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8.6 あの日 あの時 NO:3

2020-02-29 21:51:06 | 日記
広島
昭和20年8月6日
午前11時頃、

空は陽射し無く、灰色の世界
時間だけが過ぎてゆく

市民も恐怖のあまり、
また、来るのでは有るまいか
何度となく、爆弾の恐怖が
襲ってくる。

逃げ惑う大勢の市民
火傷や怪我をした人達の救護に
祖父は走り回る

祖母は、幸いに大事もなく
長男も軽い火傷
長女は引き裂かれた両足のふくらはぎを包帯と衣類で応急措置を施され、
とりあえず、この場から離れ
山間に逃げ隠れる事に
祖父は救護の後に合流するとのことであった

己斐の山間に、避難できる小屋を作って居たらしく、
そこに向けて
怪我をした長女を長男の兄が
背をって、およそ2キロは
有ろう小屋まで避難する事に……

しかし
途中、己斐橋辺りで沢山の人が
水を求め川に飛び込む姿が
また、橋のたもとには、沢山のメモが、手拭いや、橋の柱に
書かれていたのだ
家族に安否を知らせるためのものと思われる

避難の途中、何人もの人に
声を掛けられ、家族に安否の知らせを願う姿が有ったと

更に、皮膚の皮が剥けて、
息も絶え絶えの人、人、人
水を頼まれ、水筒の水を差し出すと、一気に飲み干し
私は○○の○○○
父と母にここに居ますと
伝えて欲しい。……と
その後
眼を閉じて動かなくなった

口で言い表せる現実ではない
地獄絵図だったと祖母は話してくれました。
皆さん、親、兄弟もあり
さぞや無念だったろうに……と
手を合わせながらうつむく祖母

それから
ようやく己斐の小屋にたどり着くのであったが、見るも無惨な
惨状で、避難できる状況では
無かった……と
全てのガラス窓は無くなり
屋根すら無かったとの事です。

しばらくして祖父と合流
仕方なく来た道を帰り
倒壊した我が家に……

本来ならば、遠くに逃げるのが
当たり前なのだが
当時、自宅の横に地下の防空壕を祖父は用意して居たそうで
食糧など備蓄
帰宅後、直ぐに生き残った
町内の知り合い数名と
2週間ほど潜んでいたそうです
また
昼夜無く、アメリカの飛行機が
爆音を轟かせ、広島の街を偵察に来ていたそうです
無論、怖いので声も出さず
通りすぎるまで、肩を寄せ有って震え
また、爆弾を落とすのでは…
死の恐怖、冷静な人間など
作れる訳もなく
「ありゃ~
いびせかった」*(怖かった)
そう何度も繰返し言葉にした
そんな
祖母の姿が
思い出されるのでした。

今日は、この辺りで終わります

お読み頂きありがとうございました。



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