また、原爆が落とされた日がやってきます。
テレビでは式典をとりあげ、
その式典ではこどもたちが、
「原爆の悲惨さを語り継いでいきます」
などというのが常ですが……
あれを聞くたびに毎度もやもやします。
『原爆は悲惨さをもたらすものであること』などを
語り継ぐならいいのですが、
『原爆の悲惨さ』を、そのこどもたちが語るのは
できないのではないかと思うからです。
たとえば、地元で特産ケーキを作ったとしましょう。
周りの大人たちはみんなそれを食べ、
おいしいおいしいと言ったとします。
こどもたちは、一切口にしていません。
そのこどもたちが、
「そのケーキのおいしさを、語り継ごうと思います」
と言ったら、
食べてもいないのに何いってるんだと思いません?
食べた大人がおいしいおいしいと言っているのは
見ていてわかるため、
『たべたらおいしいだろうこと』は
こどもにもわかります。
でも、実際食べていないのだから
『おいしさ』はわかりません。
原爆もそれと同じ。
『原爆を落とされて悲惨であったこと』
は子どもたちにもわかるでしょうが、
『原爆を落とされた悲惨さ』
はわかるわけがないのです。
現代の、もっと簡単なものに置き換えたって
それはうかがい知ることができるのではないでしょうか。
誰か苦しんでいる人に、
「その苦しさはわかるよ」
なんて言ったら、
「なにがわかるんだ、ばかやろう!」
とでも言われるようなものです。
『原爆でどれだけ悲惨なことになるか』
は
『原爆の悲惨さ』
と丸められるもの……ですかねえ。
一般的には気にならないかもしれませんが、
わたしは、悲惨さを味わったこともないおきらくなこどもが
『原爆の悲惨さ』を語り継ぐ
なんて言ったら、
すごい侮辱であると思うし、知ったつもり、わかったつもりで
適当なこと言うなと叫びたくなると思います。
そういうところ、口にする人間や
周りの有識者はまったく気にならないんでしょうか。