お釈迦様の言葉
仏教辞典より引用。
罵詈雑言を浴びせられたお釈迦樣はどうされたのか?
お釈迦様とある若者とのやり取りにこんな話があります。あるとき、異教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、さんざん、悪口を言った。黙って聞いておられた釈尊は、彼が言い終わると、静かにたずねられた。
「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その悪口雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順したといわれます。
お釈迦様のようなどんな悪口批難に対しても超然とした態度を取ることは私たちにはとても出来ませんが、くだらない非難や中傷に目くじら立てて一緒になってケンカするのは同じ程度の人間ということになってしまいます。
「売り言葉に買い言葉」といわれますが、私たちは何か心外なことを言われると、言い返したくなります。何も言い返せないと、負けたと思ってしまいます。
意地や我執でもう後には引けない、そういう状態になると、怒りが怒りを呼び、どんどんエスカレートして、大きなケンカに発展してしまいます。最初は、ささいなぶつかり合いや意地の張り合いだったのが、怒りの応酬により、お互いをひどく傷つけてしまうこともあります。
そんな時、「怒りに怒りをもって報いるは、愚か者のすることですよ」というお釈迦様のお言葉を重い出しましょう。
日ごろから自覚していれば、いざというときも冷静さを失わずにすみますね。私もそうあるように生きて行こうと思います。