お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

陰と陽パート2

2021-01-26 04:42:27 | 日記


陰と陽とは決して善悪ではない。最近スピリチュアル界隈でもよく言われる2極化。
解釈によっては光と闇。善悪で判断している方々も少なくないようですね。まぁ人それぞれでしょうか。
しかしながら私が思う2極化は決して善悪との2極化ではなく考え方や暮らし方、生き方等の精神世界での変化ではないかと思う。今までの物資主義で生きるか精神主義で生きるかの違いでどちらを選んでも多分善悪ではない。
どういう世界がいいかだけだ。
風の時代への変化は精神世界への変化のようだが、そういう意味ではやはり精神世界で生きた方が生きやすいのかもしれない。
この2極化を光と闇等で捉えたら、どうしても善悪での判断になり、また争いや離別、反発が出てくるように思います。そもそも陰と陽とは宇宙根源の力であり理。どちらがなくても成り立たないと私は考えます。世の中は全て表裏一体。陰と陽です。魂の世界、あの世と現世この世も表裏一体。生きていれば現世。死んだらあの世。それで行き来することを思えば多分表裏一体なんだろう。
陰と陽は決して善悪や光と闇ではない。宇宙の根源の理であり全てだと思います。
これからの風の時代。精神を磨いて生きて行こうと思う昨今であります。
ソワカ🙏

外部の声をシャットダウンしてみる

2021-01-18 02:31:34 | 日記
世の中のいろんな状況や顔が毎日毎日世界各地で溢れ出してきている。コロナのパンデミックに始まり、不正や犯罪。まさに国家レベルから隣近所の接点までがあからさまに変化してきている。
現実目の前をみれば、仕事の激減や解雇等から明日の生活をも苦慮しなければいけない現状であることは多方面で見受けられる。
それにより誰しもが不安や恐怖にさいなまれながら毎日をただひたすら生きている。自分もしかりだ。ただ私は商売をしていますが、やはり厳しい現状であることには変わりない。商売としては先行きは見えないのが現状だろう。
しかしながら、あの手この手でせめている。それには周り回って聞く話では賛否両論あるようだ。
一つ言っておきますが犯罪なんかはしていませんのであしからず😅
まぁ何がいいたいかと言いますと、こんな状況でやはりチャレンジも必要で、人とは違う事や考え方をもつと人は異端児のように見る。しかしながら大切なのは自分の信念と意思だ。自分はこう生きて行くという信念と行動。どうしても社会で生きて行くうえでは周りの雑音が気になり、自分の心が乱される事がありますが、時には完全シャットアウトして周りの環境を遮断する事が自分の精神と心を自分の信念に沿って生きられるように思います。
人と付き合わないのではなく、耳に入れない。無用な付き合いはしない等をしているうちに、自分のやりたいように周りを気にせず思いっきり清々しく進めるのです。
そしたらまたその波動に沿った人間関係や環境がゆっくりゆっくりと変化します。
私が今まさにそんな環境にたっています。


死とはいつでも隣り合わせだった

2021-01-12 03:22:12 | 日記
今までの世の中は本当に平和(幻?)だってのだと思う。コロナ渦により世界を恐怖に落とし入れ混沌とした世界になりました。死と隣り合わせという事を恐れて。
しかしながら、死とはいつの時代でも今この瞬間でも万人に等しくあるものだと思う。それにほとんどの人々が気付けていなかっただけだ。そういう現実を垣間見て恐れがあるように思います。
今この瞬間に何が起こるかわからないということだ。
何がいいたいかというと、思考停止にならずしっかりと現実世界をみて日々生きて行かなければいけないという事。
その時その時を後悔なく、自分の思うがままに心に従い楽しめればいいかなと。
語弊があるかもしれませんが死とは決してコロナだけだはないのです。もちろんコロナには最大限注意しなければいけません!!コロナはそれも踏まえて世の中とは?人間とは?生きるとは?これからの世の中とはどうあるべきか?人とはどうあるべきか?ということを今本気で考え行動して生きて行かなければいけない時代になって来たのではないでしょうか?

腹は立てず

2021-01-12 02:24:12 | 日記
お釈迦様の言葉
仏教辞典より引用。

罵詈雑言を浴びせられたお釈迦樣はどうされたのか?
お釈迦様とある若者とのやり取りにこんな話があります。あるとき、異教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、さんざん、悪口を言った。黙って聞いておられた釈尊は、彼が言い終わると、静かにたずねられた。

「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その悪口雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。

「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

外道の若者は、落涙平伏し帰順したといわれます。
お釈迦様のようなどんな悪口批難に対しても超然とした態度を取ることは私たちにはとても出来ませんが、くだらない非難や中傷に目くじら立てて一緒になってケンカするのは同じ程度の人間ということになってしまいます。

「売り言葉に買い言葉」といわれますが、私たちは何か心外なことを言われると、言い返したくなります。何も言い返せないと、負けたと思ってしまいます。
意地や我執でもう後には引けない、そういう状態になると、怒りが怒りを呼び、どんどんエスカレートして、大きなケンカに発展してしまいます。最初は、ささいなぶつかり合いや意地の張り合いだったのが、怒りの応酬により、お互いをひどく傷つけてしまうこともあります。

そんな時、「怒りに怒りをもって報いるは、愚か者のすることですよ」というお釈迦様のお言葉を重い出しましょう。
日ごろから自覚していれば、いざというときも冷静さを失わずにすみますね。私もそうあるように生きて行こうと思います。

共鳴するもの

2021-01-11 23:36:43 | 日記

日々生活するなかで、私達はいろんな思考や感情の変化により考えたり、行動したり、またそれにより幸せな気持ちや不安な気持ちが目まぐるしく変化していると思う。それは多分当たり前の事象で、すべての人はそうでしょう。

その感情により人は行動するもの。

しかしながらその行動が果たして自分の心に従った行動かどうかはいささか疑問ですね。

今までの時代はたしかに本心を押し隠してでも生きて行かなければいけない社会でした。まだまだそうでしょう。よく言われる風の時代の到来。心に従う生き方をするには自分の心が共鳴するものに素直に向き合い受け入れ行動する事しかないように感じます。偽りなく自分の奥底を見つめる。

違う意見や価値観のものでも受け入れ、しかしながら同調はしないでも良い。対立することなく自分の共鳴するものに従う生き方。そんな日々を歩み勇気と愛に溢れ、希望に満ち溢れた人生を歩んで行きたいですね!