今日は大晦日。
2017年も今日で最後だ。
あと半日もすれば2018年が始まる。
トランプ大統領の就任、衆議院選挙、米朝の関係悪化...etc
世間的にも色々動きがあった。
2016年から続く不倫などの醜聞疑惑も芸能界だけにとどまらず、一般社会から政界に至るまで数多く暴かれていた。
その中で、個人的に今年一番印象的だった言葉は「イキリオタク」だ。
オタクというジャンルの市民権を得ようと自分を必要以上に格好良く見せようとするタイプの人種。
「俺オタクだけど彼女いるぜw」「オタクが経済を回してる」なんてのはその典型。
ネットのいたるところでその薄ら寒く痛々しい言動から出来た言葉なのだけど、この言葉に潜む「自己への信頼の欠如」のようなものを、俺は今年強く感じている。
言い換えると自分に自信がないという流れ。同時にこの風潮こそ、来年の俺がテーマにしたいことでもある。
イキリオタク。その本質は強烈な自己肯定と承認欲求だ。
「#○○好きと繋がりたい」とかいうハッシュタグを使いたがる寂しん坊と同レベルだと思っている。
俺はこいつ等がそのジャンルを心の底から好きな奴だとは思っていない。
そもそも「俺オタクだけど~」「オタクだったから~」なんていう前提おいてる時点でオタク馬鹿にしてんだろうが。
連中にとってオタクであるという事はステータスであり、それが普通の人とは違う特別であるという事、いわば「異端で畏れ多い存在」として認めて欲しいのだと、俺は考えている。
本当は大したモノも度胸もない小市民のくせに、畏怖される存在になりたがっているんである。
ただ、オタクという人種に限らず自分を必要以上に装飾したがる風潮はよくある話になったと感じている。
こういった感情は年頃の子なら思う事はあるだろうし、中二病なんて言葉は今時の意味でも昔の意味でも、その最たる例だ。
ただ、幸か不幸かSNSが発達した昨今、簡単に自分を発信・演出できるようになっている社会なのである。
これまでメディアや芸能人の専売特許のような扱いだった「社会への発信」は、我々一般人でもタップ・クリック1つで出来るようになり、いたるところで自己発信に勤しむようになる。
旅行で素晴らしい景色やイベントを体感する充実感よりも、インスタで素敵な自分を演出させるために旅行に行く奴だってよくある話になっているじゃないか。
「インスタ映え」なんてその筆頭そのものだ。
大した華があるわけでもないのに、そこかしこで写真を撮ってはSNOWか何かで加工して気色悪い顔面を晒し上げているわけである。
自己肯定も承認欲求も悪いことではないし、誰しも持っているもの。
このブログだってコメント欄は不毛すぎるから入れていないので承認欲求からは程遠いとは思うが、一種の自己肯定である。
とは言っても、この「ショボい自分を必要以上にカッコつけよう・綺麗に見せよう」とするこの風潮は実にクソくらえだ。
昔は音楽聴いている奴=不良とかいう、今思えばちょっと可哀相でしょ的なレッテルもあった。
でもオタクはキモいで良いと俺は思っている。プリクラアイコンなんてクリーチャーの類で良いじゃないと思っている。
SNSとかで何か貶されたら秒速単位でシュバり倒しているアニメアイコン共観てみろ。
あんなんどう見たって正常じゃないだろ。
口汚く罵っていても正論吐いていさえすりゃ皆頷くとでも思ってんのかあいつら。
「#あなたっぽいアニメキャラ」ってハッシュタグが出た時なんか大惨事だっただろうが。
何で皆揃いも揃って4年前のエピソード語り出すんだよ。
「#あなたがガチギレすると」のハッシュタグの時も忘れるんじゃあないぞ。
あいつらキレると軒並み記憶無くすらしいからな。
ハムスター系男子とか観てみなさい。終いにはポテトアイコンやぞ。
嘘松だって似たようなもんだぞ。あいつらの地獄耳っぷりったらないぞ。
何で事細かにセリフを一字一句聴いてるんだよ。そこまでして「いいね!」が欲しいか。
あと自己肯定の一種として現実逃避していく風潮も多く見受けられた。
ショボい自分を観たくないから、現実にはない自分に都合のいい様な舞台を妄想の中で作り上げ、そこに安寧と共感を見出す考え方。
なろう系、嘘松、スカッとジャパンみたいなタイプの奴だ。
異世界へ行って完全無欠なステータス手に入れて美少女にチヤホヤされている場合じゃない。
スカッとするエピソードなんか創った所でそれを自分に還元させていかなきゃ意味もないし、独善的な行為が周りを不幸にすることだってある。
いずれにせよ、現実から逃げたってどうせ明日はやってくるんだ。
自分は特別な存在でも何でもない。ありふれた有象無象に過ぎない。
それを認めたくないかのように、この手のジャンルが絶賛されている様を観ていると「おまえらそんなに自分に自信がないのか」と言いたくもなる。
ダメな自分を認めたうえで前向いて生きていくことこそ、大事なんじゃないかと俺は思っている。
テキサス・ホールデムやってるわけでもないのにそんな装飾したところでどうせボロが出るだけなんだから。
イキリオタク、嘘松、インスタバエ、なろう系、意識高い系、真面目系クズ...etc
ここ数年で虚飾に塗れた連中を嗤うワードがいくつも出てきた。
こういった連中は、俺にとっては非常に良い反面教師になってくれている。
こいつ等が醜態を晒してくれているからこそ「うわあ。。。こういうのにはならんとこ。。」と改めて想えるわけだ。
自分の持っている能力や知識など、手札を増やすには時間がいる。
ツイッターでイキッたところで返ってくるのはRTといいねだけで、何の実にもならない。
そして過度なアピールや異世界への逃避は、自分の自信の無さの裏返しのようなものなのだ。
毎日の積み重ねを大事にし、TPOを弁えた上で自己表現していく。
そういった意味で、「等身大」を2018年のテーマにしていきたい。
たとえ薄汚かろうと、虚飾を取り払ったシンプルな自分と向き合うこと。
その上で自身の幅を更に拡張できるような1年に繋げていきたい。
今年も終わる。2017年もあと十数時間だ。
今年もガキの使いが始まり、いつものように笑いながら1年が終わる。
来年もまたあっさりと始まり、今日のようにあっさりと過ぎて行くのだろう。
2018年は等身大で行く。現段階の自分をしっかり見つめ、更に広がりを目指す。
ありがとう2017年。
良いお年を。
2017年も今日で最後だ。
あと半日もすれば2018年が始まる。
トランプ大統領の就任、衆議院選挙、米朝の関係悪化...etc
世間的にも色々動きがあった。
2016年から続く不倫などの醜聞疑惑も芸能界だけにとどまらず、一般社会から政界に至るまで数多く暴かれていた。
その中で、個人的に今年一番印象的だった言葉は「イキリオタク」だ。
オタクというジャンルの市民権を得ようと自分を必要以上に格好良く見せようとするタイプの人種。
「俺オタクだけど彼女いるぜw」「オタクが経済を回してる」なんてのはその典型。
ネットのいたるところでその薄ら寒く痛々しい言動から出来た言葉なのだけど、この言葉に潜む「自己への信頼の欠如」のようなものを、俺は今年強く感じている。
言い換えると自分に自信がないという流れ。同時にこの風潮こそ、来年の俺がテーマにしたいことでもある。
イキリオタク。その本質は強烈な自己肯定と承認欲求だ。
「#○○好きと繋がりたい」とかいうハッシュタグを使いたがる寂しん坊と同レベルだと思っている。
俺はこいつ等がそのジャンルを心の底から好きな奴だとは思っていない。
そもそも「俺オタクだけど~」「オタクだったから~」なんていう前提おいてる時点でオタク馬鹿にしてんだろうが。
連中にとってオタクであるという事はステータスであり、それが普通の人とは違う特別であるという事、いわば「異端で畏れ多い存在」として認めて欲しいのだと、俺は考えている。
本当は大したモノも度胸もない小市民のくせに、畏怖される存在になりたがっているんである。
ただ、オタクという人種に限らず自分を必要以上に装飾したがる風潮はよくある話になったと感じている。
こういった感情は年頃の子なら思う事はあるだろうし、中二病なんて言葉は今時の意味でも昔の意味でも、その最たる例だ。
ただ、幸か不幸かSNSが発達した昨今、簡単に自分を発信・演出できるようになっている社会なのである。
これまでメディアや芸能人の専売特許のような扱いだった「社会への発信」は、我々一般人でもタップ・クリック1つで出来るようになり、いたるところで自己発信に勤しむようになる。
旅行で素晴らしい景色やイベントを体感する充実感よりも、インスタで素敵な自分を演出させるために旅行に行く奴だってよくある話になっているじゃないか。
「インスタ映え」なんてその筆頭そのものだ。
大した華があるわけでもないのに、そこかしこで写真を撮ってはSNOWか何かで加工して気色悪い顔面を晒し上げているわけである。
自己肯定も承認欲求も悪いことではないし、誰しも持っているもの。
このブログだってコメント欄は不毛すぎるから入れていないので承認欲求からは程遠いとは思うが、一種の自己肯定である。
とは言っても、この「ショボい自分を必要以上にカッコつけよう・綺麗に見せよう」とするこの風潮は実にクソくらえだ。
昔は音楽聴いている奴=不良とかいう、今思えばちょっと可哀相でしょ的なレッテルもあった。
でもオタクはキモいで良いと俺は思っている。プリクラアイコンなんてクリーチャーの類で良いじゃないと思っている。
SNSとかで何か貶されたら秒速単位でシュバり倒しているアニメアイコン共観てみろ。
あんなんどう見たって正常じゃないだろ。
口汚く罵っていても正論吐いていさえすりゃ皆頷くとでも思ってんのかあいつら。
「#あなたっぽいアニメキャラ」ってハッシュタグが出た時なんか大惨事だっただろうが。
何で皆揃いも揃って4年前のエピソード語り出すんだよ。
「#あなたがガチギレすると」のハッシュタグの時も忘れるんじゃあないぞ。
あいつらキレると軒並み記憶無くすらしいからな。
ハムスター系男子とか観てみなさい。終いにはポテトアイコンやぞ。
嘘松だって似たようなもんだぞ。あいつらの地獄耳っぷりったらないぞ。
何で事細かにセリフを一字一句聴いてるんだよ。そこまでして「いいね!」が欲しいか。
あと自己肯定の一種として現実逃避していく風潮も多く見受けられた。
ショボい自分を観たくないから、現実にはない自分に都合のいい様な舞台を妄想の中で作り上げ、そこに安寧と共感を見出す考え方。
なろう系、嘘松、スカッとジャパンみたいなタイプの奴だ。
異世界へ行って完全無欠なステータス手に入れて美少女にチヤホヤされている場合じゃない。
スカッとするエピソードなんか創った所でそれを自分に還元させていかなきゃ意味もないし、独善的な行為が周りを不幸にすることだってある。
いずれにせよ、現実から逃げたってどうせ明日はやってくるんだ。
自分は特別な存在でも何でもない。ありふれた有象無象に過ぎない。
それを認めたくないかのように、この手のジャンルが絶賛されている様を観ていると「おまえらそんなに自分に自信がないのか」と言いたくもなる。
ダメな自分を認めたうえで前向いて生きていくことこそ、大事なんじゃないかと俺は思っている。
テキサス・ホールデムやってるわけでもないのにそんな装飾したところでどうせボロが出るだけなんだから。
イキリオタク、嘘松、インスタバエ、なろう系、意識高い系、真面目系クズ...etc
ここ数年で虚飾に塗れた連中を嗤うワードがいくつも出てきた。
こういった連中は、俺にとっては非常に良い反面教師になってくれている。
こいつ等が醜態を晒してくれているからこそ「うわあ。。。こういうのにはならんとこ。。」と改めて想えるわけだ。
自分の持っている能力や知識など、手札を増やすには時間がいる。
ツイッターでイキッたところで返ってくるのはRTといいねだけで、何の実にもならない。
そして過度なアピールや異世界への逃避は、自分の自信の無さの裏返しのようなものなのだ。
毎日の積み重ねを大事にし、TPOを弁えた上で自己表現していく。
そういった意味で、「等身大」を2018年のテーマにしていきたい。
たとえ薄汚かろうと、虚飾を取り払ったシンプルな自分と向き合うこと。
その上で自身の幅を更に拡張できるような1年に繋げていきたい。
今年も終わる。2017年もあと十数時間だ。
今年もガキの使いが始まり、いつものように笑いながら1年が終わる。
来年もまたあっさりと始まり、今日のようにあっさりと過ぎて行くのだろう。
2018年は等身大で行く。現段階の自分をしっかり見つめ、更に広がりを目指す。
ありがとう2017年。
良いお年を。