いつぞや結婚した友達の家に
友達と連れ立ってお邪魔しに行きました。
そこでグラスに氷の入った飲み物が
友達に次々と出されるところで、
わたしは自分の分を止めます。
こんな冬場に自分のスペース外で
冷たいものを飲むのは自傷行為です。
じゃあ何が? と訊かれる言葉の中に
出てきたのがコーヒー。
コーヒーはいいなあと思ったのですが、
その瞬間、わたしのゴーストが
ささやきを発したので、
すこしとまどったあと、お茶をもらいました。
でも、どうしてコーヒーを飲んじゃだめ、と
思ったのでしょう。
わたしは最近、退院して間もあいたので
起きて食事のあとは一杯のコーヒーを飲むくらい
コーヒーにはまっているのに。
そう考えて、思い出しました。
わたしが好きなのは、『わたしのコーヒー』
だったということを。
そして、いつしかわたしは、
『わたしのコーヒー』が一般に言う『コーヒー』と
同じものだと、観念を混ぜてしまっていたのです。
さて。ここで言う『わたしのコーヒー』というのが、
わたしにとっての『コーヒー』のスキーマです。
スキーマとは概念の集合体みたいなものです。
わたしにとってのコーヒーとは、
・コーヒー味がする飲み物で、
・混ぜておうど色になるくらい乳成分が入っていて、
・熱量にならない甘さのあるもの
という要素で構成されています。
これがわたしのコーヒーのスキーマです。
でも他人にとってのコーヒーのスキーマは、
・コーヒー豆の近くにある飲み物で、
・なにもいれず黒く、
・苦いもの
という要素で構成されたりするわけです。
わたしが単に『コーヒー』と表現するものと、
他人が『コーヒー』と表現するものは、
実のところ起源はおなじであっても、
しょうゆと豆乳くらいかけ離れたものを
指し示している可能性があります。
その後、友達に出されたコーヒーを見てみたら、
液体ミルクに通常の粉砂糖がついてきました。
あれでわたしが飲むとしたら、例によって
とてつもなく不健康にしていたところです。
コーヒーにしてもすっぱいものもあれば、
紅茶にしても変なにおいのするものがあります。
お茶もウーロン茶そのままだったら
わたしには嫌な味がします。
「コーヒー飲む?」「お茶飲む?」
そんな簡単な言葉の裏にも、その人独特の
物に対するスキーマが隠されているもの。
なにをもってその人がコーヒーと言っているのか
なんと言っているのか、
裏まで理解するのは無理ですが、
自分とは違うスキーマから出ているのだということを
ゆめゆめ忘れずに対応したいと思います。