お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

作法と気遣い

2021-05-13 22:32:37 | 日記


作法というのは、
突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。

具体的な細かい作法をいくら知っていても、
本当の意味で、他人を気遣う気持ちがなければ、
何の意味もない。

その反対に、作法なんかよく知らなくても、
ちゃんと人を気遣うことができれば、
大きく作法を外すことはない。

駄目な奴は、この気遣いがまったくできていない。
人の気持ちを考えて行動するという発想を、
最初から持っていないのだ。

他人への気遣いで大切なのは、
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。

だけど、自慢話は一文の得にもならないし、
その場の雰囲気を悪くする。
それよりも、相手の話を聞く方がずっといい。

料理人に会ったら料理のこと、
運転手に会ったらクルマのこと、
坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、
知ったかぶりせずに、
素直な気持ちで聞いてみたらいい。

自慢話なんかしているより、
ずっと世界が広がるし、
何より場が楽しくなる。

例え知っていたとしても、
一応ちゃんと聞くのだ。

そうすれば、専門家というものは、
きっとこちらの知らないことまで話してくれる。

井戸を掘っても、
誘い水をしないと水が湧いてこないように、
人との会話にも誘い水が必要なのだ。

- 北野武 -


本当に心が1番大事です。表面を良くとりつくろうのではなく、心ですよね。世の中、本当にそういうのはもう気づいていかなくてはなりませんね😌

変化を決めて1年間の思いを綴ります。

2021-05-11 03:31:32 | 日記


私はお店を経営しておりますが、昨年、緊急事態宣言の最中約4ヶ月の営業自粛をし、これからの5年先、10年先を見据えた上で変化と改革をする方向へ舵をきりました。早1年。また同じように日本も世界も揺れています。お店の営業内容も大幅に転換しました。
焼き菓子やケーキ、お弁当やドリンクのテイクアウト、通販を軸にした営業にシフトし人の接触も極力抑えるやり方をして参りました。現在進行系ですが。
二間のみの完全個室、完全予約制。1日、一回の人数制限を設けて日々のスタッフ管理も徹底し、店内の消毒、換気、清掃、スリッパは1人一足ごとに消毒。トイレの一回ごとの消毒。使用された食器は全て消毒液に20分以上付けて洗う。店内のこまめな空間除菌。各部屋には高性能の空気清浄器の設置。今でもそれがうちのお店では当たり前のように続いています。それが皆普通になりました。穏やかに毎日営業しております。料金体制や営業内容の変化の時は流石に周りの冷たい目線や心無い誹謗中傷もありました。信頼関係や絆作りの大切さを学びました。今はほとんどそういう声は私の耳には入りません。まぁ気にして無いだけですが。しかしながら1年間続けて来た結果ご来店、ご利用いただきますお客様方は本当に優しく温かで、私達を愛して下さる方々に恵まれました。ありがとうと逆にお客様から言っていただける事の喜びは何者にも代えがたい嬉しさがこみ上げます。このお互いの想い、これが何よりの宝です。感謝しきれません。スタッフもより穏やかに楽しくやりがいを見いだせてくれています。私自身も毎日毎日があっという間に過ぎていって時間が全く足りないほど楽しく生きさせてもらっています。全ての人々がそうあれば本当に嬉しい限りです。世の中現状は難局極まりない状況です。しかしながら続けて行くことに1寸のブレもなく変化して良かったと今強く思います。世の中見えないものの存在は怖いし決して油断も侮りもしてはいけない、どんな対策も万全ではないですがこれからも1年間やり続けて来たことをコツコツ続けていきながら自分の判断と考えでやっていきますのでよろしくお願い申し上げます🙇

という感じですが。まだまだこれからですね💪


原因と因果

2021-05-05 23:37:17 | 日記




原因と結果をあきらかにみなさい

上手くいかないとき、苦しいとき、どんな心がでてくるでしょうか何で自分だけ失敗するんだろう、自分はどうせだめなんだとこれまでの努力が信じられなくなって、投げ出してしまいたくなります。
そんな時、仏教を説かれたお釈迦様は、私たちに、因果の道理を明らかにみよと教えられています。
因果の道理というのは、お釈迦様の説かれた仏教の根っこであり、幹にあたる教えです。
因果とは、原因と結果ということ、道理とはいつでもどこでもかわらないもののことです。
どんな結果にも必ず原因がある、原因なしに起きる結果は万に一つ、億に一つ、絶対にない、分かりやすく言うとまかぬタネは絶対に生えないが、まいたタネは必ず生えるということです。
これは、いつの時代でも、どこの場所でも変わらないことだから、道理と言われます。
上手くいかない時、、失敗してしまった時、私たちは、失敗自体を忘れようとしたり、その原因から目を背けたりしてしまいたくなります。落ち込んでいたずらに自分を責めたり、八つ当たりしてしまいたくなります。
しかし、苦しみから目を背けていては、原因が分かりませんから、解決することはできません。
どうして失敗したのだろうか、この焦りや不安はどこから来たのだろうか、原因を見つめ、ハッキリすれば、ここを直せば、同じ失敗を繰り返さなくていいのだと何をすべきなのかハッキリしますから、勇気と希望と元気がわいてきます。
原因なしに起きる結果はないのだから、その原因をあきらかに見ていきなさいと仏教では教えられます。

幸せ・不幸せの原因と結果

では私たちの幸せや不幸せを生み出す原因はなんでしょうか。お釈迦様は次のように教えられています。

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

善いタネからは善い結果、悪いタネからは悪い結果が現れる自分のまいたタネは全部、自分が刈り取るということです。
善い結果とは幸せな運命、悪果とは苦しみや不幸という運命のことです。お釈迦様がタネと言われているのは、私たちの行いのことで、これを業(ごう)(カルマ)といいます。

ひまわりのタネをまくと、ひまわりの花が咲きます。タンポポのタネをまくと、タンポポの花が咲きます。まいたタネに応じた花しか咲かないのは、いつでもどこでも変わらない道理です。

同じように、善い行いからは善い結果、悪い行いからは悪い結果、自分のやった行いが自分の運命を生み出しているのだよと説かれるのが、仏教の一貫した教えです。

私たちは、日々、体や口や心でいろいろな行いをしています。その日々の行いがタネとなって、幸せ、不幸せという運命を生み出しているのだよとお釈迦様は教えられています。

業力不滅

行いには、結果を生み出す力があります。どんな些細な行いも、それは力となって、本人に消えずに残るのだと説かれます。行いの力を業力(ごうりき)といい、それは消えずに蓄えられますから、不滅の業力(ふめつのごうりき)とも言われます。

今日までの一切の過去、私たちがやってきたことは善い行いも悪い行いもすべてその人自身に力となって蓄えられています。今、私が受けている結果は、これまでの過去の行いの結果なのです。そして、未来の私は、これからの行いが生み出していくものなのです。

小さなタネにも、固い地面を突き破って芽を出す生命力があります。数千年前の地層から見つかった蓮のタネが見事、きれいな花を咲かせたという事例もあります。植物のタネの生命力のように、私たちの行いは幸せ、不幸せを生み出す力となって、消えずに蓄えられていますから、無駄な努力は一つもないのです。

因縁果の道理

自分は頑張って努力しているのになかなか報われないと思うこともあるでしょう。一生懸命、タネをまいても花開かないのは、まだ、花が咲く縁が来ていないからだとお釈迦様は言われています。

仏教の因果の道理は、因縁果(いんねんか)の道理とも言われます。モミだねがなければ、絶対にお米は取れないように、因(タネ)がなければ果は絶対に生じません。しかし、モミだねだけではお米は取れません。

日の光や水、土や温度がそろって初めてタネが芽を出しお米になります。このように因(タネ)が果となる助けとなる働きを縁(えん)といいます。

精一杯、種まきに心がけていても思うような結果がでないときは、それはまだ、縁が来ていないだけです。
縁が来れば、春に一斉に花が開くようにこれまでのたねまきがパッと花咲かせます。焦る必要はないのです。

人生にはいろんな縁があります。どんな先生に出会うか、どんな上司のもとにつくか、どんな友人を持つか、どんな人を伴侶に持つか、これも、縁です。そして、縁によって私たちは大きく左右されますから、より良い縁を求めていくことが大事です。朱に交われば赤くなる 孟母三遷の教えは、環境の与える力を教えたものです。

しかし、環境は縁であって因(タネ)ではありません。どんな素晴らしい先生に出会っても、自分が勉強しなければ、自分の成績はあがりません。どんな素晴らしい人を上司にもっても、自分が努力しなければ力はつきません。逆に環境に恵まれなくても、自分が努力した結果は全部、自分のものになります。いい縁を選ぶことは大事ですが、もっと大事なことは、どんな環境でも、より良いタネまきをすることです。

環境は選べるものもありますが、選べないものもあります。しかし、今、ここで、自分がどんなタネまきをするかは、自分で決めることができます。そして、その結果は必ず自分のものになるのです。

常に自分の行動や心のあり方をより良くしていきたいですね😊❗

仏教辞典より。


自分自身を見つめて

2021-05-04 08:01:39 | 日記




なぜ自分に起きたのか、それは自分にしかない原因があったから

あるところに真面目で、とても親切で、近所でも評判の奥さんがいました。ところがその奥さんはいつも一人になるとしくしく泣いていました。なぜかというと、その夫が、ろくに働きもせず、酒を飲んで、ギャンブルに明け暮れ、文句を言うとすぐに手をだしてしまうとんでもない夫だったからです。こんな場合は、夫のせいで、奥さんが苦しんでいるのですから自因自果とは言えないのではないでしょうか。

ところが、お釈迦様は、間違いなく、自因自果なのだよとお釈迦様は説かれます。どういうことなのでしょうか。

なぜ結婚したのか、それは好きになる業があったから

この奥さんはどうして、こんな男性に苦しめられねばならなかったのでしょうか?
それは、そんな男性と結婚してしまったからです。
どうしてよりによって、そんな男性と結婚してしまったのでしょう。
それは、明確な理由があるわけではなくて、何かぐっと魅かれるものがあったのでしょう。
周りの人は、「あんな男は絶対にやめときなさい」と反対したのですが、その奥さんは、そんな男性を好きなってしまう業(因)が奥さん自身にあったのです。

他の女性は、そんな男性がそばにいても、好きになってしまうとう業がありませんでしたから、結婚して苦しむという結果にはなりませんでした。

他の人にはなく、奥さん自身にしかない、こんな男性を好きになってしまうという深い業があったから、この奥さんがこんな男性と結婚して苦しむという結果が起きたのです。

なぜ自分に現われたのか、他の人にない原因が自分にあったから
そういう意味で、自因自果と言われます。

もちろん悪いのは夫ですが、それは因ではなく縁となったのです

では、「夫は悪くないのか?悪いのは、そんな男を好きになった奥さんというのか?」と思われる方もあるでしょう。

ここで、誤解されないようにしてほしいのですが、どちらが、良いのか悪いのかということを言われているのではないのです。

真面目に働かない夫はもちろん、倫理道徳的に見ても、善いとはいえません。ですが、そんな男性は、世の中、必ず、いるものです。
しかし、どうして、私がそんな男と結婚して、苦しまねばならなかったのかということは「夫が原因」では、説明が付きません。

なぜ私だったのか、それは私にしかない原因があったからということなのです。
奥さんと夫、どちらが悪いかといえば、当然、夫が悪いに間違いありません。しかし、それは原因ではなく悪い縁となったと説かれるのです。

因はあっても縁がなければ結果は生じない

どんな結果にも必ず原因がありますが、原因だけでは結果となりません。因に縁が合わさって初めて結果になるのです。
奥さんが、こんな男性を好きになってしまうという業を持っていてもそんな男性が周りにいなければ、一緒になって苦しむという結果は起きませんでした。
ところが、因と縁がそろってしまったのです。
奥さんのまわりの女友だちは、こんな男との縁はありましたが、そんな男性を好きになるという業(因)はありませんでしたので、結婚して苦しむという結果は起きなかったのです。

縁を恨んでも、苦しみの縄から抜け出すことはできない

苦しいことやうまくいかないことが起きますと自分自身に目を向けず、環境や条件、関わっている他の人に、その原因を求めます。
この奥さんの場合だと、夫をウラミ、自分が苦しむのはこの夫のせいだと思うでしょう。
しかし、相手を恨んでも、今の苦しみから抜け出すことはできません。
仮に、別れても、自分の内面に目を向けることができなければ、同じような人と出会って同じような苦しみが続くかもしれません。
縁を切ってしまうことも一つの方法でありますが、大事なことは、どうして、そういう人を選んでしまったのかという自分の内面に目を向けていくことが大事です。