ノスタル爺のひとりごと

日々のできごとや感じたことをしゃべくっています。
お出かけで撮りためた写真を展示したり時々旅日記です。

エルトゥールル号

2019-11-26 | おもいつき
夏に旅行した串本のホテルの庭にあったエルトゥールル号
この旅行でこの事件を初めて知った。なんかとても感動的でいい話だね
トルコのことをもっと知り、旅行もしたくなった
船の模型を海を背景に撮って模型の台座の部分をカットして
海に浮かんでいるように仕上げた。我ながら結構うまくいった
昔もこんな感じだったのかな~

今回は事故のことについて「ピクシブ百科事典」から転載してみた
事故概要
1889年7月14日、当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号は、提督以下650人の使節団を乗せイスタンブールを発ち、インド洋沿岸の各国に立ち寄りながら、翌年6月横浜港に到着。明治天皇へ親書を渡し終えた後9月15日に横浜港を出港し、帰国の途へ向かっていた。ところが、翌16日夜和歌山県串本沖を航行中、台風に遭い座礁。650人の内提督を含む587人が死亡するという大惨事になった。
エルトゥールル号の来航は、松宮彰仁親王が当時のオスマン帝国皇帝(スルタン)アブドゥルハミト2世に面会、明治天皇の親書を手渡したことへの返礼の意味合いで、友好親善が目的だった。長い航海で船は損傷し、日本では多くの乗員がコレラに見舞われたため、乗組員の消耗は限界に達していた。そのような状況を見た日本側が台風の時期をやり過ごすように忠告したが、海軍の弱体化を隠したいアブドゥルハミト2世は出航を強行させ、台風に遭遇したものである。このように遭難は人災の側面が強かった。
嵐の中の救出劇
事故後、生存者が崖をよじ登って近くの樫野崎灯台に駆け込み灯台守に助けを求めたが互いの言葉がわからない為、国際信号旗を介して灯台守は生存者がエルトゥールル号の乗員である事、そして艦に起きた事態を把握した。灯台守の知らせを受けた近くの大島村の住民たちは、暴風雨の中総出で救助活動と介抱を行い、村の学校や寺に運び乗組員達に着物を着せたり、残り僅かだった自分達の食料を与えるなど献身的に看病し、結果69人が生還した。翌朝、事故の知らせを聞いた大島村の村長は神戸の外国公館に乗組員を神戸の病院に搬送する手配を要請。合わせて、和歌山県を通じて日本政府に連絡。これを聞いた明治天皇は心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。また、新聞各紙が大々的に報じ、全国から弔慰金や義捐金が送られた。
95年後の恩返し
事故から95年後の1985年、イラン・イラク戦争が勃発。この時、当時のサダム・フセインイラク大統領は「48時間後にイラン領空にいる外国機を無差別攻撃する」と宣言。各国政府はイランにいる自国民救出のため飛行機を首都テヘランに派遣させた。しかし、日本政府は自衛隊機を派遣出来なかった(当時自衛隊機の海外派遣は原則出来なかった)うえ、日本航空も安全が担保出来ないとして、臨時便を出さず、テヘランにいた日本人215人が孤立する事態になった。これに対し、在イランの日本大使はトルコ大使に窮状を訴えたところ、「私たちはエルトゥールル号の時の恩を知っています。今こそ恩返しさせていただきます」と言ってこれを快諾。トルコ政府の要請を受けたトルコ航空機によって215人全員が無事脱出し、トルコ経由で日本に帰国した。この時、飛行機がイラン領空を脱出したのは攻撃数時間前という間一髪のところだった。
《ピクシブ百科事典より一部転載》



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