奥浅草ファン山谷支部

ファンの目線で、山谷とその周辺のまちを紹介します。

山谷とアフォーダンス

2020-09-29 00:33:05 | 自己紹介
2日間に渡るマニアフェスタオンラインが先日終わりました!

誰も見たことのないものを一から企画した別視点の皆さん、ほんとにお疲れ様でした。

今回はオンラインだからこそ参加できた関西の友人や、以前参加したマニアフェスタ の手伝いをしてくれた友人なども居ました。今回は海外のマニアも沢山参加されていて、Instagramを通じた出会いもあって嬉しかったです。

さて、前回は山谷の変化を伝えたいと思って参加したマニアフェスタでしたが、今回は山谷の変化の中でやっぱり忘れてはいけないもの、忘れられない記憶とは何かということを考えながらの参加でした。

“山谷は治安がわるい、山谷はもう介護の街でつまらない、山谷にはもう昔の風景はないからおもしろくない......“




そんなふうに語られるのは、山谷に限らず、街を歩く視点としては勿体ないのではないかと常々思っていました。

目の前の景色だけを狭い視点で見れば、なんだか寂れてて物悲しい雰囲気のところだな、としか見えないけれど、

顕微鏡のような視点でもっと微細な部分まで見れば街に落ちているもの貼られているもの家の前の植木鉢飼われている動物、一つからそこがどんな街だかきちんと見えてくるし、


逆にもっと10年100年の単位で見ればその土地がどんな文脈や要素を持って今に至る街なのかが見えてきます。


すると、江戸時代から山谷周辺は都市のなかでも避けられてきた機能を担ってきた土地だとわかるし、その中で山谷にたどり着いたもの同士の助け合いが行われてきたり、その中でも悲しい排除があった土地だということがわかります。

アフォーダンスという言葉があるそうで、度々聞いたことはありましたが最近その意味を改めて聞いて、山谷のアフォーダンスということを考えました。

アフォーダンスとは、簡単に言うと環境が動物に与える意味のことをいうそうです。



山谷は、近くの吉原や浅草弾左衛門の支配を受けた浅草新町などとは異なりかなり自然発生的に木賃宿街やスラムを形成してきました。(戦後に形成された簡易宿泊所街はGHQの指示も関連しますが、元の動きは地域の旅館業者から自発的に起こったものと理解しています)


これは、「山谷という環境」(......隅田川に覆われた江戸、東京の端という位置にあり江戸城から見た鬼門にあり千住宿の端であり吉原や浅草新町の近くであり、国の戦略の影響を受けたさまざまな庶民の歴史が積み重なってきたという環境)が、引き寄せたものがあったからではないかと思いました。

今の山谷でも同様に、福祉の街と言われ日本の課題が真っ先に現れてくる街のためにそこでの支援が注目されていると同時に、

山谷の文脈など全く知らない人が増えたことによって起こる出来事があり、

その間に立って、山谷の中にまた生まれ始めた多様性を良い方向に転換しようと努力する人がいる、

こういった山谷の動きは、これまでこの土地で何度も繰り返されてきたことが今の形となって現れているのだと思います。

私はこれをつまらないことだとは思わないし、むしろとても大切なことだと思います。




今回は自分の頭で考えるだけでなく、人に伝えようという視点で自分の惹かれた街の魅力について語ることができてとても勉強になる機会でした。

読んでいただいてありがとうございます。
いつか山谷でお会いできたらと思います。

山谷との出会いと、山谷にはまっていくまでの話。

2020-09-09 21:08:00 | 自己紹介
はじめて山谷を訪れたのは2014年、大学生の頃。

都内の観光ガイドに載らないようなスポットを歩くという趣旨のツアーに参加した時、はじめて山谷のいろは商店街を歩きました。ただ歩いただけでしたが、道で酒盛りしているおじさんと出会ったり、ガランとシャッターの閉まった商店街を歩いた経験もなかった私は「ここが東京......」と大きな驚きを持ちました。

大学の授業で「日本にもスラムがある」と習い、大阪の西成で労働者の遺影を撮る活動をした人のお話を聴く機会があり、ますます山谷に関心を持ちました。

(ちなみに、この時点では山谷の歴史や社会的な背景などはほとんど全くと言っていいほど理解していません。)

空き家や空きテナントを活用していく動きにも関心があった私は、単純に「これだけ空いてる店舗があって、23区にも関わらず家賃もなんとなく安そうな場所ならきっとこれから若い人や何か始めたい人が集まってくるのではないかな」と思いました。現にカンガルーホテルさんやエコノミーホテルほていやさんなどバックパッカーや就活生に人気のホテルも増えていると聞いていたので、山谷で働きながらこれからますます街が変わっていくところを見たい!と思うようになりました。それが山谷に深く関わるようになっていったはじまりです。

ちょうど、ニューヨークのまちづくりに影響を与えた女性の社会学者ジェイン・ジェイコブスさんの本を読んだばかりということもあり、都市の中に古い建物があることの価値などに強い関心もあったので、その視点だけで言っても山谷はすでに魅力的な地域でした。

山谷で過ごすようになって、最初は実は、苦労することもありました。

それまで東京の中でも西側で過ごすことが多かった私は、山谷の飲み屋さんにはなかなか立ち寄ることができず。勇気を出して一人で入ろうとしても何故か「だめ」と断られたり。自転車を置いておいたらタイヤに穴を開けられてしまったり(いつもそこに寝ていた方が居たようでした)。後ろから呼び止められて「今日はいくら稼ぎました?」と知らない人から謎の挨拶をされたり。

山谷で出会った人は滅多に山谷以外へ出ていかないような雰囲気もあって、だんだんとホームシックのような気持ちにもなりました。

あとこれは私の勝手な感覚なのですが、山谷への最寄りである「三ノ輪」駅「南千住」駅周辺はなんとなく、色で言うと”灰色”に思えたのです。日比谷線の色のせいでしょうか。

でもそれは、私が山谷のことを何も知らなかったことが原因だったのです。

山谷が居心地良くなってきたきっかけは、山谷で出会った人たちと関係性ができたこと、山谷で新しいことをしようとしている人たちとの出会い、天然のセーフティネットとも言えるような数々の酒場や喫茶店との出会い、そして山谷の歴史をだんだんと理解していったことでした。

山谷がどういうところかを理解していくことで、その魅力の本質に気がつくことができるようになったと思います。

最初は、山谷は外からの人を受け付けない土壌なんじゃないかとおっかなびっくりしていたのですが、歴史を見て、実際に山谷の新陳代謝を見てみることで、やっぱり外から人がやってくる街は魅力的なのだと知ることができました。流れ着く者を皆んな受け入れてきた、山谷スピリットを持った人たちの懐の広さも知ることができました。

ちょっと抽象的な話になってしまいました。

具体的にきっかけとなったお店の名前を挙げてみます。

まずは、山谷のお隣、吉原に2016年カストリ書房がオープンしました。遊郭や赤線の資料を専門に扱う書店が、まさに吉原遊郭の区画の中に登場したので当初は驚きました。これをきっかけに、人通りの無かった吉原、山谷に若い方が沢山訪れるようになりました。これだけでも新鮮な空気が地域に流れたような気がしました。

私自身もその縁で山谷に友人が増え、この地域で飲みに行く回数も増えてきました。その中でいろは商店街の中にある「追分」にも行く機会がありました。正直、目には入っていたけど入っていないというか、入っていい場所だと思っていなかったお店です。しかし、ここのお店こそ山谷らしく、山谷にとって大切なお店でした。


▲追分にいる両目の黒いだるま

店内には山谷のどこからかやってきたおじさんたち。店内では「こないだ貸した千円どうした」「最近来てないあいつはどうした」などと聞こえてきます。

追分のおかみさんはお客さんたちにとても優しく、何かと融通してあげていたようです。よほどのことがない限り、追分が拒むお客さんは居ません。

いろは商店街でお店をしているおかみさんたちは、何かとお客さんたちを気にかけてあげて、金銭管理までしてあげている方もいるとか。
行政から委託されているわけでもなく、ただ気になるから気に掛ける。ヒューマニティーの原点を見たような思いでした。



▲「追分の猫『シロちゃん』、デルカップ辛口、お茶割り 」
作:奥浅草ファン山谷支部

そこに、外からやってきた新参者の私たちが飲みにきても排除することなく、一緒に歌ったり、質問をすれば答えてくれる、好きに飲んでいても放っておいてくれる、居心地のいい親切なお店でした。「追分」の優しさに居心地の良さを見出して以来、私は山谷を心から居心地の良い場所と思えるようになりました。

また、山谷にはこのようにお酒を飲んだり一人で暮らすことができるおじさん達だけではなく介護や医療が必要な方も多く暮らしていますが、そういった方を支援する団体や医療機関にも、トラブルメーカーを排除することなく、大変な人にこそ寄り添い互いに助け合う文化のようなものがあることにも気がついていきました。

その後、いろは商店街にあしたのジョー像を建てるため奔走し、ミュージックフェスを企画された山谷活性化の立役者であるパン店「ぶれ〜て」元店主の堀田さんとお会いする機会がありました。ジョーのグローブパンで有名なお店でしたが、閉店されると聞いてお店をどうするのかというと「ここで何かを新しく始めたい人に借りて欲しい」と言われていました。

その後、すぐに西調布で喫茶店を営まれていた酒井さんが名乗りを挙げ、山谷酒場さんが登場。同じ年には、長年山谷で(元)ホームレス生活者への居住支援を行っていた義平さんが外国からの旅行者も多く利用するホテル寿陽の一階にさんやカフェをオープン。

そして翌年2月には、写真集「ヤマの男」著者である多田さんが泪橋ホールをオープンされました。

この泪橋ホールのすごいところは、お客さんが例の「追分」と時々被っているところなのです。そこにいつも店主の多田さんパワーが炸裂していて「追分」より明らかに入りやすく、女性一人でも何の心配もなく飲めて、山谷らしさにも触れることができるお店です。

そんなこんなで私は山谷の楽しい変化を目の当たりにさせてもらいながら、私自身も山谷で小さなイベントを開催させてもらい外から友人・知人を呼ぶ機会も増え、山谷の居酒屋でお客さんみんなと炭坑節を熱唱する......山谷のスナックで飲んでいるうちに泥酔して駅の階段から転げ落ちる......気がついたら山谷で結婚披露宴まで挙げている......と、どんどん山谷の深みへとハマっていったのでした。

また、実際に出会った、いま山谷に暮らす人だけでなく、本や資料などから山谷がこれまでどういった人たちの居場所だったのかを知ることも私にとっては重要な経験でした。山谷の歴史的な文脈が、確かに今につながっていると思います。


ここまでお読みいただきありがとうございます、次は山谷について知るために私が読んだものや聞いたもの、誰でも参加できるものについてお伝えしたいと思います!引き続きよろしくお願いいたします!


「山谷マニア」奥浅草ファン山谷支部の自己紹介

2020-09-07 13:51:13 | 自己紹介
2019年2月にアーツ千代田3331に出展させていただいた山谷(さんや)マニアの「奥浅草ファン山谷支部」です。

その際は、自分で描いた奥浅草マップをもとにブースでお話させていただいたり、トークイベントで山谷の魅力についてお話させていただいたり、冊子「山谷の歩き方※」を販売させていただいたりしました。


空き家の活用などに関心のあった大学在学中に山谷に興味を持ち、働いてみればもっとよく知ることができるのではないかと考え山谷で働きました。それから6年が経ちました・・・。
現在は山谷のお隣、吉原にある本屋の社員でもあります。

アプリで山谷の歴史と今を知ることのできるツアーを作成中です。

2019年のマニアフェスタの時は、

「山谷というと危ないイメージや寂れたイメージがあるかもしれないけれど、実際に歩いてみるとそれだけではない、外からいろんな人がやってきても受け入れてくれる土壌があって、何かを始めることのできる、いまちょうどうごめく都市の卵なんだ!」・・・といったお話をさせていただこうと思い参加しました。

ところが参加してみると、意外にも

「山谷ってなんですか?」
「何と読むんですか?」
「山ガール・・ですか?」

と、山谷(さんや)と聞いてもそもそも全然ピンと来ないという方が多かったのでした。考えてみると、私も東京生まれなのに授業で習ったりツアーに参加するまで山谷をほとんど知らなかったので、知るタイミングのなかった人が知らないことは当然と言えば当然なのです。

(一方で山谷が好きだという方もブースに遊びに来てくれました!喫茶店のバッハさん、大衆酒場の丸千葉さんには行ったことがあります、という方が多かったです!三ノ輪橋の弁慶さんも人気でした)

「山谷」とは、東京都台東区北部に位置する地域の名称です。私は荒川区南部までも含めて山谷、と捉えています。

浅草、浅草寺の北に広がる地域を「奥浅草」と言いますが、こう言った際にも「吉原」と同時に「山谷」地域もここに含まれることもあります。現在は公式には残っていない名称ですが、いまも地元でも外部の人でも使われている名称です。

「山谷」とは、地域を指している言葉なのです。
ちなみに、いまこの「山谷」という名称を残している山谷にあるものは、

・さんやカフェさん
・山谷酒場さん
・寶珠(ほうじゅ)稲荷神社に石柱に残る住所「山谷三丁目」「山谷四丁目」
・山谷堀公園

お店の名前「さんやカフェ」さん、「山谷酒場」さんは2018年のオープンなので、それまで「山谷」という言葉の残っている場所はこの地域にほとんど無かったと言ってもいいくらいなのですが、
今日まで「山谷」という言葉が使われてきた背景には「山谷」の経験した歴史が強烈に人々の印象に残っている、忘れさせない何か、語りたくなる何かがあるのだろうと、山谷に興味を持った当初の私は思いました。

一般的に「山谷」というと、
日本の高度経済成長期に全国から労働者が集まった「日本三大寄せ場」の一つとも言われ、不況と共に浮き彫りとなった労働者と雇用主や警察との争い(「山谷暴動」1960年から複数回発生)が報道されて全国的に有名となった流れが連想されると思います。

現在では、高齢化した当時の労働者の方々が暮らす、福祉の街としての機能を果たしているという話もこの記事を読んでいる方はご存知かもしれません。

今回、オンラインマニアフェスタが開催されるということで、ブログや動画を使ってあらゆるジャンルのマニアが集まると聞き、
これなら言葉を尽くして、山谷の歴史と今の話ができる!と思いました。

また、2019年にはあったものが無くなっていたり、無かったものが登場していたりという変化もあるので、それもお伝えできればと思い参加を決めました。

gooブログでは、山谷との出会い、印象的だったできごと、山谷を知るのに役立った本の紹介などを書いていきたいと思います。

個人的な思いや視点で書いていく部分が多いと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。皆さんの反応からまた新たな発見があれば嬉しいと思っています!どうぞ、よろしくお願いします!


(※2019年に「山谷の歩き方」を買っていただいた方へ・・・訂正:誌面の中で「日の出湯」さんを重要文化財と書いてしまっているのですが、文化財のように重厚なつくりの建物と書きたかったところの間違いです。本当にごめんなさい・・。紹介した場所や情報については1年以上が経ち、変化もあるので書き足しました。よろしければ、冊子を片手にこちら→「2020年『山谷の歩き方』のあとがき」をご覧ください!)