・大日本帝国政府の国策「富国強兵・殖産興業」の原動力でした。石炭を焚いて軍艦を動かし、兵隊と武器を積み込み、難癖をつけて西欧をコピーした軍事力でアジアの他民族の領土に侵入し、占領し、植民地支配するという西欧の帝国主義列強に続けとばかりに打ち立てた国家政策「富国強兵・殖産興業」でした。

 朝鮮・中国への侵略は「松下村塾」の教え

「富国強兵・殖産興業」は、吉田松陰の著作、松蔭が松下村塾で教えたことが端緒になって、発想されています。
 その教えとは、~急いで軍備を整え、艦船と大砲が充足したらカムチャッカ・オホーツクを奪い、朝鮮を攻め、北は満州、南は台湾、ルソン諸島を手に入れる~ という具合に、かつて大日本帝国が行ってきた侵略のシナリオが説かれています。 
 松蔭の松下村塾の塾生で、立身出世を目指した旧長州藩の下級藩士の子弟である伊藤博文や山県有朋らが継承し、その末裔が松陰・伊藤・山県の系譜を自認し、近代化が遅れていた朝鮮・中国の民族を蔑視し、朝鮮の植民地支配を橋頭保として中国と戦争し、領土を奪い、満州をでっちあげ、国をあげて侵略戦争を継続してきたわけです。
 煽ったのが、福沢諭吉です。~朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を皆殺し(中略)我兵士は海陸大挙して支那に侵入し、北京城を陥れ~ と、露骨な侵略思想を主張しています。
 *上記の吉田松陰、福沢諭吉の引用は高實康稔さん(岡まさはる記念長崎平和資料館・元理事長)の論考から(「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」に収録)

 明治の初め、石炭で財閥の基盤をつくったのが、政商の三菱と三井でした。
三菱は高島炭鉱です。1874年(明7)に、官営から後藤象二郎に払下げ、経営に失敗し仲が良かった福沢諭吉が大隈重信に斡旋を依頼して、三菱・岩崎弥太郎に買収してもらいます。後に端島(軍艦島)を開発し巨利を得て拡大し、さらに崎戸を手中にします。島ですから、簡単に足抜けできません。「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」と日本中に喧伝された三菱の労務管理、圧制です。高島には、唐津の高取伊好(杵島炭鉱)が技術者としていました。大隈重信と高取伊好の縁は三菱・高島からでしょうか。
 三井は三池炭鉱です。1889年(明22)に長州閥の伊藤博文・山県有朋・井上馨らが支援、長州閥と明治政府・三井という政官財癒着の成果で、三井に払い下げられました。三井と山県が手を組んで行った囚人使役は1931年(明7)まで続きます。
 山県有朋は古河財閥と一体で、足尾鉱毒で困窮した地元民を踏みつけました。安倍晋三ともに「亡国の族(やから)」で、極悪人です。山県の国葬を取り消す時代がきてほしい。
 三菱は日本郵船、三井は三井商船、インドや中国・上海をはじめアジアに進出していた西欧の帝国主義の国々の戦艦や商船に石炭を売って、と同時に産業革命後の新技術を取り入れ、コピーし、生産効率を高度化して行きます。アヘン密輸で儲けた英国の貿易商の代理人グラバーが暗躍し、多数の外国人技術者が招へいされました。西欧の産業革命の技術を取り入れ、今に残る残骸が「明治日本の産業革命遺産」です。
 明治の日本が産業革命をやったわけではなく、あちらのものを上手に使いこなしただけなんですが。この「遺産」は当初、エリアは九州・山口でしたが、全国展開したのは、侵略戦争の色合いを薄めるためだろうと思います。世界遺産に指定されている「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産には、松陰の松下村塾も含まれています。 
 なんでやねん? 
 安倍としては、旧長州・山口発で松陰の思想と実践、成果を誇りたかったのでしょう。江戸期の松下村塾を「遺産」にすることは、松蔭の侵略思想を肯定し、伊藤や山県ら旧長州藩士によって実行された「大日本帝国の侵略戦争、植民地支配」の成果を誇ることですから、安倍晋三が侵略戦争、植民地支配についていかに無反省であるか、その証左でもあります。
 明治の大日本帝国の侵略思想と成果を「明治の産業革命遺産」と名付けるというアホノマスクの安倍らしい世界に恥知らずなことをやって、あげくは、歴史改ざんと隠蔽の殿堂である情報センターを東京に設置し、世界遺産指定に際して世界に約束した歴史事実の展示説明を全く履行せず、嘘を吐き続けるということを平気で行っているのです。
 安倍晋三やその仲間が「富国強兵・殖産興業」を誇るような現代人の犯罪性を記録、記憶することを通して、「明治の産業革命遺産」の世界遺産指定取消や、歴史改ざんと隠蔽の殿堂である同情報センターの廃止を求めていかねばと強く思っています。これも、私の反権力・反戦です。 

「富国強兵・殖産興業」の原動力だった石炭ですが、敗戦で国民主権の時代となった戦後復興でも、唯一の国産エネルギーである石炭の増産に国内施策の一切を集中させる政策(傾斜生産方式)が実行されました。NHKラジオも「炭坑へ送る夕べ」(1946~1948)を放送し、日本中が石炭の増産一色。石炭の増産という国策を担わされたのが、復員兵でした。
「天皇と国のために死んでこい」と、補給も途絶えた戦線に送り出され、マラリア・チフス・赤痢などに罹り、負傷し、飢餓に苦しみ骨と皮になって、かろうじて生きて故国に帰り着けば、今度は地底の石炭を掘って経済復興に汗を流せと、戦争を遂行した大日本帝国の残党から「檄」とやらが飛んできたのでした。
「極度に窮迫せる国内の状況を黙視するに忍びず、平和日本建設のためここに再び諸君のお骨折りを要請せんとする次第である」

 敗軍の将で、未だに兵を支配していると錯覚している陸相・下村定の檄に復員兵が怒った。
「いつも変わらぬ上官という物の身勝手な放言にはただあきれるの他はない。号令一本で、そんなに石炭不足で国家が困っているなら、まず自分たちが真っ先に裸になって炭坑に飛び込むべきではないか。それが国家に対する罪滅ぼしというもの」(毎日新聞1945年11月16日付投書「陸相炭坑へ行け」より)
 以上(毎日新聞2005年11月16日付「戦後60年の原点」)より引用、抄録。
 
 復員兵は、炭鉱しか職がないので、下村定に尻を叩かれるまでもなく、坑夫の安全確保より生産を優先する各地の炭鉱に入り、多くの坑夫が資本と国家に収奪されて、地底の坑道で傷つき、死んだのだった。

  大日本帝国の残党と経団連とマスコミ人が
  アメリカの手先になって推進した棄民政策。

 このように敗戦後の一時期は石炭に頼り切っていたにも拘らず、復興に一息つくと、日本を占領したアメリカは直ぐに本音をだし、日本国内に高まっていた反米勢力を潰しにかかります。アメリカの支配に反対していた労働運動の中核だった石炭の炭労と鉄道の国労を潰す、反米勢力の労組潰しを、大日本帝国の残党と経団連とマスコミがアメリカの手先になって深謀遠慮で進めるわけです。
 コストの高い国内石炭は不要であるとして、膨大な量の埋蔵石炭と炭鉱労働者と家族を遺棄しました。移住先は天国だと嘘を吐き、家族もろとも海外にまで追いやりました。炭鉱労働者と家族に幻想を抱かせた移民事業に加担した役人は許せません。遡って罰を加える時代が来てほしい。
 昭和25年(1950年)に炭鉱を国家管理する臨時石炭管理法の廃止/1955年に原子力基本法を成立させた中曽根康弘、正力松太郎)、原子力の平和利用で世論操作(1955年の新聞週間の標語は〈新聞は世界平和の原子力〉) バカなことを!  
 1960年三池争議・総労働対総資本、労働者の生産管理を許すな!が資本側の合言葉。6月、新安保条約を岸信介が強行採決、成立、発効。大日本帝国の亡霊がアメリカの手先なって、日本の針路を決めました。1962年10月には石油輸入の大部分を占める原油の輸入自由化/1963年(昭和38年)10月、日本原子力研究所・東海村の動力試験炉で原子力発電/1968年、核を積み込んだベトナム戦争中の原子力空母エンプラが佐世保港に入って、日本の平和と理想を蹴散らした。岸、中曽根、読売の正力、朝日の緒方らがアメリカの走狗となって、日本のアメリカ属国化を推進したのです。
 岸・佐藤・安倍という国賊に継承されて今に至りますが、さらにアメリカのお古の兵器を言値で爆買いしてアメリカに最大の貢献があった安倍晋三を国葬にして、岸田も安倍の権益を継承し、アメリカの靴をなめるのでしょうか。

  あ~ぁ、長崎は、今日も戦場化前だった~
 
収集した資料を見ていましたら、2021年新年の長州新聞が「『沖縄化』する本土」という見出しを立てていました。
 反射的に「『戦場化』する本土」と読み替えた私です。
 そこで、「長崎・佐世保・崎戸」ですが、まさに「戦場化」前状況ではないでしょうか。
 先ず、佐世保。54年前1968年、エンプラ寄港反対で反米・反戦が佐世保発で全国が盛り上がりましたが、現在は、アメリカ海兵隊と自衛隊が合同で演習する時代です。佐世保周辺にあった炭鉱が壊滅し、SSKも沈没し、ハウステンボスも迷走し不景気風が吹き荒れ、水需要を過大に水増しした石木ダム計画も自治体財政を圧迫しかねません。
 文化庁が音頭をとる日本遺産、「日本近代化の躍動を体感できるまち 佐世保」…日本の近代化の躍動が軍港だ、海軍という軍事力だと、笑わせるな! ですが、「戦場化」前。軍港がなぜ、文化か? 平和産業都市と旧軍港を並列でキャッチフレーズした文化庁、地方自治体の頭の中味が狂っています。
 *日本遺産35番「佐世保など4港・元鎮守府」
 朝鮮特需の記憶が佐世保の商売人に強く記憶に残っているのか、商売人は「外国で戦争が起きて、佐世保港が忙しくなるといい」なんてことを平気で言う人もあるそうです。だから、19日市民の会のデモ行進を露骨に嫌う人もあり、無関心にうんざりします。この19日佐世保市民の会のデモは1968年1月19日から50年余、休みなく連続して行われています。良識ある佐世保市民の灯火です。ぜひ、一度ご参加ください。
 今話題は、相浦駐屯地の・水陸機動団、日本版海兵隊です。5月下旬に、離島奪還を想定。陸上自衛隊水陸機動団が宇久島で訓練したり、6月下旬以降には、相浦駐屯地及び海上自衛隊大村航空基地において、オスプレイ飛行訓練を予定しているとか。
 次に、わが故郷の崎戸ですが、こちらにも水陸機動団が、演習場の計画を住民にアプローチ。市役所に事前説明がなく、先に住民を押さえようと、あるいは一部住民が陸自に「来んね」「来んね」と誘いをかけたのか?  今年はじめ、崎戸に行ったら、「軍用車」3台に遭遇しました。下見か訓練か、日常化しているようです。
 住民が反対の声を上げ、漁協がアメリカ海軍と海上自衛隊で使用されているエア・クッション型揚陸艇(上陸用舟艇/LCAC(エルキャック))の巨大な扇風機がうるさくて魚がおらんようになると反対し、現在は宙ぶらりといったところ。
 この島は今もほとんどが軍需企業の三菱のものだから、土地を国に差し出てし、崎戸はいつでも戦場化するでしょう。オスプレイが着陸しやすい「さんさん元気ランド」という場所もあるし、LCACが上陸・訓練に適した場所も確保されています。気が付いたら、崎戸は、戦前が石炭で、いずれ戦争の前線基地で、「お国にご奉公」しているということになるかもしれません。
 長崎は、石炭から造船、町全体が軍需工場化したから「富国強兵・殖産興業」の幕引きとなる原爆受難を担わされたのです。今、長崎・三菱は軍事装備品の製作にシフトし、長崎の基幹産業の労働者は被爆の遠因を忘れて、現憲法の平和主義を破壊し、戦争ができる国にするべく改憲を推進する自公国政権を応援する有様です。
 長崎は、原爆受難の県ですから、受難の原因を作った国家の戦争責任を追及し、護憲をリードすることが当然のことだと、私は思うのですが、土建県政の象徴とされる石木ダムの杜撰な建設計画で、貴重な自然を破壊したり地域住民の生存と住む権利を奪おうとしたり、子ども達が目を輝かせた社会科授業を行った小学校教師を文書訓告にしたり、BSL4の施設を住宅地の中に作ったり、欠格条項を遡って適用して50代女性職員を免職処分したり、長崎では、統治主義の冷たい仕打ちが横行する。実に嘆かわしい。
 長崎は故郷ですが、落葉帰根の場所ではなくなっています。官僚による統治主義がはびこり、戦場化した故郷には帰れません。とても残念なことです。
           * * *
追っかけレポート/「公権力による教育への介入」
               /「行政への関心や批判封じ」のその後
【既報】 2021年12月15日発行「浮游庵通信 3」 
     小学校教諭を市教委が「文書訓告」処分!
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【その後】2022年5月21日 中村教諭に経過を取材
中村教諭「公平委への審査請求を取下げ」て、「本人裁判を模索」とのこと。

文書訓告は懲戒に非ず(市教委の答弁書より)により、
中村教諭は、公平委の却下裁決を予測し、公平委への審査請求を取り下げ、本人裁判を模索中である。

【経過】長崎市立矢上小学校6年生社会科の校外授業を実施した中村幸博教諭に対し、文書訓告の処分。
2021年7月 長崎市教委は「児童の保護者の許諾を得ず、校長への確認がないまま、学校外に提供した。提供先が管理するブログに児童の感想文が掲載さた」「供述書の作成を命じた学校長の命令を拒否した」こと等を理由に、A教諭を文書訓告処分とした。
2021年10月7日 中村教諭は長崎市教委による文書訓告処分を不服として、長崎市公平委員会に審査請求、処分の取り消しを求めた。
2022年 1月7日 長崎市教委が提出した答弁書に対して、審査請求代理人弁護士が反論書を作成し、公平委員会に提出。
 
 長崎市教委が提出した答弁書は、「本件訓告は、法令、規則に明文をもって定められている処分ではなく、職員が職務上の義務に違反した場合に、任命権者または上司が当該職員に対する指揮監督権に基づいて同義務違反について注意を喚起し、将来を戒めるための事実上の行為にすぎない。本件訓告は、制裁的実質を有せず法的地位に変動を生じさせるものではなく、何らの法的効果をも伴わない措置である」から、「本件訓告は、審査請求の対象となる『不利益な処分』(地方公務員法49条1項)にあたらない」と主張した。
 以上「審査請求代理人弁護士が反論書」より
2022年2月7日 審査請求代理人弁護士が審査請求を取り下げる。
「本審査請求は,実質的な審査がなされずに却下裁決がなされる可能性が高く(反論書1/1頁2項),審査請求人は,不利益処分についての審査請求に関する規則10条に基づき,本審査請求の全部を取り下げる。」

【中村教諭の取材を終えて】
 長崎市教委は、中村教諭に対して行った「文書訓告」は、中村教諭に『不利益』が伴なう懲戒処分ではないと答弁した。
 その理由は、公開で処分の違法性を審理する公平委員会の場を開かせたくない、と同時に、中村教諭の処分にいたる事実経過の公表だけは避けたいのである。考えれば考えるほど、市教委の小賢しさが見えて来る。
 疑問
 ①市教委の処分理由にある「職員が職務上の義務に違反した」事実とは何か。当該事実と過去の慣行・慣習を尊重しなかったのは制裁を目的とした作為ではないのか。
 ②市教委の処分理由にある「任命権者または上司が当該職員に対する指揮監督権に基づいて同義務違反」とは何か。その事実確認の経過を明らかにしないのはなぜか。
 長崎市教委は、中村教諭の審査請求を公平委員会の俎上にあげたくないのである。なぜなら、上記①と②について公開の場で明らかにすることは、市教委の作為が白日の下に晒されるからであろう。

 財務省が決裁文書改ざん訴訟で、突然主張を一転させて請求を全面的に受け入れる「認諾」という手続きをとったため、裁判は財務省側証人の尋問などが実現しないまま終わって、すべては闇の中に放置されてしまった。
 この財務省が決裁文書改ざん訴訟を想起した。
 長崎市教委は、財務省の「認諾」に学んで、中村教諭への文書訓告を「懲戒処分ではない」としたのであろうか。
 文書訓告は市教委の中村教諭に対する「県の事業に批判的なことはするな」という「脅し」みたいなものか。
 中村教諭は、本人裁判を模索中である。
 主権者たる国民を愚弄する官僚の主権者に対する背任行為に類する一例ではなかろうか。  (以上、文責・中西 徹)

★ 浮游社 2022~2023年の新刊予告 ★

『炭坑誌』補遺(仮題) 
渾身の炭坑誌 前川雅夫氏、
執念の書き下ろし作品❢  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「1968年 
「崎戸・佐世保・長崎」
2018年刊の『崎戸』本・Ⅰ
「うち、おい達の『崎戸』という時代」& 
2019年刊の『崎戸』本・Ⅱ
「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」を再編集、
最後の『崎戸』本・Ⅲです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大阪・維新の正体~虚勢の実録!~ 
  震源地の大阪・塚本&
十三(じゅうそう)の現場から
   板谷英夫・著
・・・・・・・・・【編集後記】・・・・・・・・・・・
*『崎戸』本・ⅠとⅡを編集したおかげで、福岡反戦集会に呼んでいただき、「『石炭』と『長崎・佐世保・崎戸』と題して話をしました。耳をかたむけていただけるような話の展開にもっと配慮して話せばよかったと反省しきりで、本通信5のように講演原稿に加筆したものを作成した次第です。伊藤ルイさんと国道202号線、現住所から佐世保・西彼杵半島・崎戸へ、現実と空想が符合する道。炭鉱棄民史をたどるような酷道を往く。(中西 徹) 
                   *
*世界的な遺産である『日本国憲法』の平和理念が踏みにじられ、アメリカの下請けで戦争する国家体制への仕上げが行われようとしています。
安倍晋三の国葬は、平和憲法を呪詛する儀式です。
あのアホノマスクを作り、数々の嘘を吐いた安倍晋三の国葬を行わせてはなりません。 (発行人・響トオル)


      * * *

みんなで叫ぼう!
アホノマスクを作り、数々の嘘を吐いた
《自民党元総裁、元首相》の、安倍晋三の

国葬に絶対反対!!! 

旧・統一教会の被害者救済は、自民党の責任!!
カルト宗教汚染の自公政権は国民に謝罪しろ!!





崎戸小の廃校/ 石碑『平和』のゆくえ// 水陸機動団が崎戸で訓練計画

2022年03月19日 18時30分55秒 | 記録
浮游庵通信 4  WEB版
Communication & Journalism 
2022年3月20日発行 発行・浮游社 発行人・響トオル 
〒814-0023 福岡市早良区原団地11棟101号
電話・FAX 092-836-7735 tohru@able.ocn.ne.jp
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長崎レポート➁
 明治以来、政商・三菱財閥の圧制と搾取の下で石炭を採掘し、帝国主義国
家・日本の侵略戦争を支えた「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」。
崎戸炭鉱があった『崎戸』は日本の縮図であると、改めて認識した崎戸取材
であった。

 崎戸町では今年3月末日で、平和教育の最初の場である小学校が廃校となる。崎戸小学校(旧・蛎浦小学校)の校門脇に、大人の体ほどの大きい石碑
が屹立している。「平和」の文字を力強く大きく深く、自然石の断面いっぱ
いに彫っている。石碑の建立は昭和25年(1950年)、今日まで70年間にわたり、地域一番の高台にある学び舎から、子ども達をはじめ町民に『平和』を
呼びかけてきた。
 崎戸には、もう一つ『平和』があった。昭和24年に建てられた鉱員用宿舎『平和寮』である。炭鉱町の中心部の高台に、鉄筋コンクリート造り三階建
ての白亜の巨大な『平和』が鎮座していたのだった。しかし、石炭と炭鉱家
族を遺棄する国策で崎戸炭鉱が1968年に閉山し50年余、炭鉱遺構の象徴だった『平和』寮は、行政と土地所有者の三菱資本に邪魔な存在となり破壊された。
 今、『平和』の残骸に土が盛られ、一帯は墳丘のようだ。
 自公に維新も加わり、現憲法の平和思想を踏みにじる政治家が跋扈する時
代である。崎戸では、戦後の『平和』を象徴したシンボルが破壊されて、も
う一つの『平和』も崎戸小学校の閉(廃)校式ですら顧みられず、忘却の途上
にある。
 崎戸で、平和を教え学ぶ学校が廃校となり、代わって崎戸に出現したのが、「奪回」という敵との交戦(戦争)を前提として編成された陸上自衛隊の水陸
機動団の訓練場計画だ。水陸機動団は佐世保市相浦に駐屯する、日本版の米軍・海兵隊である。崎戸から目と鼻の距離にある佐世保港には、米軍の艦船
がひしめいている。
 崎戸の、日本の子ども達の『平和』が危機に瀕している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼崎戸小学校の校門脇に70年間屹立する「平和」の石碑。大人の体ほどの大 
 きな自然石の断面いっぱいに、力強く大きく深く「平和」を彫っている。 
 石碑が「子ども達を再び戦場に送ってはならない」と、叫んでいるようだ。


       
昭和25年4月30日の建立。建立者は、同校の育友会一同。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注記:崎戸小学校は1968年、昭和、浅浦、崎戸(本郷)の3校を蠣浦小学
校に統合し、名称は蠣浦小学校を崎戸小学校に改めた。崎戸小学校は2022
年3月末で廃校となり、隣島の大島町の小学校に統合される。西海市の大崎
地区小学校適正配置(学校統合)実施計画によるもの。
崎戸中学校は2013年に廃校、大島町の大島中学校に統合されている。さらに、令和4年度末で幼稚園、保育所も大島町のこども園に統合される予定と
いう。子育て環境が大きく変化することでさらなる過疎化が懸念されている。崎戸町は、2005年4月の5町村合併で、西海市に属する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「平和」を彫った石碑が見つめた崎戸小学校の閉(廃)校式

 3月13日、崎戸小学校の「閉校式」と「感謝のつどい」が崎戸町中央公民
館と小学校運動場であった。この日時点の児童数は21人。
 海岸べりの道路に面した中央公民館から傾斜がきつい坂を上がって、校門
前でひと息ついて見上げた視線の先に、ブロック五段で正方形に固めた土台
に自然石を重ねて巨大な石碑が屹立している。この自然石には「平和」の二
文字が力強く大きく深く彫られている。
 閉校式典で、この小学校(旧・蠣浦小学校)の卒業生である杉澤泰彦市長
はじめ射場邦子校長ら地元で要職にある人々が挨拶したが、だれ一人として「平和」を彫った石碑について触れもせず、子ども達と郷土の「平和」を語
らなかった。
 現在、世界中の人々がロシアとウクライナの戦争に関心を向け、戦争反対
を叫び、平和を希求しているという状況である。崎戸の子ども達もテレビや
新聞で悲惨な状況に置かれている世界の子ども達の現実を知っている。
 崎戸小学校は、今日まで70年にわたり、校門脇の石碑で「平和」を掲げている学校である。大人達は大きな声で、なぜ石碑の「平和」を子ども達に
改めて伝えようとしなかったのだろう。大人達は「平和」を忘却していたの
だろうか。学校は廃校になる。
 この「平和」の石碑は、いかなる運命をたどるのだろうか。

『崎戸』は日本の縮図。平和が廃れ、再び戦争の足音が…

 崎戸が、陸上自衛隊が新たに編成した精鋭部隊・水陸機動団の訓練場にな
ってしまうという風の便りが届いたのは昨秋だった。崎戸の土地の大半は、
石炭を採掘した三菱鉱業の後継企業の三菱マテリアルが所有しているので、
地元住民が過疎地振興を名目に賛成したら、訓練場計画は容易に進み、崎戸
は戦場の様相に一変する。住民は、平和な生活環境を失ってしまうと危惧し、不安の色を濃くしたのだった。昨年10月からの経過は以下の通り。
 10月 水陸機動団による崎戸町住民説明会。これに先立ち、崎戸町行政区  
    長会で水陸機動団の訓練計画をめぐって議論が行われる。
 11月  郷土を愛する有志が「崎戸町生活環境を考える会」(代表・上野久
    美子さん)を結成。~陸上自衛隊水陸機動団の訓練計画は全島全域
    が対象で、巨大なヘリコプターによる騒音による生活環境の悪化や
    漁業への影響が危惧される~として、西海市長宛に申し入れを行う。
       西海市12月定例市議会(30日)で、渕瀬栄子議員が水陸機動団の訓練
               計画について質問し、西海市長として対応すべき重要案件であり、    
    市長としての考えを市民に示すよう求めた。杉澤泰彦市長は、自衛
    隊から丁寧な説明を聞いて判断したい、と答弁。
    渕瀬議員は、訓練計画が市会議員にも知らされていない、と苦言を
    述べ、西海市としての対応を強く求めた。
 12月 「崎戸町生活環境を考える会」が西海市長に「西海市は、住民の合 
    意が得られていないことを踏まえ、陸自水陸機動団の訓練計画の中
    止を求める」要望書を提出。応対した西海市長は、訓練計画は中止
    と水陸機動団から連絡があった、広報する、とも。
 1月     19日、崎戸島の旧・ホテル咲き都の展望台駐車場に、陸上自衛隊の
    車両3台が駐車していた。この場所は眼下には荒磯が広がっている。   
    訓練場所を視察していたのだろうか。カメラを向けると直ぐに移動。
    水陸機動団の調査活動か? 地元では、訓練計画は中止ではなく休
    止で、計画の見直しと受止める声もある。
    3月まで、市発行の広報紙に市長見解、経過の記録、訓練計画中止
    の広報はない。

    
                  
    
                ●
 西海市崎戸町の人口は1200人余り、過疎地だ。全国各地の過疎地に軍事
施設や原発、巨大風力・太陽光発電装置が突如出現し、人々の穏やかな日常
を脅かす。
 明治から昭和の敗戦まで、日本(人)は他国を侵略し悪行を重ねた。1945年
の敗戦で、崎戸も被爆地・長崎も日本全体が軍事・翼賛体制を恥じて、明治
以来の帝国主義国家を否定し、国民主権の新しい憲法に平和を規定し、心に
銘記した。平和を希求する国家に生まれ変わったはずだった。しかし、アメ
リカの金に媚びて、自衛のための防衛力という戦力は膨張を続け、「敵基地
攻撃能力」という政治的な言葉で戦争を肯定する憲法(武力行使の放棄)違反
がまかり通る。日本が世界に誇れる平和憲法なのだが、核に怯えて核保有を
公然と主張する元首相や、日本維新の会関係者などが核抑止力という幻想に
取り憑かれ、核自滅への道に踏み出している。核は怯えと狂気だ。核は再び
使われたら世界の終末である。核抑止力は幻想にすぎない。
 日本人は歴史を顧みて、愚行を重ねてはならない。武力行使の放棄と戦力
の不保持を規定した平和憲法こそが、真の平和を実現するのだ。 
             文責・中西 徹(浮游社・編集者/崎戸町出身)
★ 浮游社 2022年の新刊予告 ★
『炭坑誌』補遺(仮題) 
  『炭坑誌』の著者・前川雅夫氏、執念の書き下ろし作品❢
「1968年。うち、おい達の『崎戸』という時代」
   2018年刊の初版を増補改訂
               

【長崎】公権力が教育内容に介入/市教委が行政批判封じの圧力/【福岡】リビジョニストの大学学長

2021年12月15日 14時41分36秒 | 記録
図書出版・浮游社のコミュニケーションペーパー

浮游庵通信 3  2021年12月15日発行
発行・浮游社〒814-0023 福岡市早良区原団地11棟101号
電話・FAX 092-836-7735 tohru@able.ocn.ne.jp
                                      
・・・【長崎レポート】・・・・・・「なんばしよっとかぁ~ッ!」①・・・

   「公権力による教育への介入」 「行政への関心や批判封じ」
      小学校教諭を市(長)教委(崎市)が「文書訓告」処分!
       県・市職労組、市・県教組は、沈黙か?
         問われる長崎県と市教委の体質

 原爆受難の長崎市は、長崎県第二の都市であり米軍基地と自衛隊に依存する佐世保市とともに「自然、平和、人権」を守ることに一生懸命に取り組んでいるとばかり思っていたが、実はそうではない。現実は、全く逆行しているのである。
 長崎県下の自治体にとって、「自然、平和、人権」とは何だろう。
 虚飾なのか?
 その第一の事例は、県と市の事業である石木ダム計画に対する県民の反対運動に苛立った公権力が、小学校6年児童の目が生き生きと輝がやいた校外授業を企画・実行したA教諭に対し、本年7月に【文書訓告】という「御上の神経を逆なでした生意気な奴!」とばかりに発令したお粗末な懲戒処分だ。
 第二の事例が、長崎大学が平穏な住宅街に住民の反対を押しのけ建設し、運用を予定しているBSL4である。 *BSL4とは、死者続出のエボラ出血熱をはじめ、細菌・ウイルスなどを取り扱い、バイオセーフティレベルが最も厳重な基準のレベル4の実験・研究施設である。
 原発事故はないと推進者は言ったが、事故はあったのだ。風向きによっては首都が壊滅だった。BSL4研究施設には100%事故はないのか。事故ったらパニックだ。COVID-19どころの騒ぎではなくなる。賛否議論の末、どうしても必要という結論であれば、住宅街ではなく、他に場所の選定はできないか。長崎県は島が多いし、過疎化した廃坑の島を活用するのも検討材料になるのではないか。
 もう一方の懸念、軍事研究絡みは杞憂か? 
 国・県・大学、不信のシンジケートの一例。国家権力による学術会議新会員6人の任命拒否は放置され、是正されていないのである。
 クラウドファンディングCALL4のHPを参照してください。
 第三の事例が、佐世保市のアナクロニズム! パンフレットの宣伝文句は 「海軍さんの港まちSASEBO《軍港クルーズ》」!?? 長崎県、佐世保市当局者がともに役員に名を連ねる公益財団法人の佐世保観光コンベンション協会が、佐世保港は「海軍」の港だと大宣伝! 海上自衛隊を「海軍」だと!? 海上自衛隊の佐世保地方隊があるから「軍港」か? 観光協会関係者はアナクロ汚染の脳で正しい時代認識が不能なのかしら?
 軍港市から平和産業市に転換することにより平和日本実現の理想に寄与することを目的とした「旧軍港市転換法」(1950年に公布施行)を踏みにじり、アベ自民党の改憲より先に人口減少で沈没しそうな佐世保市だ。 
 いずれも、呆れて「(県や市の公権力は)なんばしよっとかぁ~ッ」である。
 ふるさと長崎に落葉帰根(途上)の元県民がレポートする、第1回。

       小学校6年生社会科の校外授業テーマ
        「自然、平和、人権を考える」で
           A教諭を処分は、なぜ ?
 
 11月21日、佐世保市でA教諭を囲む会が開かれ、A教諭から経緯を聞くとともに、参会者が意見交換した。主催は石木川まもり隊、30人余が参加した。
 当日の取材と、経緯と処分の疑問点をまとめた石木川まもり隊のブログを参照し、A教諭の処分の背景と問題点をクローズアップする。

       こうばるさるく ~自然、平和、人権を考える~

 校外授業のテーマは、「こうばるさるく~自然、平和、人権を考える~」(「さるく」は、長崎の方言で「歩く」の意で、こうばる地区を歩きまわる)で、実施場所は、佐世保市の南東側に隣接する川棚町川原(こうばる)地区である。
 社会科見学のテーマごとに教材となる背景をみる。
 テーマ①自然>川原地区は、長崎県のレッドリストに載っている希少種が多く生息し、ホタルも乱舞する自然が丸ごと残っている。
 テーマ②平和>川棚町は、長崎がアメリカから原爆攻撃された戦争の最中に、三菱長崎兵器製作所や佐世保海軍工廠で製造された魚雷の発射試験場があり、特攻「人間魚雷」の訓練なども行われたところ。戦争遺構も残っている。
 テーマ③人権>川棚町を流れて大村湾に注ぐ二級河川の川棚川の支流で、小川にすぎない石木川の流域である川原地区で約60年前に県によってダム建設が計画された。
 住民の意向を無視し、機動隊を導入した測量も行われた。県は住民の合意を取り付けるための真摯な話し合いを拒否し、土地の強制収用を前提とした県によって地元住民の生活・生存権など、人権が圧殺されようとしている。

          A教諭「文書訓告」の経緯

 川棚町川原地区での、長崎市立矢上小学校6年生社会科の校外授業は、A教諭が担当するクラスのみの企画でスタートしたが、学校長の賛同と指導を得て、6年生全クラスの企画となり、学校長承認のもとにA教諭が主体的に動き、「自然、平和、人権」のテーマでマスコミ関係者や地元住民、自然科学専門家など外部講師への依頼も行われた。ダム計画を県民に説明するべき立場にある県河川課や佐世保市水道局は講師依頼を断っている。
(2020年11月) 社会科の校外授業を終え、児童は感想文を書き、A教諭は児童の同意を得て、見学で世話になった人々にお礼として児童の感想文を送った。川原地区で計画されているダムに深い関心を向け、問題提起を続けている石木川まもり隊の代表・松本美智恵さんにも手渡した。
(2020年12月) 松本美智恵さんが石木川まもり隊のブログに児童の個人情報を伏せて、6編の感想文を掲載したところ、学校長から児童の感想文掲載を削除するように要請があり、松本さんはA教諭の立場を考慮して学校長の要請に応じた。
 (2021年7月) 年度が変わり、A教諭が別の小学校に異動したあと、長崎市教委は「児童の保護者の許諾を得ず、校長への確認がないまま、学校外に提供した。提供先が管理するブログに児童の感想文が掲載された」「供述書の作成を命じた学校長の命令を拒否した」こと等を理由に、A教諭を文書訓告処分とした。
(2021年10月7日) A教諭は、長崎市教委による文書訓告処分を不服として、長崎市公平委員会に審査請求し、処分の取り消しを求めた。
(2021年11月9日) A教諭と中川 拓弁護士が長崎市で記者会見を行った。

           報道の視点は「石木ダム」問題

 記者会見を伝える地元の報道に共通している視点は、全国的に計画中止を求める声が広がっている「石木ダム」問題だ。
 文書訓告処分を石木ダム絡みで報道しているが、校外授業の中身や児童の感想文には踏み込んでいない。長崎県と佐世保市が反対運動に神経を尖らせている場所を選んだから、A教諭は文書訓告処分を受けたと、処分の背景を炙り出しているようであるが、「公権力による教育への介入」や「行政への関心や批判封じ」という、市教委による文書訓告処分の問題点を穿つ報道ではない。
 A教諭と弁護士は「公共事業(石木ダム)を取り扱ったことへの報復処分」だと、文書訓告を批判している。
 A教諭は以下の三点を主張している。
 ①矢上小学校校長及び長崎市教委への虚偽目的、計画、報告という嫌疑がかけられ、その路線の元に供述書を作成するように職務命令が私に発せられたことが不当処分の原点である。
 ②事実関係や経緯が整合していない処分理由はありえない。違法・無効である。
 ③児童の個人情報を口実に、教育行政が教育内容にまで介入するべきではない。(児童による感想文は、修学旅行やさまざまな見学先でお世話になった先に送って、お礼の返事も受けており、これまでも慣例化しているし、全く問題になっていない) 
 さらに、「昨年(2020年)11月中旬から今年(2021年)7月までの約8カ月間、校長、(長崎)市教委、そして関係した者たちの間で何があったのかを、教育関係者らしく、指導者らしく、自ら潔く明白にしていただきたい」と要求しており、市教委の答弁が注目される。
 以上がこれまでの経過である。

              石木ダムについて

 石木ダムは、長崎県と佐世保市が計画し1962年に地元に事前の通告もなく測量が行われたことから顕在化して、ダム建設反対運動が高まり、約60年が経過している。石木ダム計画には治水の専門家からの批判に加え、ダム計画の根拠とした水需要予測も二転三転し、杜撰な計画であることが利水専門家からも批判されている。
 県行政が悪質なのは、知事と地元住民代表が交わした《覚書》を県側が破棄し、県民との信頼関係を自ら断ち切って、地元住民の平穏な生活・居住権を奪うという憲法が保障する人権を蹂躙している事実である。
 1972(昭和47年)7月29日、石木川の河川開発調査に関して、長崎県知事と地元(川原郷、岩屋郷、木場郷)の総代三者が川棚町長を立会人として、「ダムを建設する必要が生じた時は、書面で地元の同意を得た後に着手する」という《覚書》を交わした。しかし、長崎県は《覚書》に違背して、ダム用地の買収を進め、用地買収に応じない住民に対しては所有地の強制収用の宣言を行い、地元住民の反対行動を排除し、深夜早朝に闇討ちのダム工事前の道路工事などを実行してきた。

       社会見学を生き生きと綴った児童の感想文
      「自然、平和、人権」学習の素晴らしい事例

 社会科見学の校外授業は「自然、平和、人権」をテーマに行われたのであり、計画中止が求められている石木ダム計画現場の見学ではない。児童を誘導して、石木ダム計画反対で感想文を書かせたわけでもない。
 児童の感想文が提供された経緯と、ブログに掲載した理由ついて、石木まもり隊の松本美智恵さんがブログで語っている。
「~子どもたちの心にはどんな言葉や景色が残ったでしょう?今回の社会科見学を計画して下さった先生や、その計画を実現してくださった校長先生や6学年の先生方の勇気に心から拍手を送りたいと思います~と、児童の社会科見学を伝えていたのです。A教諭は見学の前に石木川まもり隊のブログを見て、事前学習していて、お礼の意味もあったのでしょうか、実際に感想文を読んで欲しいということで提供を受けたものと思っています。
 ブログでは、児童の個人情報は何も掲載していません。社会科見学を生き生きと綴った感想文だけです。
 児童がそれぞれ体感したこと、自然の面白さだったり、防空壕の不気味さだったり、川原のおじさんたちの故郷への想いだったり、そういうことが真っ直ぐ伝わってくる感想文でした。余計な先入観で身構えない子どもだからこそ、見るもの聞くもの素直に受け止め吸収できるのだと感じました。
 各クラス2編ずつの計6編だけをブログに掲載し、多くの人に読んでもらい、社会科見学の素晴らしい事例として知ってほしかった」

           市教委の判断に疑問の渦・渦・渦

 長崎市教委の判断に疑問の渦が、大潮の日の西海橋の渦巻きのように日増しに大きくなっている。
*児童が書いた感想文を見学のお礼として関係先に渡すのは不可? 
*児童は承諾しているのに市民グループのブログに掲載することは不可? 
*石木川まもり隊のブログからの削除を求めた校長、市教委は、いつ・どこで  
 ブログ掲載を知ったのか? あるいは、誰から知らされたのか? 
*社会科見学は校長も理解し、指導もしていたのに、なぜA教諭だけ処分され
 たのか?
 A教諭の文書訓告処分で問われるのは、公権力による教育への介入である。さらに、長崎市教委が県の事業である「石木ダム」計画への関心や批判を封じるという異様さである。
 年明けに予定されている長崎市公平委員会の公開審理が注目されている。
                           (2021・12・3)

             中西 徹(浮游社の編集者/フリーライター)              元・長崎県民(旧-西彼杵郡崎戸町、現-西海市)

 *この長崎レポートは、12月15日付で浮游社のブログに掲載しました。

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   『炭坑誌』補遺(仮題) 
  ~石炭・炭鉱の世紀を読む~『炭坑誌』の著者
          前川雅夫氏、執念の書き下ろし作品❢
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
改訂増補!
「うち、おい達の『(炭)崎戸(鉱の)』(島)という時代」
        ~2018年刊の初版を改め、増補編集~
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「浮游」読者の皆様へ   2021~2022、年末年始のご挨拶です。 
   コロナ禍で、暗鬱な気分にさせられる出来事ばかりが続く昨今ですが、今般の衆院選後に大笑いする出来事がありました。
 大阪維新の吉村洋文(現大阪府知事)は、2015年9月の時点で、衆議院議員を辞めて大阪市長選に出馬を決めているのもかかわらず、悪賢い男らしく10月1日で議員辞職届けを出して、まんまと国から10月分の文通費100万円をせしめて無駄使いしていたという事実が、れいわ新選組の衆議院議員に選出された大石あき子さんから指弾され、自分が受け取っていないかのような顔して、新人議員の「一日で文通費100万円受け取るのは不当だ」発言に悪乗りし、「れいわ新選組や立憲は受けるんか!」とほざいた吉村、橋下、松井のドヤ顔に特大ブーメラン。大石あき子さん、がんばれ~!ペテン師3人は開き直りましたが、迫力なし。それでも府知事・市長を辞職しない厚顔無恥。こんなペテン師に騙されたらアカン! 橋下徹や松井一郎や吉村洋文が街頭やTV画面に出たら、嘲笑し電源OFF! 竹中平蔵やペテン師たちが出るTV、特にytvは電源OFF! スポンサーの商品は買わない! 
 わが故郷・長崎でも「なんばしよっとかぁ~ッ!」と叫んでしまうようなことばかり。
 地域版で消えて行く問題を追う長崎レポートや、在住する福岡、隣の佐賀の呆れた人物や自治体役人の理不尽な行政行為、時には感動譚などお届けします。
 あぁ、恥ずかしい!*世界から笑われるよ!【アナクロ汚染の大学学長】 
【福岡】元衆院議員(福岡10区)で九州国際大学(北九州市)学長の西川京子(76)が10月、熊本県立高校の行事で講演し、太平洋戦争を「大東亜戦争」と発言したり、太平洋戦争について「アジア全体を栄えさせ、独立させるための戦いだった」と。
 県教委の「説明が不十分だった」に唖然。(12月10日付、朝日新聞デジタルを参照)。
「説明不十分」? どうしたら、歴史歪曲の考え方になるのか? 
 西川京子学長の呆れた「国際」感覚。九州・福岡が世界から笑われるよ!西川京子は、完璧な歴史修正主義者(リビジョニスト)。こんな人を学長にしたのは誰? 派閥の麻生太郎か? 
 アナクロ汚染の脳ミソで学長や政治家をするな! 
 学生がアナクロニズム汚染されないよう正しい歴史認識の教育が必要なのですが・・・。福岡、長崎とも、教育委員会が権力に阿諛追従して、日本沈没の2022年か? 皆様、ご用心くださいませ。        (響トオル)

創造的虚無思想について

2021年08月02日 19時54分06秒 | 記録
 『虚無思想研究』20終刊号 「辻潤全集」未収録作品の発掘・収録
  & 創造的虚無思想へのオマージュ~「栞」より

創造的虚無思想について                                  
【典拠】マックス・スティルネル(Max Stirner, 1806~1856  現在はシュティルナーと表記される)の著書「唯一者とその所有」にあります。原文はドイツ語ですが、英語版の「The Ego and His Own」を、辻潤氏が和訳(1920年4月)した際に、初めて『唯一者とその所有』と『創造的虚無』の語句が創出されました。
 現在、手にしやすい出版物では、「辻潤著作集6」(1960年 オリオン出版社)と、「辻潤全集 第六巻」(1982年 五月書房)に収録されています。片岡啓治氏訳の現代思潮社・古典文庫(1977)もあります。
『創造的虚無』とは何か。
 辻潤氏は「自我であり、己れである」と言っています。辻潤氏は「唯一者とその所有」の冒頭『読者のために』で、「僕はただ自分を自我(スティルネルはそれをschöpferische  Nichts 創造的虚無と呼んでいます)の趣くまま生きて行くのみであります」と書いています。
 スティルネル(シュティルナー)自身の言葉は『序文』(訳・辻潤)に、「己れは創造的虚無だ。その無から己れ自身は創造者として万物を創造する」とあり、さらに、「唯一者とその所有」の巻末で、「万物は己れとって無だ」と締めくくっています。
 「個」=「唯一者」を圧し潰す明治以来の天皇制国家の全体主義が蔓延る日本ですが、”Individual Anarchism’”(個人主義的なアナーキズムの思想)と、辻潤氏による”The Ego and His Own”の和訳(唯一者とその所有)で提起された創造的虚無思想は、<己れ(私)が己れ(私)自身を生きる>と思い定めた人々によって、その生きるかたちに違いこそあれ、今後も脈々と継承されていくであろうと、私は確信しています。 
                        文責/発行人・響トオル     


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「虚無思想研究」20 終刊号 発行に伴うお知らせ

2021年07月25日 15時22分50秒 | 記録
お知らせ●大月 健が所蔵の辻潤関連の書籍を、静代夫人の提供により、
     お譲りします。(一部に汚れ、書込み、棒線等記入等あり)

▽「辻潤著作集」全六巻+別巻 月報有り 一九六九年~一九七〇年刊 
                        オリオン出版 6,000円
▽「辻潤全集」全九巻 一九八二年刊  箱にヤケ有り。  五月書房 1万円 
▽「完全復刻版 虚無思想研究」(大正十四年七月~大正十五年四月) 
  美本 解説・大月 健 一九八六年刊                        土佐出版社 1万円
▽「辻潤の思い出」松尾季子著 跋文・高木護 一九九二年刊 少しヤケ有り
                                                                     虚無思想研究編集委員会 4,000円
 以上、一括で2万円。分売は、一括ご希望者が無い場合に
●既刊号は在庫僅少です。事前に在庫確認していただき、ご注文ください。
▽創刊号から10号まで一部定価550円(本体500円)。
 11号から一部定価880円(本体800円)。
▽ダダイスト・辻潤書画集は、定価1,100円(本体1,000円)。
 美本です。

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