竹取物語について文を書いていたところ、
既存の訳では参照するのにうまくいかない上、
それが間違っているかもしれないため、
自分で訳す必要がでてきました。
まずは古文の筆文字を自分で見て、
それを文字に起こすという作業を開始しました……が、
ぜんぜん進みません。
筆文字はとにかく読みにくいです。
まずは、そもそもの文字がまったくよめません。
こどもが適当にべろべろーっと筆で文字らしきものを書いたようなのが
一面にずらりと並んでいます。
内容はわかっているので、内容をたどっているその間だけは
なんとか文字は文字だとして判別することはできますが、
すこし目を離してまた戻ろうとすると、自分がどこを読んでいて、
そこになんという文字があったのかがわからなくなる始末です。
さらには文字が文字だとわかっても、もともとが漢字の崩し字のため、
漢字とひらがなの区別がまずつきません。
単語も、現代語だったら「文子」を「ふ美子」と書くような
気持ちの悪い区切りにされているのがこたえます。
今なら「のたまう」は「宣う」ですが、たいてい「の給う」表記です。
それならせめて「宣給う」表記にして と思いながら文字をたどります。
もしくはいっそ、全部ひらがなで「のたまう」のほうがどれだけ楽か。
あとは「か」が「う」みたいだとか、「は」と「有る」がほぼ同じとか、
1発音の文字に複数字体があるとか、
「。」も「、」もないどころか行わけすらしていないとか、
とにかく読ませる気がないような文ばかりで、
日本語の筆文字文章は、とてもくだらないものだという結論に至りました。
昔から達筆と言われる人の字を見ていても思いましたけど、
人に読ませる気のない文なんて文じゃないです。
人に伝える気のない文字なんて、文字じゃないです。
わざわざなにかに書き付ける、記録に残すというのは
他人に書いた物事を伝えるためにするもので、
その文字や文章が正しく伝わらないのなら、
目的に対して手段が間違っています。
戦時中じゃあるまいし、簡単に書いたものは簡単に解読されればいいのです。
簡単に書いたものでもいちいち判別が必要で、
その判別にほぼかならずミスがつきまとうのだとしたら、
その文は復号できる暗号以下の文章です。
古代日本語の筆文字は非論理的で不愉快。
それがひたすら文字を見つめたわたしの結論です。
それにくらべて現代文の、ほぼ一文字一音というのは
読みやすいしわかりやすいし、論理的で好ましいです。
現在でも筆で、人に読めない文字を書いて誇らしげにしている人がいますが、
やっぱりあんなのは人として文字として、どうかと思います。
そんなに人の読めない文字が好きで読めない文字を書くなんて
非生産的なことをやるのなら、普通の人や研究者でも読みにくい、
読めていない古文書の古文字の解読でもやればいいのにと、
にくにくしくも思います。
筆文字を読むのは目がちかちかしてくるし、
あまりの読めなさに精神に来るしで、もう本当に疲れました。