
おはようさーんで
ございます😊
今朝も爽やかな
朝でございます
今日も明るく
元気に楽しく
頑張ります!😎
以下全文

「どれだけ悔やんで嘆いたか。何日も思い悲しみにふけっていたのを思い出します。目に入れても痛くない分身を亡くしました。それで自然と人情噺に溶け込んでいったんです。演じているのではなく、心の神髄を表現できるようになった。決して息子は『無』ではなかった。僕に人情噺という大きなものを与えてくれたから」
3年ぶりに奉公から帰ってくる息子(藪入り)、寒い中で貝を売って歩く少年(蜆売り)など、福団治の噺には子どもが多く登場する。それは息子の死と無縁ではないのだろう。
福団治が手話落語という世界を切り開いて40年近く。その将来をどう考えているのか。
「以前は福祉の分野での社会貢献という位置付けやったんです。でも今は健常者も含め多くの人が普通の娯楽として手話落語を見に来てくれるようになりました。将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」

桂福団治(かつら・ふくだんじ)
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。
本記事は、三重テレビ放送とYahoo!ニュース 特集編集部による共同取材企画。三重テレビ放送は1969年開局の独立系テレビ局。三重県全域と愛知県の一部を放送対象とし、数多くの自社制作番組を放送している。
Yahooニュース特集部より
声と仕事を失って
桂福団治(本名:黒川亮)は1940年、三重県四日市市の造り酒屋に生まれた。三代目桂春団治の華麗な芸風に魅了され1960年に入門。「一春」「小春」を経て1973年、四代目桂福団治を襲名した。
大阪・道頓堀角座(かどざ)での桂枝雀(しじゃく)、笑福亭枝鶴(しかく)とのトリプル襲名は大きな話題となり、福団治はテレビ・ラジオのレギュラー番組を10本以上抱えるようになった。1975年公開の映画「鬼の詩」(藤本義一原作)では主演を務め、芸能界で大きく飛躍しようとしていた。
桂福団治(本名:黒川亮)は1940年、三重県四日市市の造り酒屋に生まれた。三代目桂春団治の華麗な芸風に魅了され1960年に入門。「一春」「小春」を経て1973年、四代目桂福団治を襲名した。
大阪・道頓堀角座(かどざ)での桂枝雀(しじゃく)、笑福亭枝鶴(しかく)とのトリプル襲名は大きな話題となり、福団治はテレビ・ラジオのレギュラー番組を10本以上抱えるようになった。1975年公開の映画「鬼の詩」(藤本義一原作)では主演を務め、芸能界で大きく飛躍しようとしていた。

そのさなかに突然、暗雲がたちこめる。1977年、声の調子が悪くなり喉にポリープが見つかった。手術して3カ月間、声が出なくなったのである。持っていたレギュラー番組のほとんどを手放さざるを得なかった。福団治はこの時の気持ちをこう振り返る。
「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」
福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。
「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」
福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。
親子の涙が押した背中
1980年、手話落語を初めて披露する機会が訪れる。会場は奈良県文化会館。福団治が落語に手話を取り入れていることを聞きつけた奈良県内の福祉関係者からの依頼だった。
観客は約1000人。そのうち聴覚障がい者が約2割を占めていた。ほとんど誰も見たことがない手話落語の初披露とあって、テレビ局や新聞社も数多く取材に来ていた。福団治はこの時、一抹の不安を感じていたという。それは、伝統を重んじる落語界の反応だ。
「何百年の伝統ある“聴く古典芸”を、“見る芸”に勝手に作り替えたら(落語界を)クビになるのと違うやろか」
1980年、手話落語を初めて披露する機会が訪れる。会場は奈良県文化会館。福団治が落語に手話を取り入れていることを聞きつけた奈良県内の福祉関係者からの依頼だった。
観客は約1000人。そのうち聴覚障がい者が約2割を占めていた。ほとんど誰も見たことがない手話落語の初披露とあって、テレビ局や新聞社も数多く取材に来ていた。福団治はこの時、一抹の不安を感じていたという。それは、伝統を重んじる落語界の反応だ。
「何百年の伝統ある“聴く古典芸”を、“見る芸”に勝手に作り替えたら(落語界を)クビになるのと違うやろか」
しかし、聴覚障がい者に楽しんでもらいたいという気持ちが上回った。
小噺や落語「時うどん」などを必死で演じた。身ぶり手ぶりをいつもよりオーバーにしたこともあり、大きな笑いが何度も起こった。気付いたら予定時間を30分も過ぎていた。
舞台の幕が降り、福団治が楽屋に戻った時、8歳くらいの男の子の手を引いた母親が訪ねてきた。男の子は福団治に握手を求め、母親はこう言ったという。
「この子は声が出ないし、耳が聞こえないんです。珍しい手話落語を見たいと言うので連れてきたら、この子、私の袖を引っ張って笑って……。こんなに笑った顔を見たのは初めて。息子の喜んでいる姿を見せてもらって、ありがとう……」
母親は福団治の手を握って涙ぐんだという。
「大きな励みになりました。喜んでもらってよかった。クビになっても続けていこうと思ったのは、このお母さんの言葉でした」
小噺や落語「時うどん」などを必死で演じた。身ぶり手ぶりをいつもよりオーバーにしたこともあり、大きな笑いが何度も起こった。気付いたら予定時間を30分も過ぎていた。
舞台の幕が降り、福団治が楽屋に戻った時、8歳くらいの男の子の手を引いた母親が訪ねてきた。男の子は福団治に握手を求め、母親はこう言ったという。
「この子は声が出ないし、耳が聞こえないんです。珍しい手話落語を見たいと言うので連れてきたら、この子、私の袖を引っ張って笑って……。こんなに笑った顔を見たのは初めて。息子の喜んでいる姿を見せてもらって、ありがとう……」
母親は福団治の手を握って涙ぐんだという。
「大きな励みになりました。喜んでもらってよかった。クビになっても続けていこうと思ったのは、このお母さんの言葉でした」
「人生観が変わった」
手話落語は、古典落語を演じる上でも役立ったと福団治は語る。
「聴覚障がい者とふれ合う中で人生観が変わったんです。彼らと出会ったのをきっかけに、人情というものを重んじるようになりました」
福団治がよく高座にかける演目は「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」などのいわゆる人情噺である。人情噺とは、笑いに力点を置くのではなく、親子の情愛や家族の絆、人間同士の心のふれ合いを描いたものだ。
手話落語のほかにも、福団治を人情噺に傾倒させる出来事があった。1982年、次男の晃次くんを白血病で亡くしたことだ。当時、小学2年生。8歳だった。
1982年に晃次くんを亡くし、2018年には長年連れ添った妻で、ものまね歌謡芸人・翠みち代さんを亡くした
手話落語は、古典落語を演じる上でも役立ったと福団治は語る。
「聴覚障がい者とふれ合う中で人生観が変わったんです。彼らと出会ったのをきっかけに、人情というものを重んじるようになりました」
福団治がよく高座にかける演目は「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」などのいわゆる人情噺である。人情噺とは、笑いに力点を置くのではなく、親子の情愛や家族の絆、人間同士の心のふれ合いを描いたものだ。
手話落語のほかにも、福団治を人情噺に傾倒させる出来事があった。1982年、次男の晃次くんを白血病で亡くしたことだ。当時、小学2年生。8歳だった。
1982年に晃次くんを亡くし、2018年には長年連れ添った妻で、ものまね歌謡芸人・翠みち代さんを亡くした
「どれだけ悔やんで嘆いたか。何日も思い悲しみにふけっていたのを思い出します。目に入れても痛くない分身を亡くしました。それで自然と人情噺に溶け込んでいったんです。演じているのではなく、心の神髄を表現できるようになった。決して息子は『無』ではなかった。僕に人情噺という大きなものを与えてくれたから」
3年ぶりに奉公から帰ってくる息子(藪入り)、寒い中で貝を売って歩く少年(蜆売り)など、福団治の噺には子どもが多く登場する。それは息子の死と無縁ではないのだろう。
福団治が手話落語という世界を切り開いて40年近く。その将来をどう考えているのか。
「以前は福祉の分野での社会貢献という位置付けやったんです。でも今は健常者も含め多くの人が普通の娯楽として手話落語を見に来てくれるようになりました。将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」

桂福団治(かつら・ふくだんじ)
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。
本記事は、三重テレビ放送とYahoo!ニュース 特集編集部による共同取材企画。三重テレビ放送は1969年開局の独立系テレビ局。三重県全域と愛知県の一部を放送対象とし、数多くの自社制作番組を放送している。